加藤秀俊 一年諸事雑記帳(上) 1月〜6月 目 次  一  月  二  月  三  月  四  月  五  月  六  月  この本はつぎのようなばあいに役立ちます [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 一 なんらかの理由で知ったかぶりをしたいとき、またはしなければならないとき 一 知ったかぶりをする人間をからかいたいとき、またはその必要のあるとき 一 退屈な会議、講演などで精神的苦痛にたえがたいとき 一 虫歯がうずき、または頭痛がするなど、軽度の肉体的苦痛をまぎらせたいとき 一 悪天候下の飛行機旅行など不安感におそわれたとき 一 眠りたいとき、または眠ってはならないとき 一 コラム執筆者、コピー・ライター、ディスク・ジョッキーなどが話題に窮したとき 一 酒を飲み、あるいは乾盃するにあたってそれを正当化する歴史的事実を必要とするとき 一 書物を読んでいるふりをしたいとき、またはしなければならないとき 一 その他、読者の創意によって他の任意の利用法が発見されたとき [#ここで字下げ終わり]  なお、この本は、きっちりと机にむかって熟読するには適しません [#地付き]著者敬白    [#改ページ]   一  月   1月1日 ■明朝体と原稿用紙■黄檗山万福寺の住職であった鉄眼《てつげん》禅師は、一六三〇(寛永七)年一月一日の誕生である。二五歳のとき、隠元国師に学び、木版による『大蔵経』の刊行を決意した。黄檗山の開祖たる隠元はこれをよろこび、明からもってきた『大蔵経』の刻本を鉄眼にあたえ、また、山内に版木をつくる工房をつくった。  この巨大な作業の進行は、ひとえに資金の調達にかかっていた。鉄眼は全国を行脚してみずから募金活動にその人生を賭けた。版木の材料にはすべて吉野の桜材を用い、版木一枚を彫るために一両を要した。本文の版木の数は四万八千枚余、これに、語録類や予備板を加えると六万枚をこす。つまり、六万両という巨額の資金を鉄眼は必要とし、しかも、それをあつめることに成功したのである。そのうえ、この作業の進行中に近畿地方では洪水や飢饉がつづいた。鉄眼は、英断をもって、刊行用にあつめた資金の一部を割いて救済費にあてた。その完成は一六八一(天和元)年であり、鉄眼はその翌年、五二歳で没した。  なお、この『大蔵経』で用いられた文字がその後、こんにちまでつづいている明朝体活字の基本になったし、この版木が二〇字詰二〇行で彫られていたことが、四〇〇字詰原稿用紙の原型となった。 ■最初の旅客機■運賃をとって旅客輸送をする旅客機がはじめて就航したのは一九一四年一月一日である。使用された飛行機はベノイスト一四型複座飛行艇で、その就航区間はアメリカ・フロリダ州のタンパから、セントピータースバーグをむすぶ三〇キロ。これを一日に二便以上飛んで、四カ月のあいだに一二〇〇人の旅客をはこんだ。  旅客機、といっても、これはパイロット一人、乗客一人という飛行機で、料金は体重九〇キロ以下の人は五ドル、それ以上は割増料金、という運賃計算であった。この二地点は、湾をはさんでおり、陸路だと六〇キロの距離のところであったから、たいへん好評であったらしいけれども、乗客一人で採算のとれるはずもなく、四カ月で中止になった。  この年、第一次大戦が勃発し、航空機の技術が進歩したうえ、戦後には、空軍パイロットの失業者もふえた。したがって一九一〇年代の後半は、民間航空の胎動期とみることができる。すなわち、一九一九年には、英・独・仏の三カ国で合計二〇以上の航空会社が設立された。そのトップを切ったのはドイツであって、ベルリンとワイマールをむすぶ定期旅客輸送がはじまった。これは、戦争中に使われた偵察機の後部に二人ぶんの座席をつくっただけのものであった。ついでフランスのファルマン社が、パリとブリュッセルのあいだに国際旅客輸送をはじめた。こちらのほうは、双発爆撃機の改装型で旅客数は一二人。週一便で、所要時間二時間四五分、料金は三六五フランという記録がのこっている。  ちなみに、ヨーロッパの花形路線、ロンドン・パリ間を飛んだのはイギリスのATT社の複葉機で、これも一九一九年に処女飛行がおこなわれたが、その第一便の旅客は一人だけであった。 ■完全ミステリー■一九六三年一月一日、シドニーのレイン・コーヴ河で男女の死体が発見された。男は、オーストラリアの高名な医学者スタンレー・ボーグル博士であり、女はかれのガール・フレンドであった。かれらの着衣は一部はぎとられていたが、新聞紙がかぶせられていた。シドニー警察はもとよりのこと、国際警察、はてはアメリカのFBIまでが動員され、このミステリーの究明にあたったが、いかにしてこの殺人がおこなわれたか、その犯人は誰か、またその動機は何か、まったく手がかりは残されていなかった。迷宮入り殺人事件はほかにもたくさんあるが、犯人、動機、方法の三点のうちいずれかはあきらかにされている。犯罪史上、この三点すべてがミステリーにとざされているのはこの事件だけである。   1月2日 ■楊貴妃の失敗■玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスは中国史をいろどる大メロドラマ悲劇だが、このしあわせなふたりを引き裂いた原因は、どうやら、もとをただせば楊貴妃の判断のまちがいにもとづくものであったらしい。  というのは、西域からやってきた怪人物、安禄山が、玄宗にとりいるため、楊貴妃をたずね、じぶんを養子にしてくれ、とたのみこんだのを彼女が受諾したからである。安禄山は彼女より一五歳も年上、親子とまではゆかないまでも、楊貴妃からみればオジサン。いかにもグロテスクな養子だが、この縁組みが成立したおかげで、安禄山はトントン拍子に出世した。  玄宗もかれを深く信頼し、北辺の警備すべてを安禄山にまかせた。とはいうものの、中国はその国土もひろく、中央政府からの統制はききにくい。安禄山は、たくみに私兵をあつめ、大軍を編成してにわかに叛逆の旗をかかげた。なにしろ、安禄山は、中央アジアの騎馬民族の血をうけた人物である。政府軍はひとたまりもなく安禄山のクーデターに敗北し、あっというまに洛陽は陥落してしまった。叛乱軍は、ついで長安に迫る。かつてあれほど忠誠を誓っていた人物が、いまや玄宗と楊貴妃を血祭りにあげようとしているのである。ここから、ロマンスは悲劇に転じてゆくのだ。  だが、その安禄山は、洛陽にあって重い病にかかっている。歓楽と過労でもはや失敗寸前。そこへもってきて、後継者を誰にするかというお家騒動が起きた。そして、そのゴタゴタのなかで、実子の慶緒によって暗殺される。七五七年一月二日のことであった。 ■墨の起源■中国で墨が用いられた記録は古く、殷《いん》の時代にすでに骨片に墨書されたものがのこっている。漢代になると、炭素の粉末にニカワを加え、これを硯《すずり》のうえですって文字を書き、やがて、こんにちのような、練り墨ができあがった。一世紀のおわりごろのことである。  日本では七世紀のはじめ、高麗から製墨法がつたわり、延喜式によると、四人の墨つくりがいて年間合計四〇〇本の墨をつくった、とある。一五世紀になって、奈良の興福寺の坊さんたちが、灯明の煤《すす》を墨の原料にすることを思いついた。さらに、中国地方の山地で暖房や調理用に松材を使っているのを見て、その油煙を応用することに着目。このあたりから、奈良は日本での墨の生産地としてうごかしがたい首位の座をしめることになる。  一月二日は書き初めである。   1月3日 ■ジョン万次郎の帰国■日本の漁船で太平洋に漂流、あるいは遭難したものの数はおびただしい数にのぼる。一八四〇(天保一一)年、四人の仲間とともに海に出た土佐の漁師万次郎もそうした遭難者のひとりである。嵐にまきこまれ、太平洋中部の無人島に漂着したこの船乗りたちは、奇蹟的にアメリカの捕鯨船に救助され、ホノルルに送りとどけられたが、そのなかで、万次郎はひときわ聡明で快活であったため、捕鯨船の船長にかわいがられ、大西洋岸まで連れていってもらい、航海術、操船術から捕鯨技術まで、手をとるようにして教えられた。その間、英語学校にもかよったし、カリフォルニアの金鉱ではたらいていささかのたくわえもつくった。アメリカ人は、かれをジョン・マン、という愛称で呼び、万次郎は、アメリカ文化のなかに生きるにじゅうぶんな能力を身につけたのである。なにしろ、救助されたときがわずか一四歳だったのだから、語学の習得がはやかったのも当然というべきであろう。  しかし、やはり日本に戻りたかった。一八五一(嘉永四)年、万次郎はすでに二五歳である。ふたたびホノルルに帰ったかれは、その地にとどまっていた伝蔵、五右衛門の兄弟とともに、アメリカ船「サラ・ボイド」号に乗って、一路、西へ針路をとった。そして、その年の一月三日、万次郎はついに琉球列島にたどりついた。折しも日本は幕末の争乱のまっただなか。アメリカ帰りの万次郎は、いっぽうでは警戒されながらも、他方では、数すくない通訳として珍重された。とにかく、初期の日米交渉を正確かつ円滑にはこぶためには、万次郎のような人物がどうしても必要だったのだ。かれは故郷の土佐で三日間をすごしただけで、すぐに江戸に連れてゆかれた。奇《く》しくもこの日、江戸では、付焼刃的に「語学所」が開設され、インスタント英語の学習がはじまっている。 ■洋服第一号■一八六八(明治元)年一月三日は鳥羽・伏見の戦。このとき、薩長を主力とした官軍のなかでひときわ目立ったのが佐賀藩の兵士たちである。他藩の銃がおおむね旧式の先込め銃であったのに佐賀藩は新式の元込め銃で装備している。さらに、佐賀の兵士は、きっちりした洋服を着て背嚢《はいのう》をしょっていた。この佐賀藩の軍服が近代日本の洋服のはじまりだが、佐賀では長崎の出島もあり、幕末の洋風化は急ピッチで進んでいたらしい。藩では、深川長兵衛なるものをフランスに派遣したり、ラシャの製造工場を開設したりしていた。それが鳥羽・伏見の洋服となって登場したのである。   1月4日 ■銀行家とカラー写真■フランスにアルベール・カーンという銀行家がいた。かれはアルザス地方の出身で苦学力行の人物。銀行の社員を振出しに、順々に蓄財して、三一歳のときには、南アフリカのダイヤモンド鉱山に投資して巨額の利益を得て、みずから銀行の頭取になった。その金で、かれは豪邸を求めたり、公園をつくったりしたが、同時に、世界各地についての民族誌的資料をあつめることを志し、ルミェール兄弟の開発したカラー写真(オートクローム)を利用して、各地の風物をカメラにおさめる事業に手をつけた。といっても、カーン自身が旅行しシャッターを押すというわけではない。かれは何十人もの写真家を動員して、世界三八カ国に派遣し、カラー写真を撮影させたのである。期間は一九〇九年から二九年までの二〇年間におよび、その取材先はアフリカから外蒙古にまでひろがった。こうして得られたカラー写真の枚数は七万二〇〇〇枚。この蒐集をカーンは「地球図書館」と名づけたが、いかんせん、その保存状態はきわめて悪く、ほとんどがボロボロになってしまっていた。一九七〇年代になって、このカラー写真のコレクションが発見され、技術者たちは、その一部を復元して写真集の製作をはじめたが、これは、カラー写真集としては、最古、かつ最大のものというべきであろう。  なにがカーンをこのような事業に駆り立てたかはつまびらかではないけれども、かれの学校時代の先生が哲学者のアンリ・ベルグソン(一九四一年一月四日没)であったことが関係しているかもしれない。じじつ、写真班を各地に派遣するに先立って、カーンは、ベルグソンをはじめ、民俗学者のG・フレーザー、作家のアナトール・フランス、詩人のポール・ヴァレリーなど、最高の知識人をあつめたサロン「地球クラブ」をつくり、そのスポンサーになっているのである。こういうふしぎなコスモポリタンが一九世紀のフランスにはいた。 ■大食漢の生涯■どれだけたくさんの食べものをいちどに食べることができるか、というゲームがむかしからあり、とりわけ正月の餠の食べくらべなどという行事も地方にのこっているが、質・量ともに大食の人間ということになると、おそらく「ダイアモンド・ジム」ことJ・ブラディにとどめをさすだろう。  ブラディは一八五六年、ニュー・ヨークの貧民窟に生まれ、鉄道の駅のポーターを振出しにつぎつぎに金をかせぎ出し、億万長者になり、衣服は金やダイヤモンドで飾り立てた。かれは一四金の総メッキの自転車をつくり、その自転車のハンドルにはルビーが埋めこまれていた。これでセントラル・パークを散歩する。キザな成金趣味もいいところだ。  しかし、かれの最高の道楽は美食・大食であった。朝食には、卵のほか、魚のフライ、ステーキ、それにかならず毎朝一・五リットルのオレンジ・ジュースを飲む。一一時半には昼食前のスナックと称して二ダースのカキまたはハマグリ、昼食には伊勢エビを三匹とステーキ、午後の間食には魚料理、そして夕食はかならずブロードウェーの高級料理店「レクター」で、まずカキを三ダース、カニを六匹、カメのスープを前菜とし、そのあとで伊勢エビ七匹、カモを二羽ぶん、それに大きなサーロインステーキ、そして食後のデザートに約一キログラムのチョコレートを食べた。  ある日、パリの「カフェ・マルグリート」の魚料理に使われるソースの味のよさにかれは感動し、「レクター」の主人に、あの味の秘密を盗んでこい、さもなければお前の店をとりつぶすぞ、と脅迫的な命令を下した。コーネル大学で勉学中だった「レクター」の主人の息子は、さっそく学業を放棄してパリに出発し、まず皿洗いからはじめて、三年めにやっとソースの配合の秘密をさぐり出し、ニュー・ヨークに戻った。ブラディは、かれを波止場で迎え、そのまま「レクター」にひっぱっていって、ソースをつくらせ、六人前の魚料理をたいらげた。  当然のことながら、かれは胃腸障害をおこし、一九一七年、六一歳で死んだ。死後の解剖によると、かれの胃の大きさは正常人の六倍の大きさであった。ブラディの遺産は、ことごとく、この消化器系の治療にあたったジョンズ・ホプキンス大学医学部に寄贈された。   1月5日 ■ネオンの悲劇■一九一九年一月五日、ナチス党が結成された。これに先立つこと一〇年、フランスの物理学者であり化学者であったG・クロードは、ネオンを封入したチューブのなかで放電させると、おもしろい輝きの効果が得られることを発見して、ネオン・サインをつくった。最初のネオンは、こんなふうにして、まずパリに登場した。一九一〇年のことである。  それ以来、ネオンは世界のいたるところにひろがり、繁華街の夜を彩る風物になったけれども、一九二〇年代になって、ナチスの力が強くなると、クロードは、ヨーロッパの将来を制するのはナチスであると判断し、すすんでドイツに協力した。その政治的行動のゆえに、クロードは第二次大戦後、ナチスへの協力の罪に問われ、有罪が確定して無期刑を言いわたされた。ネオンの発明者は、皮肉なことに、第二次大戦後のネオンの氾濫をその眼でみることができなかったのだ。 ■足利家と雑煮箸■新年ということになると、三ガ日のあいだは雑煮で祝う、というのが全国的な年中行事であって、その起源は、南北朝のあと、後醍醐天皇の曾孫にあたる皇子が一四三六(永享八)年尾張で正月元日にハマグリの吸物、ダイコンの輪切、ゴマメの膾《なます》で雑煮を召しあがったところ、その年以来、それまでのさまざまな艱難が消えた、というところにあるらしい。それにちなんで皇子に随行していた尾張や伊勢の豪族たちが雑煮を新年の祝膳にしたのである。  ところが、八歳で足利家の七代将軍となった義勝が、正月の雑煮を食べていたところ箸が折れてしまった。なにか不吉なことが起きなければいいが、と心配していたら、秋に落馬して死んでしまった。そこで、翌年からは折れないように、柳でつくった太箸を用いることになった。こんにちの正月の祝箸は、このときの足利家の事件をその起源としている。 ■バクチの話■一九五六年一月五日、アメリカの女優グレース・ケリーはモナコ国王との婚約を発表したが、モナコはいうまでもなく、カジノからの財政収入に負うところがすくなくない。バカラだのルーレットだの、バクチがカジノでは堂々とおこなわれているけれども、世界の多くの社会ではバクチは禁止されている。日本では、八世紀のなかば、七五四(勝宝六)年にはじめて禁令が出され、これによると「このごろは役人も百姓も勝手に双六トバクにふけり、子は親をかえりみず、なかには家業を完全につぶしてしまった連中もいる……」うんぬんとあり、鎌倉時代になると、全財産はおろか、居宅まで賭けるバクチ狂が出現し、それがこじれると喧嘩殺人にまでおよんだ、と『貞永式目』に書かれている。  ちなみに、バクチ用語でこんにちも使われている「チョボ」なることばは、『令義解《りようのぎげ》』に「謂賭博戯者双六|樗蒲《チヨボ》之属」とあるから、その語源は大宝律令のころまでさかのぼることができるわけだ。   1月6日 ■火事師?■「しごとし」ということばがある。ふつうには、このことばは「仕事師」と理解されており、しごとを熱心にする人、あるいはしごとの段どりがじょうずで抜け目のない人、といったような意味をもつとされているが、ほんとうは「火事師」、つまり江戸の町火消のことを意味するのだ、という説がある。江戸ッ子は、よく知られているように、ヒとシの音の区別がつかない。そこで「ひごとし」が「しごとし」になったのだろう、という。 「火事と喧嘩は江戸の華」などといって、江戸ッ子は火事に一種特別の意味をあたえており、その消防体制はおなじみの、いろは順の各組編成であった。当時、日本を訪れた外国人はその消防組織に感心し、江戸には四八組、合計四万八〇〇〇人の消防夫がいる、と書きのこしている。火消の目的は、もちろん、鎮火活動につとめ、延焼を最低限にとどめることであったけれども、火事が大きくなればなるほど、それをよろこんだ人たちもいる。それは、大工、左官をはじめとする職人たちである。たとえば明暦の大火のような大火災が起きれば、その後始末と再建のために一〇年間は仕事にあぶれることがなかったからだ。そういう、「仕事師」たちが、いったん火事になれば「火事師」をも兼任していたのであるから、かんがえてみれば、文字どおりの「マッチ・ポンプ」であって、「しごとし」の語源はどちらでもいいようなものなのかもしれぬ。きょうは、消防出初式。 ■コタツとキャタツ■きょうは寒の入り。このごろではさまざまな暖房装置がゆきわたったが、依然として電気ゴタツの人気はおとろえない。だが、そもそもコタツとはなんのことなのであろうか。炬燵などというむずかしい漢字を使うが、あれはペダンチックな五山の僧のつくった和製漢語。もともとは、小型の踏み台としておなじみのキャタツとおなじ語源から出ている。つまり、炉のまえ、あるいはカマドのまえに簡単な腰掛のようなものをつくり、そこに腰をおろして暖をとったのだ。さらに、その暖房方法にヒントを得てヤグラを組み、イロリの上に置くことになった。イロリは薪をくべるが、ひとが寝る時間になると、灰のなかにオキだけがのこる。すこし煙が出ることはあっても、そのころにヤグラを置き、ふとんをかけて足をあたため、茶飲み話をしたり、そのまま眠ったりした。長野県などには、長さ二メートルにちかい大きなヤグラがあり、これをユリゴタツといった。ユリとはイロリのことである。蛇足ながら、こんにちの腰掛式コタツを発明したのは日本を愛したイギリスの陶芸家バーナード・リーチ。しかし、かんがえてみれば、これでふたたび原型のキャタツに戻ったということになるのかもしれぬ。   1月7日 ■ダゲールの策略■近代写真術の父ともいうべきL・ダゲールの最初の写真機がつくられた事情については別項(八月一九日)にくわしいが、これを事業化することはじつのところけっして容易ではなかった。いやむしろ、この発明にたいして母国フランスはきわめて冷淡であった。そこでダゲールは一策を案じ、この新発明をイギリスやロシアが買収したがっている、というデマをばらまいた。案の定、さっそくパリの天文台長がそれをききつけて、絶対に外国にこの秘密を売りわたしてはならない、と力説した。一八三九年一月七日のことだ。  それが契機になって、「ダゲレオタイプ」はフランスの国家機密として買いあげられ、そこからかれの写真機製造事業が軌道にのりはじめた。だが、この国家機密はすぐに洩れてしまった。翌一八四〇年には、はやくもイギリスのW・タルボットが「タルボタイプ」を開発、さらに一〇年ほどたつと、おなじくイギリスのF・アーチャーがより安定した「湿板写真法」を完成させた。乾板が発明されたのは、それからさらに二〇年後の一八七一年である。 ■最初のUFO■いわゆるUFO(未確認飛行物体)なるものが報告されたのは、一九四八年一月七日のことであった。場所はアメリカ、ケンタッキー州のルィズヴィル。この日の午後一時ごろ、警察のハイウェー・パトロールからゴッドマン空軍基地に電話が入り、いま飛んでいる異常な飛行物体は何か、という問いあわせがあり、ひきつづき、同様な電話がいくつもかかってきた。やがて、空軍基地の管制塔の係官も、そのふしぎな飛行物体を目撃した。基地では緊急会議がひらかれ、ちょうどそのとき訓練飛行中であったF・51戦闘機四機にこの飛行物体を確認するよう命令した。マンテル大尉を指揮官とする四機は、さっそくこの物体を追跡した。  四機のうち一機は燃料不足で基地に帰投したが、三機は、追跡をつづけた。高度三三〇〇メートル。F・51は酸素マスクを装備していなかったので、これ以上の上昇ができなかったのである。だが、どういうわけか、司令機のマンテルの操縦する飛行機だけは上昇をつづけ六〇〇〇メートルまで達し、僚機はマンテル機を見失った。マンテルは地上に連絡をつづけていたが、意味不明のことばをさいごに消息を絶った。  マンテルは極端に細心で、飛行技術も抜群の人物であったから、かれがこんなに常識はずれの高度まで上昇したのは「おそらく、かれじしんの生命より重大な何ものかを発見したからにちがいない」と同僚たちは語りあった。基地に戻ったパイロットたちによると、このUFOは、「空中で爆発しそうな物体で、きわめて高い高度で移動していた」という。また、マンテルの追跡中の報告はテープにとられているが、「この物体は巨大で、金属製とおもわれる。時速は五〇〇キロ。追跡をつづける」とある。しかし空軍の正式記録では、おそらく金星を見まちがったのではあるまいか、ということになっている。 ■気球ドーバー海峡を渡る■ノルマンディ生まれのブランシャールは機械技術工としてその人生のスタートを切ったが、やがて気球による実験的飛行をこころみる。そして、気球のりとして世界をあっといわせるため、英仏海峡を気球で飛ぶという計画を立てた。かれはイギリスに渡ってパトロンさがしをはじめたが、じゅうぶんな金があつまらない。そんな矢先、たまたまロンドンに在住していたアメリカのJ・ジェフリー博士なる人物が財政面のめんどうを見よう、と申し出てくれる。ブランシャールは深くそれに感謝し、ドーバーで気球の製造にとりかかった。  ところが、めんどうなことが起きた。ジェフリー博士が、この気球に同乗させろ、といいはじめたのだ。ひとり用に設計された気球なのだから無理だ、といっても、おれはスポンサーだ、乗る権利がある、というわけ。ふたりのあいだにいろいろとやりとりがあり、結局、ジェフリー博士も同乗して気球はドーバーを離陸した。一七八五年一月七日のことである。  気球は無事に西風にのってフランス海岸へむかったが、すこしずつ下降しはじめた。バラストを捨てても効果がない。ふたりは、積みこんであった荷物を捨て、高価な観測機械を捨て、できるだけ軽くすることをこころみたが、再上昇しそうにない。そこでこんどは服を脱いで捨てた。下着までもドーバー海峡にほうりこみ、素っ裸になった。海面は眼下わずか二メートル。さらに重量を減らすため、ふたりは海にむかって放尿した。もうフランスは眼の前である。カレーの町がみえる。すると突然、あたたかい風が吹いてきて気球はいきなり上昇をはじめた。気球の着地用のロープは地上にとどかない。ついさっきまでと事態は逆になった。こんどは、上昇しすぎてしまったのである。海岸線から二〇キロほどはいったところで、やっと弁を操作して気球をしぼませ、ブルターニュの森に無事に軟着陸。ふたりは、英雄となった。だが、ドーバー海峡に挑戦したこのふたりの冒険家たちは、ともに完全なカナヅチでぜんぜん泳げなかったのである。   1月8日 ■マルコ・ポーロとアイスクリーム■暑いときにつめたいものを食べる、というのは王者の特権であった。エジプトのファラオは、二重になった銀製の器の内がわに雪をつめ、果汁を冷やして客に振舞ったというし、ローマでは、ネロがアルプスの氷と雪を果物輸送のために使っていた。日本でも、江戸時代に加賀藩の「お雪献上」という行事があり、現在の北アルプスから、万年雪をはるばると江戸にはこんで徳川家に献上したのであった。  しかし、氷の保存技術に関しての先進文明国は中国である。つまり、中国の王宮では、冬のあいだに凍った水をそのまま氷塊にして地下室に貯え、もろもろの氷菓を年間をつうじてつくっていた。王宮だけではない。マルコ・ポーロ(一三二四年一月八日没)が中国を訪ねたとき、かれは、北京の街頭で牛乳を原料とした氷菓子を売っているのを見聞している。ヨーロッパには、このアイスクリーム製法がマルコ・ポーロの手によってもたらされ、一三〇〇年ごろ、トスカナのベルナルド・ブオンタレンティなる人物がそれを商品化して売り出した。  ただ、この当時までの氷菓は、まだこんにちのアイスクリームの観念からはほど遠いものであって、クリームを多量にふくんだ混合物を冷凍することに成功したのは一五五〇年になってからである。この発明者は、ローマ在住のスペイン人医師ヴィラフランカで、かれは雪に硝石(のちに塩)を加えることで低温が得られることを発見した。フィレンツェの人びとは、この技術を利用して、アイスクリームの大規模生産を開始した。イタリアは、こんなふうにして、アイスクリーム生産国として知られるようになってきたのである。  じっさい、一九世紀になって、ロンドンに製氷会社がつくられると、イギリスにいたイタリア移民は、さっそくアイスクリームを製造して売りはじめた。その売り子たちが「エッコ・ウン・ポコ」(ひと口いかが)と通行人に呼びかけたので、この売り子たちのことをイギリス人は「ホッキー・ポッキー・メン」と名づけた。 ■九州の捕鯨■九州の西海岸地方はクジラが沖合にあらわれることが多く、そのたびに漁師たちは銛《もり》をもってクジラをとっていたけれども、深沢儀太夫、山田茂兵衛らが江戸期のはじめから網取法という漁法を開発した。これはクジラの体に網をかけ、身うごきできないようにしてから何人もがそれをとりかこみ、心臓を狙って銛を打ちこむ方法である。これだと、単純な銛打ちとちがって、クジラに逃げられる心配もなく確実であったから、捕鯨業はにわかに活気を呈し、五島の有川などでは、年間に二〇頭ちかくのクジラを獲ったこともあった。クジラ漁の漁師たちは組をつくり、有川の江口組のばあいなどは、海上ではたらく漁師四〇〇人、納屋働きの労務者一〇〇人という規模を誇った。  クジラ一頭をとるだけで莫大な金がころがりこんだから、船大工、桶屋、鍛冶屋などが瀬戸内あたりから出稼ぎにやってきた。そして捕鯨は、地場産業のひとつにもなったのである。じっさい、肥前|生月《いきづき》の益富家などは一七二五(享保一〇)年から一八七三(明治六)年までのおおよそ一五〇年間に二万頭のクジラをとり、合計三三〇万両の収入を得た。  こうした捕鯨基地の繁栄ぶりを見るため、司馬江漢は一七八八(天明八)年の暮に生月にわたり、翌年一月八日まで同地に滞在したが、ちょうど正月のことでもあり、網元の家を訪ねてみたら、その家の娘はチリメンの美しい着物を着て、髪は江戸ふうに結っていた。また、浜では小屋掛をして芝居の興行がおこなわれており、人形芝居もあった。現金経済に潤《うるお》う捕鯨漁村のありさまがよくわかる。  ちなみに鯨肉のうち脂肪層をなす白肉は、いったん煮て油をとり除いたあとの肉を乾燥させたものをコロと呼び、西日本で愛好されたし、赤身も九州では食用に供せられていた。   1月9日 ■パリの都市計画■パリの街並みは美しい。とりわけ、凱旋門その他いくつかの円型の広場を中心にして放射状にひろがる街区の美しさには誰しもが感心する。しかし、これだけの完成された都市計画が可能であったのは、ナポレオン三世(一八七三年一月九日没)の絶対権力があったからである。  ナポレオン三世は、ナポレオン・ボナパルトの直系の孫ではない。いささかややこしいが、かれはボナパルトの弟、オランダ王ルイの第三子にあたるジョセフィーヌの前夫の娘オルタンスを母として生まれた。血はつながっているが、この関係はきわめて錯綜している。ただ一八三二年、ナポレオン二世ライヒシュタット公が病没したので、かれがボナパルト家の首長となった。当然の理由から、かれはフランスの土をふむことができず、幼少年期からは亡命の連続。ときにはスイスに、あるいはイギリスに、はてはアメリカにまで亡命をつづける。  しかし、一八四八年、四〇歳のときフランスの補欠選挙に当選し、さらに新憲法にもとづく大統領選挙に出馬し、同年一二月、総投票数の七五パーセントを得て堂々と第二共和国の大統領になった。かつてのナポレオン一世時代への復古主義もかれを支えたし、また共産主義の脅威におののく資本家階級もかれを支持したからである。そして、三年後にはクーデターを断行して議会を解散し、一八五二年には国民投票によって皇帝となった。  かれは若いころ『ナポレオン的観念』という著作を書き、そのなかで大ナポレオンを礼讃していたし、その政治的信念はかわらなかったから、このように帝政を復活したことは、要するに、かれの夢の実現であったといってよい。絶対権力をにぎったナポレオン三世はスペインからウージェニー妃を迎え、パリはヨーロッパ外交の中心地となった。クリミヤ戦役には成功するし、フランスは王政復古によって経済、文化の面で息をふきかえすのである。  そのナポレオン三世にとって気に入らぬことがひとつあった。それはパリの街並みがあまりに雑然としていたことである。このさい徹底的な都市改造を断行しよう、というので、かれはセーヌ県知事オースマンに命じてあらたな計画図を描かせ、それにしたがって道路工事を断行した。邪悪な建物はどんどんこわしてしまう。言うことをきかない地主がいても大砲でおどかす。談合も妥協もなく、とにかく権力によって、オースマンのつくった青写真のとおりにパリを整備してしまったのだ。こんにちのパリの街区の美しさは、皮肉なことにナポレオン三世の絶対権力によってはじめて形成されたのである。ローマの旧市街は帝政ローマの権力を背景にしていたし、ドイツのみごとな高速道路網アウトバーンはヒットラーの権力が可能にした。しょせん、壮大な国土計画、都市計画と話しあい民主主義は共存しえないようなのである。 ■ディジョンの鐘■ディジョンのノートルダム聖堂には、世界最古の時報用の鐘楼がある。これは一八三八年につくられたもので、ジャック・マルクなる人物の設計にかかるものといわれる。この時計には、青銅製の人物像が二体とりつけられており、これが鐘を打つという仕掛けになっている。物好きな数学者が歴史的考証をふまえて計算したところ、この鐘楼の鐘は、一九五〇年の一月九日までに、合計三二二八万四九八八回鳴った、ということがわかった。   1月10日 ■最初の地下鉄■一八四三年、チャールズ・ピアソンはロンドン市に対して世界最初の地下鉄システムを提案した。チャールズの提案はその後一〇年たってやっと議会で取りあげられ、一八六三年の一月一〇日、世界ではじめて地下鉄というものがイギリスの町を走ったのである。ロンドンのパディントンのファリンドン通りとビショップス・ロードを結ぶ全長六キロの区間がその最初の運転区間であったが、当時の地下鉄はまだ電化されていなかったので、乗客は顔や手足に黒いススをたくさん受けながら乗っていなければならなかった。地下鉄が電化されるのはそれから約三〇年後の一八九〇年代に入ってからである。ロンドン市内どこでも二ペンスで乗れるようになり、大評判となった。 ■神秘の南緯四〇度■太平洋の冒険航海家マゼランは、その航海に先立ってポルトガル王室図書館の秘密文庫で一年間をすごした。そこにはエンリケ王子のころからの極秘文書が収蔵されていたが、そのおびただしい資料のなかから、マゼランは一枚のドイツ語で書かれた報告書を発見した。それは、マウクスブルグのヴェルザー商会に宛てて書かれたもので、「あるポルトガル船の水先案内が、ほぼ南緯四〇度あたりに一つの岬、つまりアフリカの喜望峰に相当する岬を発見してそこを廻航した。……したがってこの航路を経て太平洋に出ることは容易であろう」という記述があった。マゼランがその大航海をこころみたのは、この文書を読んだことによる。  マゼランが五隻の船団を組んでイベリア半島を出港したのは一五一九年九月。途中カナリア諸島で物資を補給したのち大西洋をひたすらに南下して、一二月にはリオ・デ・ジャネイロに到着。そこで二週間休養をとってから、さらに南に針路をとる。やがて年があけて一月一〇日、南緯四〇度ちかくに達した。例の秘密文書にあったとおり、西にむけてひろい水面がみえる。マゼランはためらわずその方向に船をすすめた。ところがその後一五日間にわたって航海をつづけたけれども、いっこうに太平洋は見えてこない。  マゼランはそこでじぶんのまちがいに気がついた。要するに、それは岬ではなく、ラプラタ河の河口であったのだ。船乗りたちは指揮官たるマゼランに対する疑惑をいよいよ深めるが、マゼランは敢然としてさらに南下を命じた。かならずや新大陸の南端には岬があるはずだ、という信念はかわらない。二月、三月と、北半球では春のはじまりだが、南下する船団は南氷洋の冬に突入しはじめていた。冬ごもり。そして陰惨な船団内の叛乱。それからほぼ一年ちかくの労苦の末、一五二〇年一一月、やっとマゼランはホーン岬を通過し、太平洋に出ることができた。ちなみにホーン岬の位置は南緯五五度である。   1月11日 ■家光と鏡餠■一月一一日は鏡開きということになっているが、一七世紀なかばまでは、この行事は正月二〇日におこなわれるのが慣例であった。元来、鏡は女性の象徴であり、したがって、鏡開きは、鏡餠を煮て女性の祝日、ということであったのだが、武家ではこれを具足餠と呼び、男子のために祝った。すなわち軍事のシンボルともいうべき鎧を床の間に飾り、そのまえに餠をそなえたのである。二〇日、という日がえらばれたのは「初顔《はつかを》祝う」のが起源ともいうし、ハツカが、刃柄、つまり刀剣に通ずるからだ、ともいうが、いずれにせよ語呂あわせであることにかわりはない。鎧に供えた餠だから、これを刃物で割ることを忌み、もっぱら、槌で割った。  ところが一六五一(慶安四)年四月二〇日に三代将軍家光が死んだ。二〇日は将軍の命日である。だから、物忌みをしなければならぬ。そこで翌年、つまり慶安五年から日取りを変え、一一日にした。それ以来、この日が鏡開きの日になったのである。ついでながら、この鏡開きで小片に割れた餠は汁粉にいれるのがふつうだが、武家社会では、小豆は腹が切れる、といって嫌い、そのかわり蕪《かぶ》の葉を矢じり草と称して、それをあしらった雑煮をつくった。おしなべて汁粉になったのは女性文化の支配する太平の世がつづいたからであろう。 ■カイホウかカイチンか■七〇八(慶雲五)年、武蔵国秩父で銅鉱脈が見つかり、さっそく元明女帝に献上された。女帝はこれを大いによろこび、同年一月一一日大赦令を出して罪人たちをゆるし、年号を「和銅」とあらためた。そして、翌二月からは、この銅を鋳造していわゆる「和銅開珎」が流通しはじめる。「開珎」をカイホウと読むかカイチンと読むかは学者のあいだでこんにちも大いに論争のあるところ。カイホウ論者は、この字は寶という字のカンムリとハカマを省いた略記号だといい、カイチン論者は、この字は「珍」とおなじだ、という。  しかし、こんなふうに国産の銅貨がつくられても、その生産量や流通量には限度があり、中国大陸との交渉が深くなればなるほど、中国の貨幣が日本に流入し、事実上、日本国内での取引も中国の貨幣で決済されていたことが多い。こんにち日本にのこるおびただしい宋銭などは、その歴史を雄弁にものがたる。   1月12日 ■はじめての「カネオクレ」■一八六七(慶応三)年一月一二日、徳川慶喜の弟にあたる徳川昭武は一四歳の若年ながら、パリ万国博に将軍の名代としてフランス船で横浜を出発した。折しも、幕末の動乱期である。幕府としては、徳川家こそが日本の代表であることをしめすのがかれにあたえられた使命であった。  昭武をはじめ随員一行はヨーロッパ各地を見学し、あらたな文物の輸入をこころみた。またそれと同時に、フランスから六〇〇万ドル相当の借款をあてにしていたのだが、かれらがヨーロッパを転々としているあいだに日本では政変がおこり、一行は旅費や宿泊費にまでことかくようになってしまった。完全に窮迫したかれらは、ロンドンから江戸に電報を打った。文面にいわく——「クーレーより金あらず、ただちにオリエンタル・バンクに為替組むべし向山」  向山とは、随員のひとり向山隼人正である。文面にいうクーレーとは借款にあたって両国政府間を暗躍した政治ブローカーのこと。当惑の様子がよくわかる。これが日本史上はじめての「カネオクレ」の電報であった。  ところが、この当時の電信は、大西洋を横断する海底ケーブルはサンフランシスコまで、アジアまわりではコロンボまでしかなく、それから先は汽船で日本に送る以外に方法がなかったのである。この大西洋ケーブルによって、この電報がロンドンからサンフランシスコのオリエンタル銀行に届いたのが八月、それから船便で横浜に着いたのが翌九月。かくして一行は資金を手にしたものの、すでに維新の時代。まことに間の抜けたことになってしまった。これもまた幕末秘史のひとつというべきであろうか。 ■マナイタとはなにか■マナイタというのはある意味で日本独自の調理道具だが、もともとは、これは「真魚板」と書いた。つまり、食事のメイン・コースとなるべき魚類を調理するための台である。マナイタの上の鯉、などというように、いったんこの上に置かれた魚にとっては死刑執行台である。  そのような由来によるものだから、むかしは「真魚板」のうえで野菜類を切ったり刻んだりすることは絶対におこなわれなかった。魚以外の食品の調理に使用されたのは「蔬菜板《そないた》」であって、結局、台所には二枚のことなった調理板が置かれ、材料によって、その二枚が使いわけられていたのである。いわば魚菜分離、というわけだ。しかし、のちには簡便法が用いられ、一枚の板の裏と表で魚菜の調理を分離するようになった。一月一二日は、浅草報恩寺のマナイタ開き。開基性信上人の図のまえで、鯉の調理がおこなわれるのが慣例である。   1月13日 ■「金髪のジェニー」秘話■S・フォスターは一五歳のときから作曲をつづけたが、二四歳のとき、J・マクドウェルという女性に深い恋心を抱いた。かれは彼女のために「金髪のジェニー」を作曲し、無理矢理に彼女を口説きおとして結婚した。ところが、ジェニーのほうは、いっこうにフォスターを理解せず、音楽家なんかと結婚するんじゃなかったわ、などと言いだす始末。そして、二回にわたって家出をし、二度目のときは帰ってこなかった。「ケンタッキーの我が家」や「オールド・ブラック・ジョー」などは、この不幸な結婚中にじっと自らをおさえて書いた作品だ。  その後、かれはアルコール中毒になり、食べものをほとんど口に入れず、心身ともに消耗しつくして一八六四年一月一三日に三八歳で死んだ。妻に去られ、家族を失ったかれの最後の作品は「夢みる人」であった。 ■ゾラの大PR■フランス軍のドレフュス大尉がフランス政府の軍事機密をドイツに漏らして法廷にひき出され、スパイ容疑で終身刑を言いわたされたのは一八九四年。いわゆる「ドレフュス事件」がそれである。近代スパイ合戦史のうえで、この事件をおとすことはできない。  しかし、この法廷記録を追ってみると、ドレフュスを有罪とするに足る証拠があまりにも薄弱であることに気がつく。そのうえ、ドレフュスがユダヤ人であったことを考慮にいれれば、いわれなき民族的偏見によってかれが無実の罪を押しつけられた、とかんがえられないこともない。そういう無言の疑惑がすくなからず残った。  そういう疑惑を抱いた人物のひとりに、作家のエミール・ゾラがいる。かれは一八九八年一月一三日の「オーロール」紙に、有名な「私は弾劾する」という文章を発表した。かれはつよい語調でこの裁判にかかわったフランスの将軍たちをひとりひとり弾劾し、ドレフュスの無罪を論じ、そして裁判がいかにインチキであったかを雄弁に論述した。そのうえ、ごていねいにも、この文章はフランス大統領に対する公開質問状という形式をとっていたから、フランス全土はドレフュスをめぐって大さわぎになった。多くの知識人はゾラを支持し、ドレフュスはその八年後、一九〇六年にあらためて無罪ということになった。ドレフュスを救い、この事件の決着をつけたのはゾラということになろう。  だが、うがった見方をする人は、これはゾラの自己PRだ、と解釈する。それというのも『居酒屋』『ナナ』などの自然主義文学で文壇の人気者になったゾラは、一八九〇年代にはいるとかつての名声を失っていたからだ。自然主義はもはや衰退していた。だから、ドレフュス事件を奇貨として、ここで文壇での失地回復のためゾラはこの文章を書いたのだ、というわけ。それは功を奏し、ゾラはふたたび名声をとりもどした。だが、こんどはかれじしんがこの文章のゆえに裁判にかけられ、一年余にわたってフランスを追放されてロンドンですごすことになる。   1月14日 ■トイレと足袋屋■アメリカ留学から帰った新島襄は、キリスト教の精神にもとづいて京都に同志社をひらいたが、それと同時に、アメリカで身につけた生活様式をそのまま日本にもちこむことを決意し、コロニアル風の住居をつくった。こんにちなお寺町丸太町通り上ルに残る新島会館の一隅にその建物は残っている。  大工や左官は器用だから、もっぱら新島の指図や注文にしたがってアメリカ風の洋館ができあがった。白いペンキもどうにか塗ることができた。ところが、ここで困ったことがひとつだけのこった。それは西洋式トイレの便器のフタである。あの曲線と丸味をおびた造形をいったい誰がつくれるだろうか。大工もお手上げだったし、建具屋もそんなものはつくれなかった。そこで登場したのが京都の物好きな足袋屋である。足袋屋は商売柄、木を削って複雑な足型をつくる技術をもっていた。かくして、日本最初のトイレのフタは足袋屋がつくる、というふしぎなことになったのであった。新島の生年一八四三(天保一四)年一月一四日。 ■オルガン今昔■西洋語でオルガンというのはパイプ・オルガンのことを指すが、いちばん古いオルガンとして知られているのは、紀元前二世紀ごろギリシャで発明されたヒドラリウスという楽器である。ヒドラ(水力)ということばからも推測できるように、これは動力として水を使った大楽器であって、やたらに鋭く、大きい音を出した。ローマ時代には、闘技のあい間に演奏され、いわばファンファーレの役割をはたしたし、五世紀のころエルサレムで使われたオルガンは、二キロメートルはなれたところでも聞くことができたというから、長距離伝達の媒体でもありえたらしい。  こうした初期のオルガンは、しかしながら、けっして複雑な演奏をすることはできなかった。ちゃんとした音階をもった本格的なオルガンが登場するのは中世になってからである。とはいうものの、一一世紀ごろのオルガンの鍵盤はやたらに巨大であって、ひとつの鍵盤の幅が七センチ、厚さ五センチ、そして奥行五〇センチという、お化けのごとき楽器であった。こうなると、白魚のような指で優雅に演奏される、などというわけにはゆかず、演奏家は野球のグローブに似た大きな皮の手袋をはめて鍵盤を握りこぶしでたたく、という重労働。指で自在にオルガン演奏ができるようになったのは一五世紀以降のことである。そして一七世紀からは、教会にはかならずパイプ・オルガンが置かれ、教会音楽が奏でられるようになった。  A・シュヴァイツアーは幼いころからオルガンを学び、一九〇六年、バッハ協会の設立に力を貸すとともに神学をおさめ、オルガン奏者としてその才能をみとめられていたが、三〇歳になったとき、ひろく人類のためにつくすことを決意し、あらためて医学を勉強してアフリカのガボン共和国におもむき、宣教と医療に専念してその一生をおえた。きょうはシュヴァイツアーの誕生日(一八七五年)。   1月15日 ■ポリスと作兵衛■栗本安芸守|鋤雲《じようん》は初代のフランス駐在大使。一八六七(慶応三)年パリにおもむいたが、このころ、パリ万国博に日本も出展していた。博覧会がひらかれれば、当然のことながら、何人かの係員が日本から出張しなければならぬ。そういう係員のひとりに、長崎の人で作兵衛という老人がいた。もとよりフランス語などさっぱりわからない。ただ博覧会場の雑用をするだけ。だが、パリにいるあいだに、じぶんの宿舎たる「リウガリレー三七番地」ということばだけは口にすることができるようになっていた。  ところがこの作兵衛さん、ある晩、どういうわけかすっかり道に迷ってしまった。行けども行けども見当がつかない。途方に暮れていると、そこに「ポリス」があらわれた。作兵衛はじぶんの宿舎だけをおぼつかないフランス語でくりかえす。「ポリス」はにっこりとほほえみ、かなり長い道のりではあったけれども、作兵衛に同行して親切に宿舎まで送りとどけてくれた。作兵衛はそれに感謝し、いささかなりともお礼を、と手真似身ぶりでしめたが、「ポリス」は、「ノン」と答え敬礼して去って行った。いったいどういうことになっているのか、知人にたずねてみると、「ポリス」というのは人民の治安のための公務員であって、道に迷った人を案内するのはその義務である、と教えてくれた。日本では百姓・町人が与力同心に道をたずねるなどというのは想像もつかない。いや、ばあいによっては土下座しなければならなかった。作兵衛は「ポリス」という西洋の制度にいたく感心した。  その話をきいた栗本鋤雲は日本にも「ポリス」の制度を設けるべきである、とかんがえ、政府に進言する。太政官は東京府に命じて邏卒《らそつ》三〇〇〇人を置くことにした。そして一八七四(明治七)年一月一五日に東京警視庁が発足したのであった。 ■自動車殺人第一号■警察の話が出たついでに犯罪物語をもうひとつ。女流社会主義運動家ローザ・ルクセンブルグは、ワルシャワを追われ、ドイツで活動をつづけていた。折しもドイツは第一次大戦に敗北し、政府は無能のまま停滞している。ベルリンでは共産主義者を中核とした大衆デモが組織され、赤旗が冬空にはためいている。ここで一挙に政府をひっくりかえそうというわけで、極左団体スパルタクス団は武装蜂起を決定した。リーダー格のローザはこれに反対したけれども、大勢は反乱におもむく。そして、ローザの予想どおり、この革命は失敗におわった。  武装蜂起となれば反革命側も武装する。ローザは一九一九年一月一五日、反革命義勇団にとらわれ、自動車に乗せられて車内でピストルで頭を射たれて死亡。死体はそのまま運河に投げ捨てられた。彼女の死体は、行方不明だったが、ほぼ半年後の五月末に、かわり果てた姿で見つかった。   1月16日 ■振袖火事■浅草諏訪町の大増屋の娘おきくは、本郷の本妙寺で、寺小姓風の美少年に一目惚れし、その小姓の着物に似せた振袖をつくってもらい思いを寄せたが、一六五五(明暦元)年一月一六日、恋わずらいで死んだ。大増屋では振袖を本妙寺におさめ、住職は前例により古着屋へ売った。ところが翌年の同日、紙商大松屋の娘きのの葬儀があり、同じ振袖が本妙寺にもどった。さらにその翌年、また振袖が返ってきた。気味の悪くなった住職は、三人の娘の親の前で振袖を燎火に投じて焼いた。おりしも一陣の竜巻が舞い、振袖は人間の立ち姿で本堂真上に吹きあげ、たちまち出火した。これが一六五七(明暦三)年の振袖火事である。因縁話めくが、この火事はおきくの命日の二日後の一八日。 ■レコードと指揮者■A・トスカニーニ(一九五七年一月一六日没)はミラノ近郊の仕立屋の息子として生まれたが、パルマ音楽院でチェロ奏者としてみとめられた。かれは極度の近視のため、あらゆる楽譜を暗譜でおぼえていたが、たまたまブラジル巡業中、歌劇団の指揮者がたおれたので、ピンチヒッターとしてはじめてタクトをにぎって「アイーダ」を指揮。暗譜のつよ味が発揮されたわけだ。  こうして歌劇指揮者としてのトスカニーニは、ニュー・ヨークのメトロポリタン歌劇場、ニュー・ヨーク・フィルなどで成功をおさめたが、一九三〇年代になって、レコードの録音技術が進歩すると、トスカニーニは録音用の演奏をくふうしはじめる。録音用演奏はコンサートのそれとちがう、ということに最初に気づいたのはトスカニーニなのであった。かれは、ラジオにも興味をもち、一九三七年、NBC放送局がオーケストラを編成すると、よろこんでその初代常任指揮者をひきうけた。   1月17日 ■クラーク先生の贈物■札幌農学校に来て、当時の日本の青年たちを感奮させたクラーク先生は「少年よ大志を抱け」というあの有名なことばをのこして立ち去ったが、ことばだけではなく、もうひとつ、きわめて形而下的かつ実用的な贈物を日本に置いていった。それは、フランクリン・ストーブという俗称で知られる鋳物の石炭ストーブである。いうまでもないことだが、北海道の冬はたいへんに寒い。しかし、その寒冷地に移住した日本人は、囲炉裏やコタツといった暖房法しかもっておらず、ただ寒さにふるえるのみであった。クラーク先生がアメリカから持ってきた鉄製のストーブは、ベンジャミン・フランクリンが一七四二年に不燃状態のガスの有効利用をはかって発明した暖房効率の高いもので、北海道には打ってつけであった。クラーク先生のこのストーブは、やがて農学校を中心に北海道全土にひろまりはじめる。フランクリンの誕生日は一七〇六年一月一七日である。 ■ノーチラスの話■ノーチラスとはオウム貝のこと。貝とはいっても、これは古生物であって、水深五〇メートル以上になると死んでしまう深海の生物だ。分類学上は、イカと同類である。  その深海の神秘性のゆえに、J・ヴェルヌは有名な『海底二万マイル』の潜水艇を「ノーチラス号」と名づけた。ネモ船長という個性ゆたかな人物は、ヴェルヌのこのSFとともに読者の記憶に深くのこっているはずである。だが、「ノーチラス号」はヴェルヌからアメリカ海軍にうけつがれる。その前年に進水式を終えた世界最初の原子力潜水艦は「ノーチラス号」と名づけられ、一九五五年一月一七日に処女航海におもむいた。排水トン三二〇〇トンというのも潜水艦としては空前の大きさであったし、水中速度二〇ノットというスピードも、かつてはとうていかんがえることのできない高速である。オウム貝は時代とともにかわりつづけてきた。   1月18日 ■征夷大将軍のはじまり■「征夷大将軍」という肩書は、日本の実質的な支配者にあたえられるものとして徳川家にまでつたわったが、その初代は、いうまでもなく、坂上田村麻呂である。その任命は七九一(延暦一〇)年一月一八日と記録されている。  こんにちの東北地方は、古くは蝦夷地《えぞち》と呼ばれ、畿内を本拠とする中央政府はこの地方を征服することに努力をかたむけてきたが、その方法は軍事力による制圧というのではなく、妥協的な鎮撫政策によるものであった。そんな方法をとっていたために、七七四(宝亀五)年には蝦夷の叛乱が起きたし、中央政府と友好関係にあった蝦夷の部族さえもが反抗しはじめるという始末。そこで、藤原継繩を指揮官とする中央政府軍が出兵したけれども、戦果はいっこうにはかばかしくない。四〇〇〇人の叛乱と戦いながら、殺したのはわずか七〇人あまり。  こうして、戦況は、あいまいなままに放置されることになった。桓武天皇は、それまで歴代の蝦夷政策が生ぬるかったことに業を煮やし、本格的な軍事制圧をはかることにした。そして、その指揮官として坂上田村麻呂を起用したのである。田村麻呂は、奈良朝の武将、坂上苅田麻呂の息子で、身長五尺八寸、胸の厚さ一尺二寸という偉丈夫である。もっとも、これが初陣であるから、最初から総司令官に任命するというわけにはゆかず、征討副使のひとり、という肩書であったけれども、天皇は、最初から田村麻呂に賭けていた。  本格的な軍事行動であるから、途中の兵站《へいたん》を確保し、政府軍は完全な装備のもとに出陣した。戦果はみごとであった。蝦夷地はあっというまに平定され、その戦功によって田村麻呂は七九七年、征夷大将軍という最高の軍位をあたえられたのである。ちなみに、田村麻呂は、大陸からの帰化人の子孫であった。 ■乗合いの思想■一九二四(大正一三)年一月一八日、東京市営の乗合バスが営業を開始した。バスというのは二〇世紀になってから使われはじめたことばで、それまではオムニバス(omnibus)ということばのほうがふつうであった。オムニバスとは、文学の世界では「選集」といったような意味。また、抽象的にはさまざまなものをよせあつめる、ということを意味する。そこから転じて、乗合馬車をオムニバスといい、それが略されてバスという一般呼称になった。  西洋では、いわゆる「個人主義」のゆえに、見知らぬ者どうしの乗合いにはすくなからず抵抗があったようだし、こんにちでもバスだけでなく公共輸送機関がじゅうぶんにゆきとどいていない。しかし、日本では、例の森の石松の金毘羅代参のごとく、乗合船の伝統があった。宿でも同室同宿などごくふつうである。東京市営バスについで日本各地でバスが成功したのはまさしくこのような乗合いの思想が連綿とつづいていたからであろう。   1月19日 ■散歩の考察■勝海舟(一八九九、明治三二年一月一九日没)は、幕末のころ、日本にきた西洋人がただ目的もなく町のなかを歩いているのを見た。だいたい、歩く、というのは、行先があり、目的があってのことだ、という実用主義的なかんがえをもっていた勝は、西洋人のこのぶらぶら歩きに興味をもち、いったい、これはどういうことか、ときいてみたところ、これはプロムナードというものである、という返事がかえってきた。なるほど、と感心してこれを散歩と名づけ、それは、明治以降の文人や知識人のあいだで流行するようになった。京都の「哲学の散歩道」のような名所もできた。もっとも、「散歩」というのは、中国の漢方で、内服薬を飲んだあと、その薬効成分をはやく体内に循環させ、吸収させるために歩くことをすすめたのがその語源であるらしい。 ■飛行船の栄光■ドイツのツェッペリン伯がつくった飛行船「ツェッペリン号」は、二〇世紀が生んだ発明品のひとつであった。気球による飛行の歴史は古いが、気球は風まかせ。どっちに飛んでゆくかわからない。しかし、もしも、これにプロペラによる動力をつけることができるならば、自由に方向転換ができるはずだ。それにまず目をつけたのがブラジルのデュモンという青年。在来の気球にダイムラーのエンジンをつけて実験をこころみた。ツェッペリン伯もおなじころ同様の発想で飛行船を設計し、一九〇六年に実用的な第一号飛行船をつくった。  やがて第一次大戦が起きると、ドイツ軍はツェッペリン号に爆弾を積んでロンドン空襲をこころみた。ときに一九一五年一月一九日。しかし、飛行船はその動きがあまりにも鈍重であって、この爆撃行は、大いに間の抜けたものになった。要するに、効果的に爆撃をすることもできず、ただその巨大な姿が上空に浮かんでいることで、ロンドン市民にいささかの不安感をあたえたというだけのことに終ったのである。   1月20日 ■時差通勤のはじまり■東京をはじめとする日本の大都市のスプロール現象は一九六〇年代になっていちぢるしく目立つようになった。都心部の宅地の価格が上昇し、郊外生活者がふえ、さらに公団住宅なども都心から二〇キロ以上はなれたところに立地しはじめたからである。その結果として、朝晩の通勤・通学ラッシュは、まさしく「地獄」と化した。列車の乗車定員などというものは有名無実化し、主要駅には、乗客を押しこむ「押し屋」も登場するようになる。  そして、一九六一(昭和三六)年一月に寒波襲来。通勤客はオーバーを着て電車に乗ることになる。寒いから、時間ギリギリまでの朝寝坊。そこで一月一七日から改札制限がはじまった。駅ごとの停車時間は長びき、満員電車は、いやがうえにも満員である。改札口で乗客は足止めを食い、そのうえ電車はおくれる。その状況は日ごとに悪化し、ついに一月二〇日には、中央・京浜・山手・常磐などの各線では合計一九〇本の電車が定刻を三〇分以上おくれて走った。翌二一日になると、おくれだけではなく、運休列車も二九本、という最悪の事態になってしまった。都心の東京駅や有楽町駅などでは、遅延証明書をおよそ一〇万枚発行。  これではどうにもならないというので東京鉄道管理局は二三日に通勤輸送緊急対策本部を設置して、解決の方法を検討し、官庁や会社に呼びかけて三〇分ないし四五分の時差通勤をもとめた。つまり、午前九時に集中する出社時刻をすこしずつ早めたり、おくらせたりして乗客数をならしてゆこう、というわけ。学生・生徒の通学ラッシュについては、これ以前から同様の趣旨で時差通学がおこなわれていたけれども、このときから、官庁・会社も、それぞれに出勤時間をかえるようになったのである。 ■電話交換手群像■電話が発明されてからながいあいだにわたって、通話の交換は、交換手がやっていた。いや、会社などでは、こんにちでもそとからの電話をとりつぐのは交換手であることが多い。  電話交換手の経歴をもつ人のなかには意外な人物がある。たとえばギリシャの造船王でケネディ大統領の未亡人ジャクリーヌを妻としたA・オナシスも若いころ交換手をしていた。ギリシャでもかつては男が交換業務をしていたらしい。ニクソン元大統領の夫人パトリシアも交換手の経歴がある。かわったところではオペラ歌手として高名なドリス・カーステンも交換手出身であった。そういう交換手たちがお払い箱になったのは自動交換機が登場してからである。最初の自動電話開通は一九二六年一月二〇日。   1月21日 ■匿名の人びと■ロシア革命の父レーニンは、その正確な氏名をウラジミール・イリッチ・ウリャノフ、という。だが、文筆活動をはじめた一九〇一年に、シベリアの大河レナ河を思い出し、その河にちなんでレーニンと署名した。つまり、レーニンというのは、実名ウリャノフなる人物のペンネームなのである。  じっさい、革命運動をしている人たちは古今東西を問わず、弾圧のもとで演説をしたり文章を書いたりしなければならない。住所などはもとよりのこと、その氏名だって、つねに匿名にしておかなければならないのだ。レーニンはこんな調子だったが、スターリンもまたその例にもれない。スターリンの本名はヨシフ・オノビチ・ジュガシビである。だが、その実名を知っている人はきわめてすくないだろう。ロシアの革命家たちはこんなふうにして匿名の生涯を終え、人びとはペンネームによってのみ革命の英雄を知っているだけなのである。  レーニンもスターリンも、ひとことでいうならば、世をしのぶ仮の名であって、本名はいっこうに人びとに知られていないのである。そのレーニンが死んだのは一九二四年の一月二一日・享年五三歳。かれの死因は、もっぱら過労ということになっているが、それに先立つこと六年、一九一八年の夏にテロリストにピストルで撃たれ、肩に重傷を負っていた。その傷は治っていたけれども、こんにちでいう後遺症がその後につづいていたであろうことはじゅうぶんに推測できる。  ところで、このペンネームだが、こんにちの日本の法律のもとでは氏名権という権利があり、その法解釈によれば、ペンネームもまた自己を他人から区別する、という点で正式の氏名とことなるところがない、ということになっている。そしてそういう氏名を無断で他人が使用することは、商標法第四条第一項第八号によって禁じられている。 ■弘法の筆■そもそも毛筆というものは古くは殷の時代から使われていたようだ。そうした古代の筆は、けっしてわれわれがこんにち使っているような竹管のものではなく、おそらく、リスやイタチのような小動物のしっぽをそのまま使ったものとおもわれる。ちょうど西洋でガチョウの羽根を利用してガペンがくふうされたのとその事情は似ている。  ところで、日本に筆というものを輸入したのは弘法大師すなわち空海である。かれは、たんに実物をもってきただけではなく、筆の製法をも中国で勉強してきた。かれは、清川という名の職人とともに、タヌキ、ウサギ、シカなどの毛を用いてさまざまな筆をつくった。俗に弘法筆をえらばず、というが、事実はさにあらず。ほんとうのところは、弘法大師は筆のメーカーとして筆についてはかなりやかましい人物であった、とかんがえるべきであろう。ちなみに、こうしてできあがった日本の国産筆は、嵯峨天皇に献上されたが、それはタヌキの毛を使った四本セットで、真、行、草、写、と四つの字体や用途によって硬軟大小にこまやかな心くばりがこめられていた。弘法大師の入定日一月二一日。したがって、きょうは初大師。   1月22日 ■電力の東西■一八八七(明治二〇)年一月二二日、日本最初の東京電灯会社が設立された。設備は直立ボイラーの蒸気発電機で、出力二五キロワット。配電をうけたのは銀行、会社、郵便局など合計一三〇の建物であって、その料金は石油ランプのおよそ倍になった。  この最初の発電機は直流。しかし、やがて、交流のほうが有利であることがわかってきたので、二年後、大阪電灯株式会社はそれを採用し、東京もこれにならうことにした。だが、大阪がアメリカ式の六〇サイクルの機械を入れたのに、東京ではドイツ製の五〇サイクルをとりいれたものだから、日本の関東と関西はそれ以来、別個の電力システムで動くようになってしまったのである。こんにちなお、たとえばテープレコーダー、プレーヤーなど厳密な回転速度を要求される機器のばあいには、関東と関西では、まったく互換性がないのである。 ■最後の歌舞伎作者■河竹黙阿弥は一八一六(文化一三)年、江戸日本橋の越後屋助兵衛の後妻の長男として生まれた。幼名を芳三郎。若いころから江戸下町の文化のなかに育ったので歌舞伎にすくなからず興味をもち、二〇歳のとき鶴屋南北の門下に入って脚本を勉強しはじめ、桜田治助にすすめられて河竹新七の名を継いで歌舞伎作者となった。その処女作は|「昇鯉滝白旗」《のぼりこいたきのしらはた》で、その発表は一八五一(嘉永四)年。  このころ、日本は幕末の動乱期にさしかかり、物情騒然としているが、おもしろいことに、こういう時代でも芝居熱はさめなかったようである。いや、勤王だの佐幕だのと大さわぎしていたのはじつのところ武士たちなのであって、町人文化はべつだんたいしてかわることもなかったし、むしろ歌舞伎は黙阿弥がつぎつぎに放つ新作によって活気を呈するようになっていた。いまなお世話物狂言としてしばしば上演される「三人吉三」「十六夜清心」「弁天小僧」などはこの時期に発表された傑作である。  維新後、すこしずつ演劇改良運動とでもいうべきものがはじまり、世相もかわってきた。黙阿弥は文明開化の新風俗をとりいれ、いわゆる「ザンギリもの」、たとえば「女書生」「日々新聞」などを執筆したし、また俳優たちのなかにもすすんで文明開化風俗を舞台のうえで上演することに熱心だった人物もいたけれども、伝統的な歌舞伎の様式と、こうした新作ものとのあいだには埋めがたいギャップがあり、黙阿弥は、結局のところ古い題材にもどることになった。そして、「茨木」「船弁慶」「紅葉狩」などみごとな所作ものをその後期の作品としてのこし、厳密な意味での歌舞伎作者の最後の人物となった。なお「紅葉狩」は国産映画第一号として撮影されている。黙阿弥の没年一八九三(明治二六)年一月二二日。   1月23日 ■完全ハイジャック■ハイジャックというのは、うまくいったためしがないのだが、犯人がまんまと二〇万ドルという大金を奪って逃走した例外がひとつだけある。それは一九七一年の一月二三日にノースウエスト航空にポーランドから乗り込んだD・B・クーパーと名のる男である。かれは飛行機が離陸すると操縦席にしのびこみ、ダイナマイトで飛行機を爆破する、とおどかした。かれが要求したのは現金で二〇万ドル。操縦士はかれの命ずるままにシアトルに着陸、そこで用意されていた二〇万ドルを受けとり、人質にしていた乗客全員を解放すると、ふたたび離陸を命じ、ロッキー山脈にさしかかったところで後部のドアをあけ、パラシュートでみごとに脱出したのである。もちろん、二〇万ドルをかかえたままで。そして、その後、当局の必死の捜査にもかかわらず、クーパーのゆくえはさっぱりわかっていない。数年後に、きこりがパラシュートの一部を山中で発見したが、それがクーパーのものである、という証拠もなかった。もしかれが生きているとすれば、これまでのところ、ハイジャックの唯一の完全犯罪ということになる。 ■イスラム天文学■きょうはモハメッドの誕生日。イスラムの世界史に果した役割はいろいろあるが、無視することができないのは中世天文学へのイスラムの貢献であろう。  天文学はいうまでもなく、メソポタミヤにその源を発しており、ギリシャでひとつの体系として完成したが、中世になると、この学問の発達はヨーロッパでは完全に中断してしまった。そのギリシャ天文学をうけつぎ、修正をくわえたのがイスラムである。イスラムの天文学者は、ギリシャ語で書かれた書物をアラビア語に翻訳し、保存した。ギリシャ天文学の最高の著作として有名な「アルマゲスト」もアラビア語なのである。  そして一〇世紀ごろ、ヨーロッパでふたたび天文学の伝統が復活すると、こうしていったんアラビア語で保存されていたギリシャ天文学がふたたびラテン語に翻訳されて逆輸入されることになったのであった。こんなふうにアラビア語からラテン語への翻訳は一二世紀にそのピークに達した。イスラム世界はいわば失われた古典ヨーロッパ文化の貯蔵庫。   1月24日 ■韋駄天とはなにか■韋駄天というのは、仏教でいう増長天八将軍のひとつであり、また四天王三二将の親玉ということになっている。伝説によると、捷疾鬼という悪鬼が仏舎利を奪って逃げたとき、韋駄天がこれを追って無事にそれをとりもどした、という。その故事にあやかって、東海道をはじめ各街道を飛脚が「韋駄天走り」で書状を配送していたが、一八七一(明治四)年一月二四日、東京・京都・大阪の三都の間で郵便が開始され、飛脚便は禁止となった。 ■サンフランシスコ創成物語■一八四八年一月二四日、カリフォルニアのコロマという小さな町の製材所にはたらくJ・マーシャルなる人物が水車を点検していた。ところが、ふと気がつくと、その水路に、キラリと輝くものがみえるのである。大きさは小豆粒ほど。好奇心からマーシャルは手をつっこんで拾い出してみた。ひょっとすると黄金ではないか、いや、まさか、という思いがマーシャルの胸中を去来したが、注意してみると、まわりにおなじような小粒のものが光っている。かれはそのいくつかを拾い、製材所の経営者であるJ・サッターに見せた。サッターは、これが純金であることを確信し、比重を測定してみた。あきらかに金なのである。こんな大発見は、秘密にしておかなければならない。サッターとマーシャルは絶対に口外しないことを申しあわせた。  だが、噂というものはどこからかつたわってしまうものである。四カ月後の五月になると近在の人たちは砂金を求めて気狂いのように出かけてしまった。そして八月中旬になると、毎日、三万ドルから五万ドル相当の金がサクラメント川を中心とする地域で採集されたのである。その事実はワシントンに報告され、同年一二月五日テーラー大統領はそれを正式に議会で発表した。このときから、いわゆる「ゴールド・ラッシュ」がはじまる。  一八四八年から四九年のあいだに合計八万人以上がカリフォルニアに金を求めて移住した。アメリカ国内だけではない。太平洋の孤島マルケサスなどでもその噂をききつけ、役人も兵士もカリフォルニアに渡航し、ただひとり総督だけがのこされた、という。この、文字どおり一攫千金を狙う連中を相手に、商人たちも進出した。それまで小漁村にすぎなかったサンフランシスコは、こうした商人たちの拠点となり、あっというまに人口二万の都市になったのである。サンフランシスコ湾の入口に架けられた橋を「金門橋」というのもゆえなしとしない。   1月25日 ■迷子の定義■菅原道真を祀った天満宮は、東京では湯島の天神様としてよく知られており、きょうは初天神にあたるが、この境内に「奇縁氷人石」なる石碑が建てられている。これは、江戸時代にあった「迷子のしるべ」の名ごりである。「迷子のしるべ」というのは寺社の境内に建てられた石であって、子どもを見失った親、および迷子を見つけた人がそれぞれ、この石の表面に貼紙をしたのだ。要するに、「尋ね人」の先駆形態である。これを最初に発明したのは、古くから都市化の進行していた京・大坂の寺社であって、江戸はその知恵に倣《なら》ったのである。湯島のそれは江戸でもっとも古く、天保一三年に日本橋の商人によって奉納されたという。  この「迷子のしるべ」の伝統は明治期になってもうけつがれ、両国橋、万世橋、赤羽橋などの橋のたもとに設置され、明治一〇年ごろまでは多くの不運な親たちによって利用されていた。ところで、迷子を見つけたほうだが、江戸の掟では、その町内の番屋に届け出て、親許がわかるまで町内で世話をすることになっていた。すぐにわかればよろしいが、ばあいによっては成人してもなおかつ親の見つからない子もいた。親子生き別れの人情|噺《ばなし》がのこっているゆえんである。ちなみに、江戸時代には、三歳以上の子どもにかぎって「迷子」とし、それ以下は「捨て子」として扱った。現行の法律には明記されていないが、この定義は、おそらくこんにちの常識にもあてはまるであろう。 ■ライトの幼年期■建築家フランク・L・ライトは一八六七年、ウィスコンシン州のリッチランド・センターという小さな町に生まれた。一二歳のとき、州の首都マディソンにかれの家族は転居したが、夏になると、いつもライトは伯父の経営する農場ではたらいた。アメリカ中西部の大きな自然をかれはこよなく愛したのである。中学を終えたライトは、マディソン高校に進学したけれども、学業をあまり好まず、高校ドロップ・アウトになった。そして製図工としてしごとをつづけながら、暇を見つけてはウィスコンシン大学の工学部の聴講生として技術を勉強した。  やがてかれはシカゴの建築事務所ではたらき、前衛建築のチャンピオンとなった。バッファローでもシカゴでも、かれの設計した住宅は絶讃を浴びた。近代産業文明のもたらした素材や技術を駆使して住宅や事務所を設計したが、日本では、かれの代表作ともいえる旧帝国ホテルが一九〇七(明治四〇)年一月二五日に完工した。   1月26日 ■釘と火事■木材をとめたりつなぎあわせたりするための鉄釘は、かなり古くからある。日本では古墳からも、釘はかなり出土しているが、それらは、棺を閉じるとき、といった特殊な用途のためのものであって、建築用に釘が大量に使われるようになったのは飛鳥時代以降、寺院や宮殿が本格的につくられはじめてからのことであった。法隆寺の金堂と五重塔の解体修理がおこなわれたとき、専門家がくわしく調査したところ、これらの建造物には、三センチくらいの短いものから、七五センチという、途方もない長いものにいたるまで、合計二七種類の釘が使用されていたことがわかった。  近世になると、越後の三条、燕、伊勢の松阪などが釘の産地として有名になったが、農村地帯では、鍛冶屋が古い鎌などを材料にして釘つくりを副業としていた。  そうした日本の伝統的な釘つくりに大きな変革をもたらしたのは、機械生産による洋釘の輸入である。その見本は、一八七七(明治一〇)年ごろに入荷したらしいが、一八八一(明治一四)年の一月二六日に東京神田に大火があり、ひきつづき、二月一一日にも東京をなめつくす大火災が起きた。その焼跡復興のために釘が大量に必要となり、このときから洋釘の本格的輸入がはじまったのである。  なお、日本で機械による釘の生産がおこなわれるようになったのは、一八九八(明治三一)年のこと、とされているから、けっきょく、明治の日本では十数年間にわたって、釘はほとんど全面的に輪入にたよっていた、ということになる。 ■消防自動車の規格■ふつう消防自動車というのは正しくは「消防ポンプ自動車」と呼ばれる自動車のことだが、都市で使われる消防車は、ホイールベース四メートル以上、ポンプ圧力一平方センチあたり八・五キログラム、放水能力一分あたり二一〇〇リットル、というのをその規格としている。  消火栓につないで放水する前に「水槽つき消防ポンプ自動車」が出動する。こちらのほうはタンクのなかに一五〇〇キログラムないし四〇〇〇キログラムの水がたくわえられており、初期の消火活動をおこない、そのあとでふつうの消防車が到着して放水するのがふつうだ。直接に火に水をかけるのでなく、水の冷却作用と蒸気によって空気を遮断し、いわば霧の壁をつくって酸素の供給を困難にして火を消す方法もある。こちらは「高圧消防ポンプ自動車」だ。これは電気火災、油火災などに有効である。一九四九(昭和二四)年一月二六日、法隆寺の金堂焼失。それ以来、この日は文化財防火デーとなった。   1月27日 ■新宿のはじまり■甲州街道は信州の下諏訪まで四四宿。しかし、江戸を出て、つぎの宿場は高井戸で、そこまでは四里(約一六キロ)の距離がある。東海道などは、平均しておよそ二里で一宿、という配置がされていたから、江戸の日本橋と高井戸の中間にひとつ宿場が必要であった。そこで、あたらしい宿場という意味から「新宿」という宿場がつくられた。この土地は内藤大和守の所有地。内藤氏は元禄一〇年にこの土地を幕府に返納し、「新宿」は自由な宿場町になったのである。こんにちも、新宿に「内藤新宿」の地名がのこっているのは、右のような事情による。  だが、いったん宿場をひらいてみても、人馬の交通量はきわめてすくない。東海道は西国の大名行列で繁栄をきわめているのに、新宿を通るのは信州の高遠・高島・諏訪の三家のみ。しかも、三家とも貧乏だから、新宿にはたいして金もおちない。だから、この土地に経済効果をあたえるべく、幕府は五〇軒の旅籠に一五〇人の飯盛女、つまり半公認の私娼を置くことをゆるした。だが、江戸の人間にとっては、それもべつだんの魅力とはならず、享保三年には廃駅となってしまった。そして、安永元年にふたたび新宿は宿駅として再興されるのである。元禄期の新宿は「前新宿」、再興された新宿は「後新宿」として歴史的には区別される。要するに、この宿駅は、江戸西郊のきわめて人工的な小集落にすぎず、江戸が東京となっても事態はあまりかわらなかった。だが、東京の人口がふえ、中央線、山手線などの鉄道が敷設されるにおよび、新宿は郊外生活者のターミナル駅として繁栄を誇ることになる。日本の地価の最高の土地は戦後になると、新宿駅前、ということになった。この新宿を起点とする小田急電鉄は一九二七(昭和二)年一月二七日に開通している。 ■国際結婚第一号■明治維新とともに、日本近代の「国際化」がはじまった。そのひとつに、日本国籍をもつ者と外国人との結婚問題がある。そういうケースがぼちぼち出はじめたので、政府は明治六年春、つぎのような通達を出した。  一、日本人、外国人と婚嫁せんとする者は政府の允許を受くべし。  一、外国人に嫁したる日本の女は日本人たるの分限を失うべし。もし、ゆえあって再び日本人たるの分限に復せんことを願うものは免許を得あたうべし。  一、日本人に嫁したる外国の女は日本の国法にしたがい、日本人たるの分限を得るべし。  要するに、この通達では、父系的原理によって国籍を決定する、ということになっていたのだ。とはいうものの、唐人お吉以来、日本女性で外国人と結婚する例はいくつもあったが、日本の男が外国人女性と結婚することはきわめてまれであった。ところが、ここに三浦十郎なる人物がいる。出身は宮崎県。えらばれてドイツに留学し、滞在中にK・ゲルストマイエルなる女性と相思相愛の仲になった。帰国にあたって、つらい別れを借しんだが、ゲルストマイエルさんのほうでは三浦のことを思い切ることができず、ついに日本まで単身で渡航してきた。森鴎外や広瀬中佐のように、明治の男性には、これに似たロマンスがいくつもあるが、三浦のばあいは、彼女と結婚する決意をかためた。そして一八七四(明治七)年一月二七日、築地の教会でキリスト教式の結婚式をあげた。式をつかさどったのはアメリカの牧師D・トムスン。日本男性の国際結婚第一号というので、当時の新聞は大いに書き立てたが、この夫妻のその後についてはあまり多くのことは記録にのこされていない。   1月28日 ■お不動さまと飛行機■成田山新勝寺をはじめ、きょうは全国各地で不動尊をまつっている寺社の初不動。不動尊の縁日は、毎月、一、一五、二八、と三日あるけれども、初不動は二八日がふつうだ。  お不動さまは正しくは不動明王であり、もともとはサンスクリット語のアチャラという神さま。インドからはじまり、チベット、蒙古、中国などでもこの神さまは厚く信仰され、多数の信者をあつめているけれども、その由来は、じつのところ、さっぱりわかっていない。おそらくは、ヒンズー教のシヴァの神と関係していると推定されているが、大乗仏教のなかでそれが経典にとりいれられたものであろう。その位置づけからいうと、仏教の守護神。「明王」というのはそういう意味だ。そうした位置づけをさだめた経典は『大日経』である。お不動さまは、右手に剣、左手に綱を持っていらっしゃる。剣は悪魔やもろもろの煩悩をくじくための武器、綱は、その柔軟さによって自由をあらわすものとされているようだ。  日本では、古典仏教以来、さまざまな仏教の宗派ができたけれども、お不動さまは観音さまとならんで、一種の民間信仰にちかいものとして多くの信者をあつめている。とりわけ、いつとはなしに交通安全の守護神ということになり、旅行者はお不動さまのお守りを身につけるようになった。日本にモータリゼーションの波が押し寄せると、自動車を運転する人びとだけでなく、自動車の車体そのものにお不動さまのお守りが守護神としてのりうつってくださるようになった。  おもしろいことに、お不動さま、とりわけ成田のお不動さまは飛行機の守護神としても進出なさった。船旅の神さまとしては金毘羅、水天宮などがあり、ほんらい、その系統の神さまでもよかったのだが、航空の世界はお不動さまが独占していらっしゃる。日本の各航空会社の飛行機のコックピット(操縦席)には例外なく成田山のお守りが標準装備としてとりつけられているのである。 ■南極探検の偶然■一九一〇(明治四三)年、南極にむけて出発した白瀬中尉は南極圏に近づいたところで冬になってしまった。やむをえずオーストラリアのシドニーにひきかえし、そこでひと冬をすごし、翌年、南半球の夏を狙って南極をめざした。そして一月二八日、南緯八〇度五分の地点まで南極大陸の踏査に成功した。  ところで、それからほぼ半世紀を経た一九五七(昭和三二)年、近代設備でかためられた日本の南極観測隊は永田隊長の指揮のもとに「宗谷」に乗り組み、南極大陸オングル島に接岸、昭和基地をつくった。この到着日は同年一月二九日。奇しくも白瀬探検隊の極地到着の翌日である。白瀬隊はおおむね徒歩、それにたいしてこんどの観測隊は砕氷装置つきの特殊船舶からヘリコプターまでを装備していた。五〇年ちかくの技術の進歩はこれだけのちがいを生んだが、南極の夏は、依然として短い。到着の日付がほぼおなじであったのは、そうかんがえれば当然というべきであろう。   1月29日 ■電信競争■明治の新時代をむかえて電信業務はあわただしいうごきを見せはじめたが、日本という新興国に電信技術を輪出し、独占権を獲得しようとして、欧米の列強ははげしい競争をくりひろげた。  まず第一に、インドを制覇してアジアへの道をもとめるイギリスは、その海底ケーブル網を日本までのばすことをかんがえた。それに対抗して、まずフランスが進出をこころみる。薩・長を後押ししたのはイギリス、それに対してフランス公使レオン・ロッシュは幕府の顧問格である。そして経済使節クレーが電信の売込みを開始した。  アメリカも当然、日本に対するセールスをはじめたし、ロシアは、海底ケーブルを日本海に敷設するから日本に陸揚げさせてほしい、という要求を突きつけてきた。こういう国際的電信競争を適当にあしらいながら、日本はまず国内の電気通信網を整備することにつとめ、主体的に国際電信に加入した。ときに一八七九(明治一二)年一月二九日。 ■解牛問答のこと■台所道具として欠かすことのできない調理道具のひとつに「包丁」がある。そもそも「包丁」とはなんであるのか。語源的に詮索すると、『荘子』の「養生主篇第三」のはじめにこのことばがみえる。『荘子』が書かれたのは前四世紀ごろだが、この書物によると、梁の恵王と「包丁」なる人物が「解牛問答」という一場の対話をおこなったことがあった。いや、「包丁」という人物、といっては正確さを欠く。「包」というのは料理人のこと。「包丁」とは、料理人の丁さん、ということ。  さて、この丁さんは、たいへんに料理がじょうずであった。かれはその名声によって、恵王に招かれ、王の目のまえで一頭の牛を解体するということになった。かれが牛刀と呼ばれる大きな刃物を牛のからだにグイと突き立て、すっとひくと、肉がきれいに切りわけられている。恵王は、その手ぎわのよさに感心し、いったいどんなふうにしてこんなみごとな刀さばきができるようになったか、と問うた。丁さん答えていわく。若いころ、はじめて牛を料理したときにはいっこうに見当もつきませんでしたが、三年間修業を積んだおかげで、牛のどの部分にどんなふうに骨があるのか、そとから見ただけでちゃんとわかるようになりました。いまや、この商売、これで一九年、数千頭の牛を切りましたから、ぴたりぴたりと肉が切りとれるのでございます。  恵王は、この話をきき、「なるほど、みごとなものだ、おまえの話をきいて、人生の生き方がわかったよ」とヒザをたたいて感心した。これが「解牛問答」なのである。そしてこの名料理人の名前がもとになって「包丁」なるものが誕生したのだ。「包丁」というのはこの逸話からもわかるように、動物を調理するための刃物のことであって、語源的にいうと、野菜を切るためのナイフは「包丁」ではないのである。きょうは金毘羅さまの包丁式。場所は阿波の徳島。   1月30日 ■ギロチンの起源■敵や犯罪人を処刑するにあたって首をチョン斬るというのは、べつだん日本だけの話ではなく、世界共通の方法である。西洋では、ギロチンという首切り機械。J・I・ギヨタンなるフランスの医師がこれを発明し、そのゆえに、正しくはギヨターヌと呼ばれることになった。ギロチンはその英語読みである。  そのうえ、発明者をギヨタンとするのも正しくない。というのは、南フランスやイタリアでは、古くからこれとまったく同様の処刑機械が使われていたからである。それをフランス革命後の国民議会がギヨタンの勧告によって死刑の方法として正式に採用したにすぎぬ。ルイ一六世やマリー・アントワネットも、あわれギロチンの刃のもとに首をはねられた。  ギロチンは二本の太い柱とそれをつなぐ厚い板でつくられており、上部に三角形の刃がとりつけられている。地上には十字型の台が置かれ、処刑される死刑囚はそこに首をさしのべる。刃は死刑執行人が手にする綱によって柱のうえから落ちて首をはねる、というわけ。ギロチンによる処刑は、まさしく「恐怖時代」の象徴ともいえようが、ギロチンが使用される以前の処刑方法はもっと残忍であった。つまり、木を伐るときに用いられるのとおなじような大きな斧で首を斬りとるのである。  中世から近代にかけて、ヨーロッパの王さまたちは、つぎつぎに革命裁判にかけられたけれども、市民社会の勃興期に議会の出した「権利請願」を無視したチャールズ一世は一六四九年一月三〇日「公敵」として死刑を執行された。この日処刑台にはカンタベリー主教が立会人として姿をあらわし、王はみずからのガーター勲章を主教に手渡し、いさぎよく首をさし出し、死刑執行人は斧でそれを斬りおとした。午後二時四分、と歴史の書物に記録されている。 ■「術」から「道」へ■寛永三馬術の名人のひとり、曲垣《まがき》平九郎は一六三四(寛永一一)年一月三〇日、徳川家光が増上寺に参詣したとき、その通行路にあたる芝の愛宕山で馬術を披露した。講談調にいうと、この日は雪で、愛宕山はうっすらと白く凍りついている。曲垣は愛馬をいたわり、はげましつつその石段を上り、梅をひと披、手折って襟にさし、静かに降りてきた、ということになっている。  寛永期というのは、いうまでもなく徳川幕府が長期安定政権として不動の基盤をつくりあげた時期であり、戦国時代からつづいた軍事的戦闘の技術がもはや実用的な意味を失いはじめていた。宮本武蔵などは、こうした時代の転換期をはやくから見抜き、それまで「剣術」と呼ばれていた格闘実技を「剣道」という形而上学にまで転換させた。曲垣の曲馬なども、まさしく天下太平の時期に入った軍事技術のひとつの転換例であろう。愛宕山に登ることなど、かんがえてみれば実戦とはなんのかかわりもないことなのである。   1月31日 ■市電が走った■一八九五(明治二八)年一月三一日、京都ではじめて路面電車が開通した。ついこのあいだまで、堀川通の東がわを走っていた北野線がそれで、京都七条から北野神社まで、チンチンと鐘を鳴らしてイギリス製の電車がうごいたのである。維新以来、すべてが東京に移転してしまったものだから、京都市民は大いに不安と焦燥感をもち、それが日本はじめての市街電車の導入、というモダニズムに結集したのであろう。  スピードはしごくゆっくりしていたが、それでも交通事故のおそれがないわけではない。そこで、初期の京都の市電では、運転手のそばに、「電車の先走り」という少年が配置されていた。この「先走り」は電車が停留所にとまるたびに、前後の安全を確認する簡易信号手のようなもので、たいへんな重労働。そこで、当時、京都では、子どもがいたずらをすると「電車の先走りにするぞ」とおどかした。東京の市電はこれよりずっとおそく、一九〇三(明治三六)年夏に営業を開始している。 ■アホウ鳥の遺産■ナウル共和国はほぼ赤道直下、そして日付変更線から一五度ほど西にうかぶ島国である。島の大きさは南北五キロ、東西四キロで、円形にちかい。この島は一七八九年に発見されたが、その当時、島には数百人の人びとが住んでいて、素朴な漁撈生活を送っていたにすぎなかった。ところが、一九〇〇年、この島の石をA・エリスが分析したところ、おびただしい量の燐鉱床が埋蔵されているらしい、ということがわかった。推定埋蔵量一億トン。ふくまれる燐酸分は九〇パーセントにちかく最高の品質である。そしてこのときから、ナウルは、このおびただしい鉱物資源によって世界に知られるようになった。オーストラリア、ドイツなどがこれを掘って、島民に金を払った。  ところで、この燐鉱石とは、そもそもなんであるのか。ひとことでいえば、アホウ鳥その他の海鳥の糞である。これが何十万年にもわたってサンゴ礁のうえに排泄され、かたまって燐鉱石になった、というわけ。いわばナウルは、アホウ鳥がのこしてくれた遺産によって、一躍金持になったのであった。そのことを知った島の人たちは、西洋人が勝手な値段でじぶんたちの土地を掘りおこして持ち出してゆくことの不合理に目ざめはじめた。さまざまな曲折の結果、一九六八年一月三一日に独立。人口三〇〇〇人。島の大きさは右にみたような次第であるから、世界最小の独立共和国というべきであろう。  いうまでもなく、燐鉱石はけっして無尽蔵ではない。いや、もう、はっきりと先がみえている。そこでこの国は燐鉱石の売上金を国民ぜんたいのための信託基金として運用し、国際的に投資しているが、二〇世紀末までには基金は四三億ドルに達し、その金利を国民に分配することになっている。そのばあい、ひとりあたりの所得は年間五〇万ドル(一億円)となり、その水準は世界最高ということになる。 [#改ページ]   二  月   2月1日 ■テレビ・アナウンサー登場■アナウンサーとしてはじめてテレビに登場したのは、ドイツの女優アーシュラ・パッシュケさんといわれている。一九三四年末ごろ、彼女はベルリンから毎日放送されるテレビの実験番組を受けもつことになったが、最初は番組をアナウンスしたものの、のちには詩を朗読したり、自作の独演劇を演じるなど、まだ女優的要素ののこったものであった。おなじころ、イギリスのBBCテレビ放送の初日に、レズリー・ミッチェルという男性が、アナウンスをおこなっている。しかし彼もまたラジオの司会をしていたし、俳優としての経験をもっていた。  本格的なアナウンサーの登場は、一九三六年のBBC放送の公募によりジャスミン・ブライとエリザベス・カウエルの二人の女性が採用されてからである。BBCの募集条件はきびしく、女性アナウンサーは魅力・機転・個性・適度な声音・美貌をすべてそなえて、男女両性の視聴者に愛されるようでなければならず、そのうえ、赤毛でなく、写真うつりのよい未婚女性でなければならなかった。一二〇〇人あまりの応募者のなかからみごと選ばれたこの両人には、年二五ポンドの衣裳代が支給され、自腹を切って衣裳をととのえるようにといわれた男性アナウンサー、ミッチェルにくらべ、ずっとよい待遇が与えられていた。きょうはテレビ放送記念日。 ■日本文字のはじまり■日本語の起源がどこにもとめられるか、については学者のあいだで論争があるけれども、漢字という表意文字を変形させてこれを表音文字として使うことは、古代から徐々にこころみられてきた。そういう表音文字、すなわち仮名は『古事記』のばあい一六五種、『日本書紀』では五二七種、そして『万葉集』では五八〇種にのぼる。仮名の数が時代とともにこれだけ増加したのは、漢字の標音化の試行錯誤の過程をしめすものとして興味深い。ほんらい五〇音に落ちつくべきはずの仮名が五〇〇種をこえたりした理由は、日本各地でことなった文字をあてはめたからである。  仮名という日本文字で最初に正式の詔書が作成されたのは六四六(大化二)年二月一日。いわばこの日から、書きことばとしての日本語が定着した、ということになるだろうし、大げさにいえば、日本の言語文化はこの日を境にしてひとつの革命をとげたのだといってもさしつかえない。  いわゆる万葉仮名は、平安時代にはいると宮廷での特殊な用途以外には用いられることがなくなり、だんだんと片仮名、ついで平仮名にとってかわられるようになった。じっさい、マ、ム、といったような略字としての片仮名は、律令期の戸籍帳などにもすでにその姿をあらわしている。だが、その用法はかなり不統一であって、これが国字として最終的に統一されたのは、一九〇〇(明治三三)年の小学校令によってであった。   2月2日 ■馬と連続写真■カリフォルニア州がアメリカの領土に正式に加えられたのは一八四八年二月二日だが、このカリフォルニアの鉄道王であり、州知事や上院議員までつとめたリーランド・スタンフォードは、たいへんな馬好きであった。あるとき友人たちと議論をしているうちに、馬の足が四本とも同時に地面を離れる瞬間があるかどうか、が話題になった。スタンフォードはそれを実証的にたしかめるべく、イギリスの写真家E・ムイブリッジに多額の研究費を与え、高速シャッターと連続写真技術の開発を依頼した。七年間の研究の結果、ついに連続写真が完成。四本の足が同時に離れる瞬間がみごとにとらえられた。一八七九年のことだ。のちに開花する映画技術はこの発明に負うところが大きい。なお、スタンフォード大学は、この人物の寄贈によってできた大学である。 ■作家と万年筆■永井荷風の日記のうち、大正一五年二月二日の項に、日本の作家のなかで最初に万年筆を使ったのは黒田湖山であったという記述がある。湖山は、遊廓に行くときも、けっして原稿用紙と万年筆を忘れることがなかった、という。  万年筆が日本に輸入されたのは明治一〇年代のことで、英語の「ファウンテン・ペン」を「万年筆」と訳したのは、東京本石町の時計屋大野徳三郎であった。明治一九年のことである。しかし、毛筆を使う習慣のほうがつよく、なかなか万年筆は普及しなかった。永井荷風じしんも、一生いちども万年筆で執筆したことはなかった。  ペンを毛筆にまさるものとして宣伝したのは福沢諭吉であった。かれの経営する「時事新報」には「書家の使用するは別として、日用必須の写真具としては、一切毛筆をこの活世界より駆逐したきものなり。尤も、毛筆を廃する以上はペンにて書き得るよう、製紙の改良を要するはいうまでもなし……」といったラジカルな論説が書かれているし、毛筆よりもペンのほうが三倍ほど能率があがる、という意見も、それと前後して同紙に述べられている。とはいうものの、万年筆の値段はかなり高値であって、白米一斗が一円八〇銭で買えた明治三九年ごろ、万年筆一本の価格は五円四〇銭であった。米一石というのが、平均していうと、日本人ひとりが年間に消費する量であるから、万年筆一本は三月ぶんの米代金に相当した、とみてよい。  万年筆は、しかし、大正以後の文学者や新聞記者にとっての標準的筆記具となり、とりわけオノト万年筆が神話的な銘柄として定着した。ちなみに、日本における万年筆の国産化は一九〇二(明治三五)年に原料のエボナイトが輸入されるようになってからのことである。   2月3日 ■死後四世紀ぶりの墓■西国の大名たちは、スペインとの交渉が深く、その何人かがいわゆるキリシタン大名になったことはよく知られているが、高槻城主の高山右近はキリスト教に改宗したがゆえに国外追放というきびしい処罰をうけた。  右近はやむなく一六一四(慶長一九)年の秋、家来一〇〇人をひきつれて日本を出帆、東シナ海をこえてフィリピンに渡り、マニラに亡命したけれども、翌年二月三日、病を得て病死した。当時の航海日数から推測すると、やっと安住の地を得た右近は、せいぜい二カ月ほどをマニラですごしたにすぎない。亡命といっても、まことにはかない人生であった。  右近と同行した家の子郎党、その他この当時マニラに移住した日本人の数は正確にはわかっていないが、同地の日本人町の人口は三〇〇人をこえ、一種の租界を形成していた。だから、悲運の一生を終えたとはいえ、右近が手厚く葬られたであろうことは疑いない。そして、フィリピン史の専門家たちは右近の墓の所在を調査し、その墓所がマニラ市のイエズス教会であったことを確認することができた。一九四二年、日本軍がフィリピンを占領したときには、この土地に高山右近の墓、として木製の墓標を立てたことがあったが、これはおよその見当であって、正確ではない。そのうえ、アメリカ軍のフィリピン反攻がはげしくなると、この教会墓地も完全に破壊されてしまった。かくして、高山右近は、歴史上あれほど有名でありながら、その墓所は消滅してしまったのである。だが、さいわいにも、教会墓地の記録にくわしい人物が生きのこっており、一九八〇年、ようやく正式に墓所がつくられることになった。右近は、死後四世紀ちかくを経て、やっと永眠の地を得たのである。なお、高山右近の記念碑は、その出身地たる高槻市とマニラ市とが共同して旧日本人町のあったところに建てられている。 ■脚気と軍艦■日本海軍が本格的な艦艇整備をととのえ、遠洋航海に出かけるようになると、乗組員が脚気《かつけ》と呼ばれる病気にかかることが目立つようになった。症状としては足がむくみ、呼吸困難におちいり、さらに悪化すると死亡してしまう。いまなお、ホノルルのマキキ墓地にゆくと、脚気でたおれた日本水兵の墓がのこっている。これは一八八三(明治一六)年の練習航海での犠牲者たちであって、このときの練習艦は、これら死亡者のほか、一五〇名ほどの脚気患者を出した。  この病気がおそらく食物と関係しているであろう、と見当をつけた海軍当局は、艦内での食事を西洋の軍艦でのそれとおなじように洋食に切りかえてみることにした。米食中心でなく、パンだの麦だのを艦内食とした実験は、翌明治一七年二月三日に東京湾を出航した�筑波�でおこなわれた。この練習艦は一年余の航海をつづけたが、脚気患者はほとんど皆無にちかく、これで兵食を洋風化することが決定された。脚気の原因はビタミン不足にあるが、当時はまだビタミンなるものが知られていなかったのである。   2月4日 ■一里塚と榎伝説■こんにちでも、たとえば「里程標」などということばがのこっているが、旅人の便のために、一里(約四キロ)ごとに目印になる塚を築く、というくふうは、織田信長によってはじめられている。かれはじぶんの領地内で、一里ごとに塚をつくり、道路に沿って松を植えさせたのであった。このアイデアは、そのまま秀吉にもうけつがれたが、全国的規模でこれを制度化したのは徳川秀忠である。全国的、といっても、このばあいは東海道、中仙道、北陸道の三道であるにすぎなかったが、並木道をつくり、その両がわに塚がつくられたのだ。塚の上には榎が植えられた。木を植えておけば、これで土がしまって塚が崩れないからでもあったし、夏のあいだは、旅人が樹下に涼をとることができる、という思いやりもはたらいていた。この布令の出たのは一六〇四(慶長九)年二月四日であった。  なぜ榎がえらばれたか。それは、松並木のなかにあって、遠くから識別できたから、という理由にもとづいているのだけれども、秀忠はべつだん、この植物を指定したわけではない。工事担当の本多左太夫が、秀忠に、どのような木を植えましょうか、と相談したところ、前述のような理由で、秀忠は「異な木」、つまり、松とはちがう木を植えよ、と答えた。その「異な木」を「榎」とききちがえてしまったところから、一里塚の木は榎になったのだ。  幕藩体制はその後二世紀半にわたってつづき、その間に、一里塚に植えられた榎は大木になった。枯れたものもあるし、そのままのところにあるものもあるけれども、たとえば、道路の幅をひろげたり、あるいはさいきんでは土地造成をはじめたり、ということになると、榎が邪魔になる。そこで、これを伐りたおそうとするのだが、二世紀のあいだに、それぞれの土地で榎にまつわる伝説や怪談がつくられてしまった。一本榎の奇談がほうぼうに伝えられ、土木工事が難航するゆえんである。なお、この一里塚をつくるにあたっての原点は、このときに江戸日本橋とさだめられ、こんにちなお、それは日本の道路原標になっている。 ■ネコで流罪■江戸幕府の台所頭、天野五郎太夫正勝は、将軍の食事すべての総責任者で二百俵高、役料百俵。けっして高禄ではなかったけれども、責任は重大であった。ところが、一六八七(貞享四)年二月四日、かれのあずかる台所で事件が起きた。というのは、その前夜までなんの異常もなかったのに、この日の朝、台所の井戸のなかにネコが一匹落ちて死んでいるのが発見されたからである。ちゃんと、井戸のフタをしておいたのだが、たぶん、ネコはネズミでも追いかけているうちにフタがはずれて溺死してしまったのであろう。  これによって井戸が不潔になった、というのは事実だろうけれども、夜中に井戸に落ちたのはネコの過失である。管理責任者たる天野がその責を問われるとしても、微罪ですむはずであった。しかし、タイミングがまことにわるかった。なぜならば、この事件が起きる一週間ほどまえに、例の「生類憐みの令」が公布されており、動物を殺したり虐待したりすることについてきびしい禁令がすでに実施されていた。そこで、天野は、ネコの生命保護について不行届ということになり、八丈島に流刑という重罪を課せられた。天野は家来の大原留右衛門をともなって八丈へ、そして、かれの子ふたりは大名預けとなった。ネコ一匹が原因で、まことに不運なことといわなければならぬ。  このネコの溺死事件につづいて、病馬を荒地に捨てた、というので農民一〇名、さらに犬を斬った中間ひとりがおなじく流罪になっている。中間のばあいには、その主人の、幕臣保泉市右衛門までが家禄没収、というきびしい処分をうけた。江戸城の門番をしていた鉄砲同心が、門のうえにとまった鳩を小石を投げて追いはらった、というだけでも謹慎を申しわたされている。   2月5日 ■長期刑の記録■終身刑とか無期懲役とかいった刑の申しわたしは、たいていの国にあるが、社会によってはおどろくべき長期刑がある。まずイランでは、一九六九年六月一五日にふたりの人物が機密漏洩の罪で七一〇九年の刑を言いわたされた。一九七二年三月一一日、こんどはスペインで四万通ほどの郵便物を捨てた郵便配達人、ガブリエル・グランドスが三八万四九一二年の長期刑を宣告されている。三八万年といえば、現生人類が地球上に姿をあらわしてからこんにちまでの時間に相当する。  アメリカでは、J・コロナなる人物が、二五人の人間をつぎつぎに殺し、それぞれの事件について終身刑の判決を受けた。一九七三年二月五日のことである。つまり、からだはひとつなのに、判決をとりまとめると、二五の生命をもたないかぎり、コロナは判決に忠実でありえない、という勘定になるのである。 ■紙幣のはじまり■流通手段としての貨幣にはいろいろなものがある。だいたい英語で「金銭上の」ということを意味する「ペキュニアリー」ということばはラテン語の「ペクス」を語源とし、「ペクス」とは、すなわち牛のことなのであった。つまり、古代地中海では牛が通貨だったのである。東洋では、いうまでもなく貝。  しかし、貨幣というものは、他人がうけとってくれるであろうという信念がありさえすれば何であってもさしつかえない。経済学者のフリードマンは、この「受容性」こそが貨幣を成立させる基本条件だ、といっている。要するに貨幣を支えるのは、信念の問題なのである。  紙に一定の交換価値を印刷して流通させること、すなわち紙幣は、中国では宋代からはじまっているが、アメリカで紙幣発行を決断したのはリンカーン。それが正式に流通しはじめたのは一八六二年二月五日であった。そして、やがて、リンカーン自身の肖像がドル札に印刷されることになる。   2月6日 ■栄光の産業スパイ■石川県金沢生まれの清水誠は、明治三年、藩費留学生としてフランスにおもむき、天文学を専攻し同八年に帰国したが、その研究のかたわら、理工学の各分野についても知識を吸収した。そのフランス滞在中のある日、宮内庁次官吉井友実がひょっこりたずねてきた。吉井は、たまたまテーブルの上にあったマッチをとりあげ、このごろの日本は輪入超過で困っている、こんなマッチひとつでも輪入しなければならないのだからなあ、とつぶやき、清水にむかって、マッチの国産化に努力してみてくれないか、と相談した。  清水は、たしかにごもっとも、日本は山林がゆたかですから、材料にはこと欠きません、やってみましょう、と答えた。ところが、さて、マッチの製法というのがわからない。というのは、安全マッチはスウェーデンの「ヨンコピンク社」の発明によるもので、その製法は完全な企業機密の壁で厚くとざされている。尋常の手段では工場見学はできない。かれはそこで調査をはじめた。まずこの会社に資金を供給しているのがストックホルム銀行であることをつきとめ、さらにこの銀行の背後にあるのがフランス銀行であることを知った。いわば金融筋からの探索である。そしてフランス銀行の頭取に近づき、その紹介状をもってスウェーデンにおもむいた。さらに、新聞を利用し、スウェーデン諸産業見学のために日本人が来た、と書き立てさせた。そして、さまざまな工場をカモフラージュ用に視察し、最後に「ヨンコピンク」の工場を悠々と訪問した。フランス銀行からの紹介状があるのだから、この会社は清水の訪問を拒絶することができず、社長みずから案内してくれたが、秘密を盗まれては、というので、かけ足で案内する。清水がちょっと立ちどまると、はやくとせき立てる。しかし、それにもかかわらず、清水はカンどころをしっかりと頭にたたみこみ、帰朝後、日本でマッチ製造に成功する。そして明治一〇年には、マッチは日本から中国・東南アジアへ輸出するところまで成長し、その功によってかれはかずかずの賞をあたえられた。名誉ある産業スパイというべきであろう。清水は一八九九(明治三二)年二月六日、大阪で没した。 ■歯みがき売りの開始■大郷信斎の書物、『道聴塗説』のなかの「歯磨の角力」という項の伝えるところによると、寛永年代のおわりごろ(一六四三)に、丁子屋喜左衛門という一商人が当時来朝した朝鮮人から歯みがきの製法を教えられたらしい。これが歯みがき製造のはじまりだといわれているが、これらの歯みがきは、いわゆる歯みがき売りという一種の大道芸人がいて、かれらによって販売されていたのだった。楊枝や塩を使って歯をみがく人は武家階級や上層の一部に限られ、当時の人びとの大部分は、いわゆる口すすぎの程度であった。このような人びとに新製品を売り込むために、並々ならぬ苦心が払われたのであろう。そこででてきたのが、この、歯みがき売りである。彼らは歯みがきを箱に入れてかついで売り歩いたが、そこでいろいろな芸を見せて人集めをした。このなかで特に有名だったのは、百眼米吉、という人物である。「百眼《ひやくまなこ》」というのは、目かつらを取り替えたりして目つきをかえ、変相してみせる一種の寄席芸であるが、彼が行くところはどこでも黒山の人だかり。当時、百眼米吉の名は子どもでも知らないものはなかった。それほどまでに有名だったので、ついに彼の名は狂言にまででるようになったのである。河原崎座切狂言『霞色連一群』の景事に、大坂新下り嵐璃※[#「王+玉」]が米吉に扮して喝采をあびたのは、一八五三(嘉永六)年の二月六日のことであった。   2月7日 ■ふしぎなデモ■一六〇一年二月七日、イギリスのエセックス公は手兵三〇〇人をひきいてロンドン市内をデモ行進した。それというのも、エセックス公は、かれにあたえられていたポート・ワインの特許が更新されなかったことに不満をもっていたからだ。デモ隊は「女王さま、わたしはワナにはめられました!」と口々に叫び、特許局の不当な取扱いに抗議したのである。  ところが、その努力にもかかわらず、ロンドン市民は冷淡であった。要するに、このデモは世論の支持をうけることができなかったのだ。そればかりではない。このふとどきなデモにエリザベス女王は大いに怒り、軍隊を出動させてエセックス公の館を攻撃した。もはやかなわぬ運命と、公は降服。とらえられて裁判にかけられ、二月二五日、呆気なく死刑に処せられてしまった。  だいたい、エセックス公はエリザベス女王からみると、もともと、好ましい人物ではなかった。この事件に先立つこと二年、女王の命によってエセックス公はアイルランドの叛乱軍を鎮圧すべく出動したのだが、逆に叛乱軍の反撃にあって、あげくのはてに、屈辱的な講和条約に調印させられ、すごすごとイングランドに戻ってきたという前歴がある。それにもかかわらず、ポート・ワインの特許などという、まことに世俗的な利害をめぐって私兵を動員し、デモをするなどというのはもってのほか、というわけ。まことに冴えないデモであった。 ■剣士の運命■肉親や親族が他人によって殺されたり傷つけられたりしたときに、それに対する報復をすることは人類に普遍的な習慣だ。日本でも、それは慣行であったし、とりわけ武士社会では、仇討ちをすることこそが義務とされ、みごとに仇討ちをとげるまでは身分を保留されることさえあった。  しかし、この仇討ちを禁止する太政官布告が一八七三(明治六)年二月七日に出された。さらに、その三年後には帯刀禁止令。こういうことになると、腕におぼえのある剣士たちはどうにも生活が成り立たず、竹刀を使った「撃剣会」なる見世物をはじめることになる。切符は吉原の引手茶屋が売り、高名な剣士は羽織ハカマで見分役をひきうけるが、相撲とおなじく、東西の剣士を呼び出すのはタイコ持ちであって、剣道も地におちた感があった。そのうえ、やがてこうした撃剣会も禁止され、明治三〇年代のおわりに、やっと、伝統武芸としての剣道が、ふたたび辛うじて復活したのであった。   2月8日 ■唐物屋の災難■幕末のころ、極端な攘夷派の浪士たちは西洋からの輸入品、すなわち「唐物」をあつかう業者たちを夷狄《いてき》と見なした。つまり、輸入をすればそれだけ日本の金が海外に流出し、国益に反するというのがかれらの見解だったのである。  そんなわけで、唐物屋はしばしばこうした浪士たちから襲撃をうけた。伊勢屋平兵衛なる横浜の商人は、脅迫されたばかりでなく、一八六四(文久四)年には暗殺されている。名古屋で紅葉屋という店を出していた神野金平は、一八六六(慶応二)年正月に、尾張藩の右翼グループ、金鉄組から廃業を勧告された。金平は、ひたすら低姿勢で金鉄組に接し、廃業を約束したが、ただ在庫品を売りつくすまでは営業をつづけさせてくれ、という妥協条件をつけた。金鉄組もその紅葉屋の条件をうけいれた。  ところが、近日中に廃業するという噂が乱れとんだため、いまのうちに買っておこうという客が殺到する。紅葉屋は大繁昌。ただ、ふしぎなことに、わずかしか残っていなかったはずの在庫がいつになってもなくならない。それというのも、抜目のない金平は、ひそかに横浜あたりから続々と品物を仕入れつづけていたからだ。ほぼひと月あまり、こんなふうにして紅葉屋は大儲けをつづける。そしてそのインチキ商法はやがて金鉄組にも知れてしまう。  ついに同年二月八日、金鉄組の六人が、抜力して紅葉屋を襲う。金平以下、店の者は逃げ出して無事だったが、侍たちは店内の商品を徹底的に破壊してひきあげた。金鉄組はまもなく処罰されたけれども、金平のほうはこの事件の翌日にさっそく横浜に直行して仕入れをしている。明治の商魂はさすがにたくましい。 ■ミシンの発明■きょうは針供養。硬く細い棒に穴をあけ、そこに糸を通してものを縫う道具として使うことは、人類史における大発明のひとつだが、最古の針としては、いまから約四万年前のものと推定されるものが出土している。材料はマンモスやセイウチの牙。旧石器時代のものだ。  針を使って機械的な縫製をすること、すなわちミシンの考案は、一七七五年、イギリス人C・ワイゼンホールによっておこなわれた。かれは中央に穴のある二重針を考案し、これを交互にうごかすことで縫製の機械化をはかったのである。  それからしばらくたって、フランスの貧乏な仕立屋ティモニエなる人物が、こんにちのミシンの原型ともいうべき縫製機械を発明、これを需要の多い軍服の仕立てに応用して大量生産に成功したけれども、機械化による失業をおそれた職人たちはティモニエの仕事場になぐりこみをかけ、ミシン第一号はむざんにもこわされてしまったのであった。本格的なミシンの発明者はアメリカのE・バウ。かれはその特許権をI・シンガーに売り、かくして一九世紀のおわりからミシンは普及しはじめた。   2月9日 ■海と万年筆■二月二日の記事のつづきとしてお読みいただきたい。エボナイトが輸入されるようになると、それを原料にして万年筆の工業化へのこころみがおこなわれはじめた。まず一九一五(大正四)年に、商船学校機関科教授であった並木良輔が並木製作所を設立し、金ペンと万年筆の製造に着手した。並木は技術者で、海図の作成に必要な烏口の特許をもっていたので、そこからおなじ筆記具の万年筆に挑戦しようとしたのである。しかし、研究開発の途上で資金難におちいり、助力を商船学校の同窓生で船長となっていた和田正雄にもとめた。和田は、並木への友情と信頼から、当時の金で五〇〇〇円を送り、そのおかげで並木は、ついに一四金ペンを完成させた。一九一六(大正五)年二月九日午後三時のことである。  このふたりはともに商船学校の出身者であったから、それにちなんで、商標は「パイロット」とし、また、初期の製品には浮輸のマークをつけた。経営はかならずしも順調ではなかったが、創業五年目には、年間二五万本の生産量を誇るようになった。  これとほぼ前後して、日露戦争後に、当時、呉にいた阪田九五郎は、阪田製作所をおこし、そこで万年筆の製造を開始した。そのときに呉の軍港を見ていたことから、また、島国日本の将来は海にかかっている、という信念から、製作した万年筆を「セーラー万年筆」と名づけた。したがって、日本の初期の万年筆は、いずれも、海と船乗りに関係していたということになる,日本の万年筆メーカーのなかで、「プラチナ万年筆」だけは、万年筆に関係の深い金属をその銘柄として採用している。この万年筆会社は中田俊一の手によって大正八年に創業された。 ■人肉食の記録■未開社会のなかに、ほんとうに「人喰人種」がいたかどうか、については人類学者たちのあいだでことなった見解があるけれども、かえって文明社会のなかにいくつかの人肉食の記録がある。  一八七四年二月九日、六人の若ものたちがチームを組んで、ロッキー山脈の横断旅行に出発した。だが、四月一六日になって目的地たるロス・ピノスに到着したのはA・パッカーなる人物ただひとり。他のメンバーはいったいどうしたのか、という訊問に答えて、パッカーはついに告白した。つまり、この道中で食糧がなくなり、つぎつぎに凍死した仲間たちの肉を食べてしまった、というのである。最後に残ったのはパッカーとW・ベルのふたりだけ。そこで文字どおり「食うか食われるか」の大格闘のあげく、パッカーはベルを殺して食べた。パッカーは一七年の刑を言いわたされたが、出獄後も元気で六五歳まで生きた。コロラド大学の学生たちは、大学食堂の食事の粗末さを諷刺して、その食堂を「A・パッカー・グリル」と命名し、その名前はこんにちなお健在である。  時代はやや下って一九一九年、ハノーバーにいたドイツ人F・ハルマンは、第一次大戦後の食糧不足につけこみ、ひそかに人肉を売ることをかんがえついた。かれは、一三歳から二〇歳までの若い青少年男女を合計二八人殺害し、バラバラにしたうえでひき肉にしてソーセージをつくり、それを販売したのであった。その事実が発覚したのは一九二四年。かれは死刑に処せられた。  一九三四年には、ニュー・ヨークの塗装工A・フィッシュがおなじく人肉食の罪で起訴され、おなじく死刑を言いわたされた。かれはすくなくとも一五人の幼児を殺し、その肉をシチューにして食べていたのであった。   2月10日 ■エックス線のはじめ■ドイツのレントゲン博士(一九二三年二月一〇日没)がいわゆるエックス線を発見したのは一八九五年だが、その発見は翌九六(明治二九)年には日本に輸入された。その年の一〇月、京都木屋町二条上ル島津製作所の実験室で日本最初のエックス線の実験がおこなわれている。レントゲンの発見のニュースは帝国大学にとどいたが、京都では三高の村岡範為馳教授がこれに着目して研究にとりかかった。村岡はドイツに留学してレントゲンの指導をうけ、その理論と実際を日本にもたらした。しかし当時、京都には満足な実験室がなく、電源設備のある島津製作所で実験をこころみたのであった。  この実験には村岡をはじめ島津の二代島津源蔵が立ちあった。実験は失敗をかさねたが、ある日、島津はその所蔵するガラス回転板による発電機を電源として用い、笠原光興博士がドイツから持ち帰った真空管を利用して、エックス線の画像を得た。  この実験はきわめて単純なもので、真空管を天井から絹糸でつるし、その下に写真乾板を置いた、という程度のもの。発電機をおよそ一時間作動させ、それを現像したところ、辛うじてエックス線画像が得られた。  この実験にあたっては、発電機に高圧電流を得ることに苦心がかたむけられたが、とりわけ、被写体と乾板の距離の調節が至難のわざであった。しかも、この実験には、暗室状態が必要であったため、日中の撮影はいっさいおこなわず、もっぱら夜間を利用して、三高の物理学者たちがあれこれと機器を操作した。その後、感電コイルを用いて研究がすすめられ、島津製作所では、二〇センチメートルの放電によって、良好な画像を得ることができた。 ■タコのはじまり■一八七七(明治一〇)年二月一〇日、交通妨害という理由によってタコあげ、羽根つきから、コマあそびまでが禁止された。ところで、そもそも、タコがいつ発明されたか、ということになると、その起源はきわめて古い。西洋の記録では紀元前二三〇年、アルキメデスが考案したといわれ、中国でもほぼおなじころ、『史記』でおなじみの韓信がタコをつくって敵陣を偵察したともいう。日本のタコは中国からの輸入であって、『和名抄』には「紙鳶《しえん》」ということばで登場している。  しかしこれが遊具として使われるようになったのはきわめてあたらしいことであって、タコではじめてあそんだのは、徳川家康であった。すなわち、一五七二(元亀三)年に家康の家臣と秀康の家来が浜松城の大手前でタコあげ競争をしたのがそのはじまり。タコの伝統的図柄が武者絵であったり、あるいは形態から奴ダコが生まれたりしたのも、このような武家文化の背景があったからであろう。なお、禁令がこの日に出たのは、明治はじめの日本が旧暦を採用しており、この日が正月にあたっていたからである。   2月11日 ■バンザイと馬■「バンザイ」ということばは、すでにいくつかの外国語の辞書にものるようになって、海外に輸出された日本語のひとつになっている。その意味は第二次大戦中の日本軍の玉砕攻撃、つまり、バンザイを叫んで突撃する白兵戦のこと。「カミカゼ」とならんで「バンザイ」は、太平洋戦争が世界にのこした遺産というべきであろうか。  ところでこの「バンザイ」すなわち「万歳」は、いつ、どんな事情から使われるようになったのであろうか。記録によると、明治二二年二月一一日、明治天皇が憲法発布の記念観兵式を代々木練兵場であげるにあたって、一高の生徒たちが、天皇を宮城前で迎え、祝賀しよう、ということになった。ただ、しずかに迎える、というのも芸がない。西洋の例をみると元首にたいしては、歓呼の声をあげるのがふつうである。そこで、日本でも、しかるべき歓声をつくろうというので、同校の教師や生徒が衆知をあつめ、経済学教授の和田垣謙三博士が「万歳、万歳、万々歳」ということばを採用した。このことばをみんなで大声をあげて叫ぼう、というわけ。  いよいよ当日になった。あらかじめの練習もゆきとどいていたから、教職員、生徒一同、せいいっぱいの声をふりしぼり、この歓呼の声をあげた。それはそれでよろしかったのだが、おどろいたのは、隊列をととのえて行進中の騎兵隊の馬たちであった。こんなすさまじい声をきいたことがない。びっくりして棒立ちになり、大さわぎになってしまった。これでは祝賀も歓迎もあったものではない。一高の教職員、生徒は、最初の「万歳、万歳」を叫んだが、馬をとりしずめるため、第三唱の「万々歳」を叫ぶことを中止したのであった。だが、これが、未完成ながら万歳三唱のはじまりだったのである。 ■エジソンと未完のSF■発明王エジソンは一八四七年二月一一日生まれ。その天才的な発明に深く感銘したG・ランスロップなる作家は、一八九〇年ごろ、エジソンと共同でSFを書こうとこころみた。エジソンはJ・ヴェルヌの作品の愛読者でもあったし、ランスロップが高名な作家ホーソンの甥であったという事情も手つだって、こころよく共同執筆をひきうけた。出版社も大いに乗気で仮題『プログレス』というSF作品が書かれはじめた。テーマになっていたのは二〇世紀後半の技術予測であって、エジソンは、プラスチックの出現を予測し、生化学の進歩を論じ、火星旅行を語り、ついには、言語を解するサル、という「猿の惑星」のごときアイデアまで出した。  ところが、この共同執筆は、ついに完成することがなかった。それというのも、エジソンは執筆の途中で、本業の発明のしごとに忙殺され、文学への関心が消えてしまったからである。もし、これが完成していたら、SFの古典の一冊になっていたにちがいない。   2月12日 ■ハンカチとブラジャー■ブラジャーの特許は一九一四年二月一二日にマリー・フェルプ・ジャコブという女性にあたえられている。彼女は、当時の社交界で女性たちがコルセットでしめつけられているのに気がつき、どうにかしてもっと自由な下着はできないものかとかんがえた。そして、フランス人のメイドといっしょに、二枚のハンカチをリボンでつないでブラジャーの原型をつくった。この発明は注目を浴びたが、デザインや販路に問題があり、すぐには売れなかった。ブラジャーが商品として爆発的な人気をあつめ、女性の服装をかえてゆくのは二〇年代にはいってからのことであった。 ■糞尿の値段■江戸開府(一六〇三年二月一二日)以来、日本のあらたな政治的中心地たる江戸の人口は膨張するいっぽうだった。とりわけ元禄時代以後は人口百万を越す大都市となり、その規模は当時の世界で最大であった。当然のことながら、人間は排泄する。百万人の排泄物は、厖大な量にのぼった。そして、この排泄物に目をつけたのが近在の農民である。江戸の市民は上等の食生活をしていたから、したがって、その糞尿は、農民にとって貴重な下肥《しもごえ》なのであった。その獲得に農民たちははげしい競争を展開する。大名屋敷などでは、その競争を利用して糞尿の値段をつりあげた。年間、金何両、それに野菜とその他の農作物をこれだけ、といったふうに、糞尿価格はどちらかといえば売手市場だったのである。そして、この奇妙な取引が活発化しはじめると、供給者、つまり江戸市民と、需要家、すなわち農民との直接取引の中間にはいって利ザヤかせぎをしようとする糞尿ブローカーが出現するようになった。かれらは、江戸の排泄物を川越まで船ではこび、帰りの船で野菜を江戸に運搬した。  その結果、こんどは、農産物価格が上昇する。要するに、糞尿価格と農産物価格とがはてしのないイタチごっこにまきこまれることになってしまったのだ。こんなふうに、江戸の排泄物によって近郊農村が肥料を調達する、という方式は明治になってもつづいた。一般家庭にも近在の農家が定期的に汲みとりにやってきて、そのたびに、野菜などを代価として支払っていたのである。だが大正期になって、化学肥料が普及しはじめると、だんだん下肥の需要は減少してきた。そして逆に、こんどは、汲みとり料を払って排泄物の始末をしてもらわなければならなくなった。日本の都市で水洗便所が近年にいたるまで普及しなかったのは、ひとえに、このような糞尿史がその背景にあったからなのである。   2月13日 ■ユーゴーの迷信■一三日の金曜日というのはキリスト教徒にとって最悪の日。その理由は、まず第一に、キリストの処刑が金曜日であったからであり、第二に、キリストが一二使徒とともに例の「最後の晩餐」のテーブルをかこんだときに一三番目の席にすわったのが裏切者のユダであったからだ。こんにちでも西洋人は一三という数について物忌みをし、たとえば高層建築やホテルなどで一三階を省略していることはよく知られている。  フランスの作家のなかでは、デュマ、ユーゴー、ゴーティエなどがしきりに一三という数字を気にした。たとえば、ゴーティエは、ある日、デュマやサント・ブーヴなどといっしょにパリのセーヌ左岸で食事をすることになったが、会食者の数が一三人であることが気がかりでしかたなかった。結局、かれは他の一二人と別にひとり用のテーブルを用意させ、単独で食事をすることにしたのだけれども、それでも総勢一三人であることにかわりはない。やむをえず、かれはこのレストランの経営者の息子をいっしょのテーブルに着かせ、一四人のメンバーで食事をとった。  ユーゴーもたいへんなかつぎ屋であった。それというのも、かれのきょうだいが死んだとき、食卓にはしばしば一三人があつまっていたからである。ところが、それにもかかわらず、かれは、あるとき一三の連続パンチをくらってしまった。一八七一年の冬、かれは国民議会に出席しなければならなかったが、会場のボルドーにむかってパリを出発したのが二月一三日。そしてこの日の一等車の乗客の数が一三人。さらに、ボルドーに到着してホテルに入ると、かれの部屋は一三号室であった。まさしく「ああ無情!」というわけだが、べつだん、かれの身のうえにはなにも起らなかったのである。 ■J・ジェイムズの母■西部開拓時代の悪党の代表として有名なジェシイ・ジェイムズがその第一回の銀行強盗に成功したのは一八六六年二月一三日。ちょうどその前年までつづいた南北戦争にかれは南軍ゲリラの一員として参加。したがって、ジェイムズは自暴自棄の敗残兵であったともいえる。  かれの父は、バプティスト派の牧師だったが、金鉱さがしに出たまま旅先で死んでしまった。母親のゼレルダはシムスという男性と再婚。しかし、この二度目の結婚はうまくゆかず離婚。それでもゼレルダは、子どもたちにとって父親はぜひ必要という強い信念をもっていたので、R・サミュエルズ博士という医者と三度目の結婚生活を送った。こうした母親の信念にもかかわらず、ジェイムズ兄弟は犯罪をかさねる結果になったのだけれども、ゼレルダはつねにやさしい母親でありつづけ、世間から向けられる冷たい目を、毅然としてはねかえし、その一生を終えた。   2月14日 ■パラシュートのはじまり■パラシュート、すなわち落下傘を考察し、みずからそれをはじめて実験したのはフランスのA・ガルヌランなる人物である。かれは一八〇二年に、気球から落下傘で無事に地上に舞いおりた。飛行機時代に先行した気球ブームのころ、風まかせの気球に乗った人たちのあいだで不慮の事故が何回かあり、そうしたばあいの緊急離脱装置としてこの落下傘は考察されたのであった。  第一次世界大戦のときには複葉のプロペラ戦闘機がヨーロッパの上空を飛びはじめていたが、イギリス空軍はどういうわけか、落下傘を気球部隊には装備したものの、飛行部隊は落下傘なしであった。高速で飛ぶ飛行機から離脱することなど想像もつかなかったのであろう。  しかし、ドイツ軍のほうは、はやくから乗員に落下傘を着けさせていた。飛行機が撃墜されそうになったり、故障して飛行不能になったりしたときでも、これを使ってパイロットは脱出できるというわけだ。ドイツはさらに、落下傘による物資投下、という方法をも開発した。地上輪送にくらべると、その輸送量に限度はあるけれども、はるかに速いし、とりわけ敵に包囲されている友軍に物資を補給したりするばあいには絶大な効果をおさめることができた。  こんなふうにしてパラシュートの軍事的利用は、その後、各国で秘密裡にすすめられ、第二次大戦を迎えた。ドイツはさっそくクレタ島に落下傘部隊を降下させてこの島を制圧。日本軍も一九四二(昭和一七)年二月一四日にスマトラのパレンバン地方に落下傘部隊を投入して油田地帯を確保した。いわゆる「空の神兵」である。その後、落下傘部隊は一般に空挺隊ということばで呼ばれるようになり、局地的奇襲の戦術として、しばしば利用されることになる。例のノルマンディ上陸作戦でも、ドイツ軍の退路を断つためアメリカの空挺隊が活躍した。 ■カポネの墓■一九二九年二月一四日、シカゴの北クラーク通りに、警官に化けた五人の男があらわれ、かたわらの空倉庫に入っていった。倉庫のなかには、シカゴのギャングとして知られるB・モーランの手下があつまっていた。いったい警官がなにをしにきたのか、まったく無防備の男たちは、ニセ警官のマシンガンのまえに、ばたばたとたおれた。これが「血のバレンタイン・デー」である。あんまりロマンチックな話ではない。  ニセ警官を仕立てたのは、モーランとナワ張り争いをしていたアル・カポネであるらしいが、さすがにアリバイは完全だし、犯罪を立証する証拠はひとつもない。完全犯罪である。カポネはしかし、この三年後に脱税で起訴され、七年間を刑務所で服役したが、出獄後は完全に落ちぶれて、無一文同然のまま一九四七年に死んだ。かれは、まずシカゴのマウント・オリベット墓地に埋葬されたが、五年後の一九五二年におなじくシカゴのマウント・カーメル墓地に改葬された。墓碑銘「わが主よ慈悲を」   2月15日 ■赤絵とその伝来■陶磁器の表面の上釉《うわぐすり》の上に、赤・青・緑などの色釉をつけて模様をえがく技法を赤絵という。したがって、赤絵の「赤」は、むしろ「色」という意味であって、要するに色つきの陶磁器を総称する。土器に色をつけることは、古代以来おこなわれてきた技法だが、陶磁の絵付のばあいには、二度焼きが必要であり、さらに、色は金属化合物を使ってはじめて得られるものであったから、その発明はかなりおそかった。現存している赤絵のいちばん古いものは、中国の南宋のころにつくられた直径一五センチほどの碗であって、それは、「泰和元年二月一五日」つまり、一二世紀のおわりの作品である。  この技法は、明の時代にひきつがれ、より洗練され、いわゆる「明赤絵」をつくりあげた。そして、一七世紀のはじめになって、日本にも赤絵付の技術がはいってきた。古伊万里や色鍋島などがその初期の作品として有名だが、独特の「にごし手」と呼ばれるうすいベージュ色の上釉のうえに、鮮明な発色の朱色にちかい色を置くことに成功したのは、いうまでもなく有田の酒井田柿右衛門である。そして、伊万里だの柿右衛門だのは、海をわたって、ヨーロッパ各地でそのあざやかな色どりが賞讃され、それが契機になって、ヨーロッパの陶磁産業がはじまったのであった。よく知られているように、日本から輸入した赤絵の皿やツボが、あまりにも好評であったため、その模造品も数多くヨーロッパで生産された。ヨーロッパ社会でも、日本のデザイン盗用は、べつだん珍しいことではなかったのである。 ■カボチャの起源■カボチャの原産地は南アメリカであって、二〇〇〇年くらいむかしから栽培されていたらしいが、これが日本に渡来したのはまず天文年間(一五三二—五五)ポルトガル船が豊後にもたらしたのが最初であった。一七世紀になると、こんどはオランダ人が日本にふさわしいとおもわれる栽培植物をとりまとめて幕府に献上。一六三四(寛永一一)年二月一五日に、その献上式がおこなわれ、このなかにもカボチャの新種がふくまれていた。  カボチャとひとくちにいうが、正しくはニホンカボチャ、ポンチン、ナタウリの三種があり、日本でつくられているのはその名の示すとおりニホンカボチャが大部分である。天文年間にきた最初のカボチャがこの原種であって、その後、日本各地で品種改良がおこなわれた結果、いまのところ、およそ一五〇〇品種に分化している。原産は南米でも、ニホンカボチャは日本のものなのだ。   2月16日 ■蒸気機関車第一号の消滅■日本最初の蒸気機関車は、嘉永七年、ペリー提督の二回目の来日のときであった。かれはアメリカ大統領から江戸幕府への贈りものとして、合計三三個の物産をもってきたのだが、そのなかのもっとも大型のものが「蒸気車」だったのである。同年二月一五日、この機関車は陸揚げされ、一六日から組立作業がはじまった。アメリカ人五人がその作業にあたり、麦畑のなかに一二〇メートルほどの線路を敷設した。  米国使節が帰ると、この蒸気車は江戸にはこばれ、幕府の高官がこれを吹上御苑のなかで観覧した、と記録されているが、どんな方法でこの機関車が浦賀から江戸まで運搬されたのかはわからない。最初の試運転のとき、江川太郎左衛門が立ち会って見学していたというから、ことによると、江川らが分解し、再組立てをしたのかも知れぬ。その後、機関車は江戸城内で厳重に保管されていたが、文久元年、研究材料として開成所に寄贈され、その後は海軍所がこれを保管することになった。ところが、そこからあと、この第一号機関車は消滅してしまったのである。明治五年、この幻の機関車を陳列すべく京都博覧会の主催者は血眼になって探索したけれども、見つからなかった。どうやら、維新の動乱中に火事で焼けてしまったものであるらしい。 ■小切手のはじまり■一般に流通する貨幣は国家や国立銀行をその信用の母胎としているが、小切手というのは、いわば個人信用にもとづく私的な信用貨幣といってよろしかろう。たとえ現金をもっていなくても、信用ある個人は銀行で小切手帳をつくり、その小切手で決済ができる。  こういう銀行小切手が最初に着想されたのは一七世紀なかばのイギリス。そして、このあたらしい金融システムを使って、最初に小切手を切ったのはニコラス・バナッカーという人物であり、支払先はデルボーという人であった。デルボーはこの小切手を、銀行家のクレイトン・モリス事務所で現金に換えた。このときから小切手は世界の金融決済に大革命をもたらしたのである。この記念すべき世界の小切手第一号は、そのままの姿で、こんにちもなおウェストミンスター銀行にのこっている。その小切手の日付、一六五九年二月一六日。   2月17日 ■歌舞伎からモーツアルトへ■大坂の狂言作者並木正三(一七七三〈安永二〉年二月一七日没)は、はじめ浄瑠璃を書いていたが、のち、歌舞伎の脚本に専念して二〇年間に九〇篇の作品を執筆した。だが、かれは、たんに作者というだけではなく、演出、とりわけ舞台装置に興味をもち、さまざまな新工夫をこらした。まず一七五三(宝暦三)年、「けいせい天羽衣」の上演にあたって大仕掛けのせり出しを用い、おなじ年、「三十石※[#「舟+登」]始(よぶねのはじまり)」を舞台にかけたときには、劇場じたいを改造して、まわり舞台、という発明で人びとをおどろかせた。まわり舞台、とはいうまでもなく、舞台中央に大きな回転板を装置し、これを舞台の下でまわして場面転換をはかる方法である。これを使うと、幕をおろして次の場面、というのではなく、時間と空間にみごとな連続性ができあがってゆく。この並木正三の発明で、江戸中期以降の歌舞伎はぐんと迫力のあるものになった。  この日本の劇場をみて感嘆した外国の人物がいた。それはドイツのカール・ラウテンシュレーガーである。まわり舞台——なんとすばらしい舞台技術を日本人は発明したのであろうか、ラウテンシュレーガーは、さっそくこれをヨーロッパの劇場に応用してみようとかんがえた。そして、あれこれと実験をかさねたすえに、一八九六年、ミュンヘンの宮廷劇場でモーツアルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」を演出するにあたって、直径一二メートルのまわり舞台を設計し、オペラの上演形式にひとつの革命的新風を吹きこんだ。また、ヨーロッパで最大の舞台演出家として有名なラインハルトも、この日本の技法に感心し、「真夏の夜の夢」その他の演出にまわり舞台を駆使して絶讃を浴びた。こんにち、世界の劇場芸術でごくあたりまえに使われているまわり舞台は、そもそも、日本の歌舞伎が開発したものだったのである。 ■モリエールの墓■モリエール(一六七三年二月一七日没)の父は、ルイ一三世の宮廷家具職人であった。モリエールも、ほんらいならその家業を継ぐべく期待されていたのだが、俳優という、当時もっとも下賤とされていた職業をえらんだ。いうまでもなく、モリエールは、のちに不朽の劇作家としてその名をのこしたが、かれの言動が教会で物議をかもし、しかも、劇場とかかわっていたため、しかるべき墓地に埋葬することができなかった。したがって、モリエールの墓がどこにあるのか、まったくわかっていない。   2月18日 ■航空郵便のはじまり■近代文明のつくりあげた成果をはじめてこころみたのは、ほとんど例外なしに工業文明国だが、飛行機を使って郵便物をはこぶ、というアイデアを最初に実行にうつしたのはインドであった。もっとも、これに使われた飛行機はハンバー・ゾマー複葉機、そしてパイロットはイギリス人のH・パケー。かれは一九一一年二月一八日、インドのアラハバドで約八キロを数千通の手紙を積んで飛び、そこから鉄道に積みかえた。つまり、交通事情のわるいところから鉄道の駅のあるところまで、というのが航空郵便第一号だったのである。  ヨーロッパでも、このころには実験的に航空郵便がはじまり、イギリス国内郵便の一部を空輸するといった実験がこころみられた。一九一七年になると、最初の国際航空郵便がイタリアとアルバニアのあいだを結んだが、これは一年あまりでとりやめになった。オーストリア・ハンガリー王朝が崩壊するという政変が起きたからである。  ところで、リンドバーグその他の飛行家が大西洋横断飛行に成功すると、北アメリカとヨーロッパのあいだの郵便を飛行機ではこぶことはできないか、という希望がつよくなってきた。いうまでもなく、アメリカ人の大多数はヨーロッパから移住してきた人びととその子孫たちである。親戚縁者や友人知己はヨーロッパにたくさんいるから、欧・米間の文通はさかんだった。それが船便だと半月ちかくかかる。飛行機なら翌日に着くはずだ。かくしてアメリカ国民期待のもとに一九一九年のはじめ、ヨーロッパ向けの手紙を積みこんだ飛行機がアメリカ東海岸を飛び立ったが、大西洋のまんなかで事故のため不時着水してしまった。乗員は奇蹟的に救助されたが、郵便物のほうは飛行機の残骸にのったまま大西洋を漂流しつづけ、数日後にたまたま付近を航行中の船がそれを発見して回収した。当然のことながら、郵便物はびしょ濡れ。辛うじて宛名を判読して、それらの郵便物はヨーロッパ各地に配達されたが、この郵便物を一手に引きうけたロンドン郵便局は「最初に大西洋を横断した郵便物」というスタンプを特製して押した。 ■ミケランジェロの鼻■天才的彫刻家ミケランジェロは一五六四年二月一八日にその一生を閉じたが、かれの容貌についてはあまり多くは知られていない。同時代の歴史家によると、ミケランジェロは、鼻がぺしゃんこで低かった。前額部が大きく張り出していたから、鼻はその下にかくれていた、という。  その少年期にミケランジェロはピエトロ・トリギアーノという芸術家に悪ふざけをしてからかい、怒ったトリギアーノがミケランジェロをなぐった、という事件があった。トリギアーノの述懐によると、かれがミケランジェロの鼻をめがけて握りこぶしで一撃を加えたところ、そのはずみでミケランジェロの鼻骨が砕け、鼻ぜんたいが「ウエファーのように平らになってしまった」のだという。トリギアーノは「かくして、ミケランジェロは、わたしの残した記念すべき痕跡をその肉体にのこしたまま一生を送った」とその日記に記録している。鼻ぺしゃの理由は右のとおり。   2月19日 ■床屋の椅子■家具の歴史をふりかえってみると、一九世紀なかばというのは、もろもろの機構をそなえた機械仕掛けの家具が続々と登場した時代である。背もたれを自由な角度に調節することのできる理髪用の椅子もそのひとつであった。この発明によって、理髪師は、お客の髪を刈ったり、ヒゲを剃ったりというもろもろの作業を、効率よくおこなえるようになった。じっさい、この発明以前には、ヒゲ剃りのばあい、理髪師は、まっすぐにすわっている客のアゴを下からのぞきこむようにして、ずいぶん無理な姿勢でカミソリを使わなければならなかった。自由に傾斜角度を変えることのできるこのあたらしい理髪専用の椅子は、理髪業のあり方を大きくかえたのである。この椅子の技術革新は、まずアメリカで展開し、こんにちの理髪用椅子の原型となる機械椅子の最初の特許は一八七三年二月一九日に認可されている。なお一九〇六年になると、理髪用椅子にマッサージ器が組みこまれて、いよいよ椅子の装置化が完成した。こんなふうに、椅子が傾斜すると、お客は完全にその姿勢を理髪師にあずけることになり、身体の自由を奪われることになる。そこでアメリカのギャング全盛時代には、確実な暗殺の舞台として、しばしば理髪店がえらばれた。なぜなら、犠牲者は椅子にしばりつけられていて、抵抗はおろか、身うごきさえできなかったからである。 ■オーナー・ドライバー第一号■日本にはじめて自動車というものが姿をあらわしたのは明治三三年のことであった。当時サンフランシスコに在住していた邦人有志が日本の皇室に献上する、というのではるばる太平洋をわたってきたのである。輸出入商社として有名な高田商会がさっそく組み立て、三宅坂で試運転をしてみたら、操作を誤り、あっというまに皇居のお濠に落ちてしまった。したがって、せっかくの輸入車第一号は呆気ない最後をとげたのであった。  それから数年後、まず三井財閥の三井高保が自動車を買い、つづいて有栖川宮がフランスを訪れ、イギリス人運転手をともなって帰国された。こんなふうに、わずかずつでも自動車というものが入ってくると、その取締りも必要になってくる。日本最初の自動車運転規則が施行されたのは、明治四〇年二月一九日であり、運転免許証第一号を交付されたのは三井家の運転手、鈴木守貞であった。いっぽう、オーナー・ドライバーとしてまずみずからハンドルをにぎったのは、イギリス留学を終えて帰国した大倉喜七郎である。かれは最新式のダイムラーの運転席にすわり、伊藤博文のような人物たちをのせて走りまわった。ちなみに明治四四年に東京で登録されていた自動車は合計八二台であった。   2月20日 ■日本人のオルガン演奏■伊東祐益、千々岩清左衛門という名前から連想するには、相当の年輩のオジサンということになろうけれども、これらの人物はじつのところ一〇代の少年たち。あの「天正遣欧使節」四人のなかのふたりである。  かれらは、一五八二(天正一〇)年二月二〇日にキリシタン牧師のヴァリニァーノにともなわれて長崎を出発し、マカオに九カ月のあいだ船待ちのため滞在。その後、一路ポルトガルにむかった。西洋のキリスト教会では、いうまでもなく音楽がきわめて重要な役割を果たす。このふたりは、マカオにいるあいだに西洋音楽の手ほどきをうけ、船の上でも練習に余念がなかった。  翌年夏、かれらは無事にリスボン着。九月におこなわれた聖十字架称讃祝日というハレの日の檜舞台で、当時、もっとも洗練された高度の楽器、三段鍵盤オルガンのまえにすわってみごとな演奏を披露した。はるばる極東からやってきた少年たちのあざやかな演奏に大司教は大よろこび。そしてこのあと五年間にわたって、かれらは声楽、器楽などをみっちり勉強し、その間、法王庁でグレゴリオ三世に謁見をたまわるなど、晴れがましい日々を送った。  ところが、一五八八年、いよいよ帰国というのでふたたびマカオに戻ってみると、その前年にキリシタン追放令を出していることがわかった。そのまま日本に帰っても、ひょっとすると首を切られてしまうかもしれぬ。そこでかれらはマカオにさらに二年滞在して故国の動静をうかがい、どうやら大丈夫らしいという見当がついたので、一五九〇年に日本に戻ってきた。秀吉はキリシタン追放を決定はしたものの、西洋から帰ってきたこの使節団をあたたかく迎えいれ、伊東、千々岩のふたりは、秀吉のまえで、西洋音楽を演奏し、秀吉も大いによろこんだ。 ■歌舞伎の語源■出雲阿国という女性については、あまり多くのことがわかっていないが、彼女が、江戸に出てきて歌舞伎踊りを披露したのは一六〇七(慶長一二)年二月二〇日。よく知られているように、歌舞伎、というのは「かぶく」という動詞が名詞化したもの。「かぶく」というのは、ちょっと風変りなことをする、人目をひくようなことをする、といったような意味であって、「かぶき者」とはよく言えば一種の前衛芸術家のような人間たちのことであった。  ただ出雲阿国という人物は、その名前がしめすように出雲の出身であり、彼女を描いた絵図をみると、首から経筒をぶらさげていることがわかる。要するに、彼女は出雲大社の巫女ないしその周辺にいた人物のひとりなのであった。巫女という聖職者はさまざまな転身をとげるけれども、阿国は庶民芸術の世界にとびこんだのである。日本の伝統芸術のひとつである歌舞伎はこんなふうにしてはじまった。   2月21日 ■スピノザとクモ■哲学者のスピノザは、無神論者としてユダヤ教会から除名され、それでも毅然として思索と著述にはげんでいたが、肺結核が徐々にかれの体をむしばんでいた。かれの健康状態は、きわめて悪かったのである。はげしい咳に悩まされ、数カ月にわたって部屋から一歩もそとに出ない、という生活がつづいた。  そんなある日、かれは、たまたま室内の片隅でクモの交尾を観察する機会にめぐまれた。見ていると、交尾の終了後、メスのクモはオスを食べてしまった。その事実から、かれは、神が宇宙とおなじだけ広汎なものだ、と結論した。クモは宇宙の一部であり、そのクモの交尾というのは、かくのごとくに残酷なものである。とするなら、神は善のみでなく、悪をも包摂する存在である、とかれは推論を立てたのである。  そして、その一般理論をみずからにあてはめてみると、スピノザのごとき善良なる人間が肺結核という悪によっておかされることも神の摂理というものであろう、という正当化が可能であった。かれは、汎神論者であり、みずからを「自由人」と呼び、「死はとるに足りぬこと」であり、「およそ思索というものは生のためのものであって死のためのものではない」という立場をとりつづけていたのだが、かれの死にのぞんでの哲学を完成させたのは、メス、オス二匹のクモなのであった。スピノザは、かくして、クモを眺めながら一六七七年二月二一日に死んだのである。 ■機関車が走った■一八〇四年二月二一日、トレヴィシックがつくった「トラム・トレイン」がはじめて試運転に成功した。だが、線路になる鉄の強度が脆《もろ》かったり、汽罐の過熱処理がじゅうぶんでなかったりしたので、じっさいに鉄道が実用的に操業を開始するまでにはなお時間が必要であった。  最初に近代鉄道が敷かれたのは一八三〇年。リバプールとマンチェスターの二都市をむすんだ。その成果が驚異的であったので、イギリスはこのときから鉄道時代に突入する。とくに重要な幹線はロンドンとエジンバラをむすぶ鉄道であって、この鉄道が完成したおかげで、二都市の時間距離は五〇時間。まる二昼夜かかるわけだから、こんにちの基準からみると低速だけれども、それまで使われていた馬車がおなじ区間を走るには一二日から一五日ほどかかったわけだから、鉄道がいかに効率的であったかがわかる。当時の機関車の平均時速は二三キロ、最高時速は四六キロであった。 ■「アメリカ」の起源■新大陸アメリカを発見したのは一般にコロンブスということになっているが、じつは、コロンブスに先立ってアメリゴ・ヴェスプッチ(一五一二年二月二一日没)が大西洋を渡っている。かれはフィレンツェに生まれ、天文学や地誌への興味をもちながら、商人として地中海で活躍し、のちにスペインに移住した。  一四九九年、かれはスペインの探検船に加わってベネズエラ海岸に到着し、そののちも二回にわたって主としてブラジル地方を探検している。ただ、他の航海家たちとちがって、かれは航海日誌をつけていなかったし、その記憶にもとづく話も信頼性が足りなかったから、ヴェスプッチよりもコロンブスのほうが有名になってしまったのである。だが、一五〇七年、ドイツの地理学者ヴァルトゼーミューラーがその『世界誌』で、アメリゴの名にちなみ、新大陸を「アメリカ」と呼ぶことを提唱。かくして、この広大な地域の地名が決定されたのである。   2月22日 ■明治天皇とカバン■上野公園でひらかれていた勧業博覧会に明治天皇が行幸になったのは、一八八九(明治二二)年二月二二日のことであった。天皇の馬車は新橋から銀座通りを上野にむかってすすむ。ところが、ふと天皇が馬車の窓からそとをみると、銀座の谷沢商店のまえに「鞄」という文字を書いた看板がかかっていた。天皇はさっそく侍従に、あの字はなんと読むのか、とご下問になったが誰も読めない。宮中に戻ってから、みなで額を寄せあい、ありとあらゆる辞典にあたってみたのだが、こんな字はどこにも出ていない。  そこで、宮内庁から使者が谷沢商店に出むいて、ことの次第を説明すると、事態はきわめて簡単であった。要するに、西洋からはいってきたカバンの宛字として「革包」という漢字を使っていたのだが、看板をタテ書きでなく横書きにしていたため、あたかも、革ヘンに包をツクリにしたひと文字のように見えてしまったのだ。谷沢商店の主人は天皇からの質問にすくなからず恐縮し、さっそく、これに「かばん」とふりがなをつけた。この有名な看板は残念なことに、関東大震災で焼失してしまったが、結局のところ、明治天皇の疑問が契機になって、やがて「鞄」はあらたな日本製漢字として定着し、こんにちでは漢和辞典のなかでも市民権をあたえられるようになっている。 ■人名と単位■H・R・ヘルツ(一八五七年二月二二日没)はドイツの電気技師。かれは、電波の周波数についての研究をのこし、一秒あたりの周波数で電波を測定することを提唱した。その計測法はきわめて合理的だったので、かれの名前をとって、その単位をヘルツと呼ぶことになった。つまり、一ヘルツが一秒あたり一サイクル、そして一キロヘルツは一秒に一〇〇〇サイクルということになる。この表示方法は、こんにちの放送文化のなかにも健在である。  計測単位名をその発見者の名にちなんでつけた例は、このほかにもたくさんある。そのいくつかをあげると、古典的には、動力の単位としてのワット、これはいうまでもなくスコットランドの蒸気機関の発明家、ジェームズ・ワットの名前をとったもの。電圧をしめすボルトはイタリアのA・ボルタ、また電流の単位になっているアンペアは、フランスのアンドレ・マリー・アムペエールの名からきている。  あたらしいところでは、磁気誘導の単位としてつかわれているテスラ。この呼称の源となった物理学者のニコラ・テスラはユーゴスラビアに生まれたクロアチア人で、二七歳のときアメリカに移住し、アメリカの市民権を獲得して余生をアメリカに送り、一九四三年に死没した。かれの発見は、そのまま、テスラという計測単位になってつかわれている。   2月23日 ■金印の発見■「埋れた金印」として知られる「漢委奴国王」と刻まれた金印を福岡の志賀島で百姓甚兵衛が掘りあてたのは一七八四(天明四)年二月二三日のことであった。甚兵衛は、この日、用水路の手入れに出かけ、クワを入れたところ、堅いものにぶつかった。とり出して水で洗ってみたら、キラキラと光る。まさしく無垢の金である。甚兵衛はそれを役人に届け、役人は領主の黒田侯にとりついだ。黒田家はこの金印を家宝とすることにし、甚兵衛は白銀五〇枚というごほうびをいただいた。  一辺二センチほどのこの金印の文字を最初に解読したのは、黒田藩の儒者、亀井南冥だったというが、これを「漢の倭《わ》の奴《な》の国の王」と読むべきだ、という説を立てたのは三宅米吉。明治二五年のことである。だが、この金印の意味は、例の耶馬台国論争などともからんで、依然として謎につつまれている。正確な解釈の説明は、永遠に不可能であるかもしれない。 ■印刷術の進歩■近代印刷術の父というべきK・グーテンベルグ(一四六八年二月二三日没)は、「活字」という組みあわせ自由な単位を使って印刷術の基礎をつくった。その印刷機は、こんにちのいわゆる平板印刷で、古くは一枚ずつ紙を差しこんで圧力をかける、という手作業であった。そして、この印刷方法は、たいした技術的改良もなく、その後三世紀以上にわたってそのままのかたちでつづいた。  だが、新聞の発行が本格化すると、こうした手作業では間にあわなくなってくる。そこで、一八世紀のはじめ、ドイツの印刷屋フリードリヒ・ケーニヒはその主任技師フリードリヒ・バウアーをともなってロンドンに行き、そこで蒸気機関を使った機械印刷をこころみた。その性能にびっくりした「タイムズ」紙はさっそくこの機械を二台発注し、一八一四年から機械印刷に切りかえたのである。  このケーニヒ=バウアー式印刷機はその後五〇年ほどのあいだヨーロッパやアメリカの主要新聞社で採用されていたが、この平板印刷に根本的な技術革新をもたらしたのは、一八六三年アメリカのウィリアム・ブロックが発明した輪転印刷機である。これは紙、インクの供給がことごとく円筒を通っておこなわれ、また活字面も円筒化された機械であった。工程は完全に連続的になった。こんにちの印刷の主流になっている輪転機の原型はブロックによってつくられたといってよい。  植字を自動化したのはO・メルゲンタラーという人物。かれはドイツからアメリカに移住した技術者だが、タイプライターのような端末機を使って植字をおこなう、という難問に挑戦し、一〇年の年月をついやして、ついに一八八六年に「ライノタイプ」を完成した。これはまず「ニュー・ヨーク・トリビューン」紙が採用し、同社の編集部は一挙に三〇台を導入して新聞発行の能率をいちじるしく向上させることに成功した。   2月24日 ■日本国電信のはじまり■ペリー提督は一八五四(嘉永七)年に来航し、同年二月にいくつもの工業製品を幕府に献上した。そのなかに電信機がふくまれていたのは周知のとおり。この通信機械は「エレクトル・テレガラーフ、但し雷電機にて事を告げる機械」として記録にとどめられている。  この機械は、さっそく実験にうつされた。その場所はいまの横浜税関の付近で、約一キロメートルにわたって電線が張りめぐらされた。八〇メートルおきに杉の材木でつくった電柱を立て、そのうえに「ギヤマンの壺」、すなわち碍子を置いて電線を巻きつけた。このときのすべての装置や使用法について、武蔵国の庄屋であった石川和輔はくわしい記録を「天理関理符《テレグリフ》試みに興行仕候」という書き出しでのこしている。かれの記述によると、その模様はこうだ。 「……何なりと申し通じたき事有之候えば、その申し遣すには細き紙に記す。その紙を台の上の左のゼンマイに仕掛けぬ。中のゼンマイの処に鐘のイボを見る如き物あり、指にて推す。……針金、気を消通す」そして、受信地に行ってみると、発信地で発信したのとおなじように、たとえば「 YOKOHAMA かように筋附出る也、通詞見て横浜と云うを知る。JEDOかようの筋附きて江戸なることを知る。何にても筆談の理同じ」  この実験がおこなわれたのは同年二月二四日のことであったが、幕府がわは、この「興行」に対する答礼として、アメリカ人に相撲を見せた。おなじ「興行」でも、その様子はだいぶちがう。ペリー提督一行は、電信と相撲をくらべて、これこそ文明と野蛮の対比である、と記録にとどめている。  じっさい石川など、何人かの注意深い観察者の記録にもかかわらず、幕府は電信機にはいっこう関心を示さず、竹橋の倉庫にほうりこんでしまい、その後、行方不明になっている。 ■アンカレジの浮上■日本とヨーロッパをむすぶ航空路線は、東京、香港、バンコック、カラチ、アテネ、とだいたい北回帰線にそって地球を鉢巻状にまわるのがふつうであった。しかし、ヨーロッパと日本をむすぶ最短距離は、北極上空を通過する大圏航路である。しかし飛行機の航続距離や航空技術の点から、この航路はなかなか実現がむずかしかった。その航路整備がととのい、いわゆる「北まわり」ヨーロッパ線の第一号機が飛んだのは一九五七(昭和三二)年二月二四日。使用機種はターボ・プロップのDC7。ジェット旅客機導人以前だったから、なおさらのことその効果は大きく、在来の「南まわり」よりも所要時間は二一時間も短かった。  それ以来、北極ルートは南まわりを圧倒するようになったが、そこで繁栄を誇るようになったのはアラスカのアンカレジ市。どの飛行機もかならずアンカレジで燃料を補給し整備点検をうける。それまでほとんど知られていなかったこの都市は、一躍、世界交通の要衝になったのだ。   2月25日 ■博士の起源■新制大学になってから大学院に博士課程が設けられ、博士号を取得する人がふえてきたが、そもそも「博士」という称号は律令国家の時代につくられたもので、大学・国学の教官のこと。さらに、中央では式部省の大学寮に音博士、書博士、算博士、中務省の陰陽寮には陰陽博士、暦博士、天文博士、といったような博士がいた。かわったところでは、宮内省典薬寮には医博士のほかに、針博士、按摩博士などがいた。いずれのばあいにも、それぞれの専門科目について、研究を積み、学生たちに教授し、また試験をおこなっている。その意味では、「博士」のみならず、現在の官制は律令体制をうけついでいる、ということになろう。  九〇一(延喜元)年菅原道真は藤原時平らの陰謀によって右大臣の職を解かれ、大宰|権帥《ごんのそつ》という職に左遷され、九州大宰府へ流された「流れゆく我は水屑《みくず》となりぬとも 君|柵《しがらみ》となりてとどめよ」という切々たる歌を宇多法皇に献じてこの処置を保留してもらいたい、と訴えたが、これも時平に妨害される。道真は、有名な「東方《こち》吹かば においおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」という歌を自邸の梅に呼びかけて九州にむかった。途中、明石では「駅長驚く勿《なか》れ時の移り変るを……」と詠む。どれをとってみても、みごとな詩文である。それもそのはず、道真は右大臣という政治の最高の地位とともに文章博士の称号をもあたえられていたのであった。  大宰府での道真の不遇な運命についてはここにあらためていうまでもないが、かれは皮膚病に悩みながらも詩文をのこすことは忘れなかった。大宰府の天満宮が道真を祀るとともに、学問の神さまとしていまもなお受験生を加護していることはご存じのとおり。道真は都に戻れることを信じながら、九州で二年ほどすごしたが、九〇三年二月二五日にその一生を閉じた。全国の天満宮(天神さま)の例祭が毎月二五日であるのはこれが道真の命日にあたるからだ。 ■巨大な全集本■学問の話をもうひとつ。塙《はなわ》保己一は生まれつき目がみえなかった。雨宮検校のもとで鍼《はり》や按摩を勉強したがいっこうに技術は進歩しない。ただ、記憶力だけは抜群だし、得た知識を体系化してゆく天才的な才能をもっていた。そこで検校は、かれに学問の道を歩ませることを決心し、賀茂真淵の門下生とした。  保己一はそれまで日本で刊行された名著をえらび、巨大な全集をつくることをその生涯の目標とした。とはいえ『古事記』だの『万葉集』だのといった古典はいくらでも手に入る。かれが企画した全集はあまり人に知られていない名著、あるいは、知られていても入手しにくい名著を校訂し整理することをその特色とする。それは個人事業として空前絶後の大全集である。この大全集をかれは『群書類従』と名づけた。正五三〇巻一二七〇種、続一〇〇巻一二〇三種。その第一回配本は『今物語』、そしてそれが刷り上ったのは一七八六(天明六)年二月二五日のことであった。   2月26日 ■エルバ島物語■ナポレオンがエルバ島から脱出したのは一八一五年二月二六日のこと。しかし、エルバ島がどこにあるか、と問われるとすぐには答えられない人が大部分だ。島流しにされるぐらいのところなのだからさぞかし遠くにあるにちがいない、とかんがえたくなってしまうが、じつのところ、エルバ島はイタリア半島西海岸の沖合わずか二キロほどのところにある島で、当然のことながらイタリアから望見できるし、近くにたくさんの島も散在している。だから、「脱出」などといっても、たいしたことではない。じじつ、ナポレオンは、この島に手勢を六〇〇人そろえ、豪華な邸宅を構えていた。流刑ということばから連想されるような悲惨な状況はそこにはまったくなかった。  エルバ島は面積二二〇平方キロ。現在の人口はおよそ三万人。この島には第三紀始新世後の鉄鉱床があり、古代から現代まで、鉄の産地としても有名である。こんにちでも、イタリア国内産鉄鉱石の九〇パーセントはエルバ島で採掘されている。またこの島はブドウ園でも有名で、良質のブドウ酒をつくっているし、近海ではマグロ、イカなどの漁業もさかんだ。ナポレオンはこんなふうにゆたかでめぐまれた環境の島に流されていたわけだから、べつだん不自由などありはしなかった。むしろ一八一四年にこの島に引退を余儀なくされてから、一年ちかくにわたってゆっくりと保養し、力をたくわえて、おもむろに自信をもってふたたびフランスに上陸した、とみるべきなのであろう。 ■咸臨丸の外人部隊■日本人が新式の洋艦「咸臨丸」に乗ってはじめて太平洋を乗り切ったというのは誰でもが知っている話。司令官は木村摂津守、艦長は勝海舟、そして乗組員は九六人。勝艦長は、日本人だけでちゃんと航海はできると断言したが、木村司令官は不安をおぼえた。なるほど、乗組員はいちおう長崎の伝習所で航海術を多少は身につけているけれども、太平洋横断という長期の外洋航海ができるかどうかは心もとない。そこで木村はちょうど日本に来ていたアメリカのJ・ブルック大尉にたのみ、同大尉以下一一名のアメリカ水兵に咸臨丸への同乗を依頼した。  案の定、太平洋の荒波にもまれはじめると日本の乗組員はなすすべを知らず、荒天になると帆の操作も操舵もことごとくこの一一人の「外人部隊」がやった。見張りもアメリカ人が黙々とひきうけた。勝艦長は、浦賀出帆後間もなくひどい船酔いにかかり、船室にこもったまま、何日も顔を見せなかった。咸臨丸のサンフランシスコ入港、一八六〇(安政七)年二月二六日。   2月27日 ■シャリアピン・ステーキの誕生■シャリアピン(一八七三年二月二七日生)はロシアの貧しい農家に生まれた。音楽教育はもとよりのこと、普通教育さえうけることができず、ただ農場ではたらいていたが、天性の美声をみとめられて巡業オペラ団に入り、バス歌手として訓練をうけた。かれの歌唱は多くの人びとを魅了し、ロシア国内はもとより、ミラノのスカラ座、ニュー・ヨークのメトロポリタン・オペラなどでも大好評。とくに得意なのは「ボリス・ゴドノフ」で、このオペラに関するかぎり、シャリアピンに匹敵する歌手はいなかった。  ところでかれは一九三六(昭和一一)年に日本に来て、その神技を披露したが、滞在中、東京の帝国ホテルで、毎日かわらないメニューにいささかうんざりしてしまった。そこで料理長がステーキのうえにマッシュルームなどを材料にしたソースをかけて出したところ、これが大いに気に入った。このひとくふう凝らしたステーキが「シャリアピン・ステーキ」と呼ばれ、世界の食卓をにぎわすことになったのである。 ■「怒りのブトウ」秘話■ジョン・スタインベック(一九〇二年二月二七日生)の代表作「怒りのブドウ」は、荒廃した南部の農村の人びとがカリフォルニアにやってきて、そこでも低賃銀にあえぎ、主人公はついに殺人をおかす、という「社会派」の名作だが、これを映画化しようと決心したのはプロデューサーのD・ザナックであった。かれは当時としては破格の七万五〇〇〇ドルという映画化著作料をスタインベックに支払い、しかもその映画化にあたっては、原著者の意図をそのまま生かし、登場人物も忠実にえがく、ということを契約書に明記した。  こんな「社会派」の映画はできるはずがない、と映画関係者はザナックをからかったが、ザナックは「わたしはスタインベックが書いたときとまったくおなじような目で�怒りのブドウ�に取り組む」と宣言した。監督にはジョン・フォードを起用し、脚本のなかでのセリフは、完全にスタインベックの原作そのまま。そして、撮影にはいっさいスタジオを使わず、オクラホマ、テキサス、、カリフォルニア、といった原作の現場でカメラがまわされた。  貧しい南部農民をリアルに描くというのは至難のわざであり、へたをすると、大地主や資本家に妨害されるおそれがある。だからこの映画のロケ隊は「ルート66」という架空の映画をつくっているのだ、というタテマエで活動した。フォード監督は俳優にメイクアップをゆるさず、人工的照明をいっさい排除した。ザナックは、最後まで決心できないことがひとつあった。原作ではやっと再会した家族がふたたび行くあてもなく離散してゆくことになっているが、これではあまりにも救いがなさすぎる。ザナックは、映画の結末のセリフだけをじぶんで書いた。いわく、 「おれたちを消すことはできないぞ、負けないぞ、おれたちだって人間なんだから」  このラスト・シーンにはスタインベックも感動した。一九四〇年、フタをあけてみると、「怒りのブドウ」は大絶讃をうけ、興行成績も空前、しかもオスカーをふたつも受賞した。   2月28日 ■美人コンテストのはじまり■一九〇八(明治四一)年二月二八日、「時事新報」は全国から美人写真を募集して、ミス・日本コンテストをはじめた。もっとも、これは「時事」のオリジナル企画ではなく、アメリカの「ヘラルド・トリビューン」紙がミス・ワールドを募集するにあたって、その下請け的予選をひきうけた、ということであるにすぎない。このコンテストで一位になったのは一六歳の末弘ヒロ子。それまでも、芸者の美人写真集などはあったが、ひろく美人コンテストが日本でおこなわれたのはこれがはじめてである。  この年は日本女性史に特記されるべきことがこのほかにもあった。すなわち川上貞奴の企画した帝劇女優養成所が開設され、百余名の応募者のなかから一五名がえらばれて女優第一期生となった。そのひとりに森律子がいる。彼女は元代議士森肇の娘。良家の子女が女優になった、というので、これまたジャーナリズムをにぎわした。 ■チャップリンの登場■ロンドン生まれのチャーリー・チャップリンはアメリカに渡り、まさしく立志伝中の人物としてハリウッドのスターにのしあがった。かれが最初に登場した映画は「にわか雨の合い間で」という喜劇であって、これがつくられたのが一九一四年二月二八日。  かれが所属していたのはM・セネットの経営するキーストン映画で、その第二作の製作にあたって、セネットはチャップリンにむかい、衣裳はじぶんでくふうしてこい、と命じた。チャップリンは、きゅうくつな上衣とダブダブのズボン、小さな帽子と大きな靴、という珍妙な組みあわせを考案してスタッフのまえにあらわれて、すべったり、ころんだりという珍芸を披露した。カメラマンや舞台装置係はそれを見て笑いころげたし、セネットじしんも笑いをおさえることができなかった。スタッフが笑いころげた以上、観客が笑わないわけはない。こんなふうにしてチャップリンはその確乎たるイメージを定着させることに成功した。  一九一九年にはメリー・ピックフォード、ダグラス・フェアバンクスなどとともに俳優集団としての「ユナイテッド・アーチスト」社を設立し、「黄金狂時代」(一九二五)、「街の灯」(一九三一)などの傑作をのこしたことはここにあらためていうまでもない。とりわけ「街の灯」では、その音楽までチャップリンはみずから作曲して、いわばワン・マン・ショーをくりひろげた。  チャップリンは、あくまで庶民の芸術家であり、かれのファンの多くは労働者階級だったが、その演技力だの、それぞれの作品にこめられた思想だのには、多くの知識人も共鳴するようになった。すすんでチャップリンとの会見を申しこんだ知名人のなかには、ガートルード・スタイン、ウィンストン・チャーチル、そしてあの皮肉家のバーナード・ショーもいた。おどろいたことに、アインシュタイン博士までもが、チャップリンにひと目会いたい、と切望していたのである。   2月29日 ■閏年の計算■一年というのは正確にいうと三六五・二四二二日である。このコンマ以下の端数を整理して、四年にいちど一年を三六六日にしよう、と決めたのは、紀元前四五年、ユリウス・カエサルであった。いわゆるユリウス暦というのがこれである。  しかしコンマ以下の〇・二四二二を四倍しても〇・九六八八日にしかならず、正確にはこれを一日とかぞえるわけにはゆかない。その不足分をおぎなうためには、四〇〇年につき三日を減らす必要がある。つまり、閏年は四〇〇年に一〇〇回ではなく、九七回あればよろしいのである。この新規定にもとづく暦法は、一五八二年に法王グレゴリオが制定した。  日本では明治三一年に勅令九〇号でグレゴリオ暦を採用することが決定された。ちなみに閏という字は門のなかに王がいる、という意。旧暦では、王はふだんは宗廟のなかで生活し、閏月には門のなかにいたからだ、という。 ■オリンピック奇談■古典ギリシャの祭典であるオリンピックが近代オリンピックとして復興したのは一八九六年のこと。いうまでもなく、クーベルタン男爵がこれに力を貸し、アテネでその第一回大会がひらかれた。この年はたまたま閏年にあたり、したがって、こんにちではオリンピック開催の年は、かならず閏年ということになる。  さて、この第一回のアテネ大会はさまざまな奇談を生んだ。まず、マラソンという種目はもともとのプログラムにはふくまれていなかったのに、フランス人が、かつてマラソンからアテネまで力走して勝利を告げた兵士フェイディピデスを記念してぜひ加えることを主張したので、マラソン競技も行なわれることになった。  地元の面子にかけて、ギリシャの人びとは自国の選手にマラソンの栄冠をあたえたい、とかんがえた。選手としてえらばれたのは水の運搬人S・ロウエス。かれを勝たせたい一心から、金持のG・アベロフは、もしロウエスが勝ったら多額の賞金とじぶんの娘をやろう、と約束した。アテネの床屋と仕立屋は、一生のあいだ、タダで散髪し、好みの服を提供しよう、と申し出た。チョコレート工場の経営者は、一〇〇〇キログラムほどのチョコレートを差し上げよう、といった。べつだん、欲に目がくらんだわけでもあるまいが、ロウエスは一着になり、ギリシアは沸きかえった。かれは既婚者だったからアベロフの娘はもらわなかったが、一生、食べるにこと欠かない生活を保障されたという。  円盤投げもギリシャ伝統のスポーツだから一位にならなければならないはずだったが、このゲームでは、アメリカのプリンストン大学の学生R・ギャレットが優勝した。それというのも、オリンピックで使われた円盤は、かれがプリンストンで練習用に使っていたものよりもはるかに軽く、ギャレットはじぶんでも信じられないほどの記録を出してしまったからである。 [#改ページ]   三  月   3月1日 ■最悪の船火事■きょうから一五日まで船舶火災予防旬間。大小を問わず、船舶は防火と消火の設備を再点検するのが恒例だ。  史上、船火事の記録はたくさんあるが、もっとも損害の大きかったのは一八六二年七月の「ゴールデン・ゲイト号」事件であろう。この船は、サンフランシスコからメキシコにむかってアメリカ西海岸を南下中、メキシコ領マンガニロ沖で原因不明の火事をおこして沈没し、乗組員一七五人が死んだ。そのうえこの船には、当時の価格で一五〇万ドルをこえる金と銀が積みこまれていた。そのなかには、アメリカで鋳造された八角形の五〇ドル金貨というめずらしい貨幣をいっぱい詰めた箱もあった。その沈没の場所もわかっているわけだから、「海底の黄金」をもとめて、何回も潜水探検隊が現地におもむいた。その甲斐あって、一九〇〇年にD・ジョンストンが五〇万ドル相当の金をひきあげたが、のこりの一〇〇万ドルはまだみつかっていない。 ■ニコライ堂とドストエフスキー■日本にはじめてロシア正教を伝えた宣教師はニコライである。かれは、まず函館で布教活動をしたのち、一八七〇(明治三)年三月一日、故国のアレクサンドル・ネフスキー修道院に戻った。そして、その翌年、こんどは東京に来て駿河台にロシア語学校をひらき、やがて主教の地位をあたえられた。その伝道の場として大聖堂の建設にとりかかり、明治二四年に完成。いうまでもなく、これがニコライ堂である。  ニコライは、一八八〇年にも一時帰国しているが、このとき、かれのところにふしぎな訪問客があらわれた。その人物は作家のドストエフスキーである。このころドストエフスキーは著名な作家として知られていたが、シベリアの東にある日本という国になみなみならぬ関心をもっていたようだ。だからこそ、わざわざニコライに面会をもとめ、ニコライをつうじて日本を知ろうとしたのであろう。とはいえ、ドストエフスキーは素直にひとのいうことをきく、というよりは、かれじしんの予断をもって見知らぬ外国を見ていたらしい。ニコライの日記によると、ドストエフスキーは、開口一番、「かれらは黄色人種ですからね、キリスト教を受けいれるにあたって、何か格別、変った点はありませんか?」と直線的で硬質な質問を投げかけたという。  ニコライがそれにどう答えたかはわからないが、まず「黄色人種」ということばが出てきたところからみると、この会談は、あまり実りあるものではなかったようにもおもえる。いずれにせよ、この短い会見ののち、やがてニコライは東京に帰り、ニコライ堂をつくり、黙々と宣教活動をつづけた。そうしているうちに日露戦争が勃発し、ロシア人であるという理由から、かれは迫害をうけたが、敢然として日本にとどまり、信徒たちをはげますとともに、日本軍にとらえられたロシア軍の捕虜を相手に教化活動をおこなった。ニコライは「黄色人種」だけを相手にしていたのではなさそうなのである。   3月2日 ■ツタンカーメンの扉■イギリスの考古学者H・カーター(一九三九年三月二日没)はテーベにちかい王家の谷でツタンカーメンの墓を発見した。一九二三年のことである。もともとこの付近にはエジプトの王家の墓が多く、考古学者たちはしばしば発掘調査をおこなったが、だいたい、何者かの手によって盗掘され、なかはめちゃくちゃに荒らされているのがふつうであった。だが、このツタンカーメンの墓はちがう。誰もがこの墓の存在に気がついていなかった。だから、カーターは、三〇〇〇年間にわたって埋れていたファラオの墓の扉をひらいた、ということになる。  いちばん奥の部屋には金色の棺が置かれ、そのとなりの小部屋には、おどろくべき財宝が山のように積まれていた。こんにち、その秘宝は整備され、いわゆる「ツタンカーメン展」として世界の博物館を巡業しているが、まったく誰にも知られていなかった王の墓が見つかった、というので当時の世界じゅうが大さわぎ。考古学界の話題はカーターひとりが背負いこんだ感があった。  しかし、ツタンカーメンの墓が発見されると、つぎつぎ怪事件が起きた。カーターの助手だの秘書だのが死んだのである。ミイラの調査に立ち会った解剖学者のD・デリー博士も死んだし、刻文の解読にあたったJ・ブレステッドも死んだ。いずれもが変死であり、原因不明なのだ。世間では、王の墓の扉をひらいたがゆえに、関係者に「ファラオの呪い」がかかったのだ、と噂した。そのうえ、この発掘調査のスポンサーであるカナーヴォン伯爵までもが奇病にかかってカイロで急死してしまった。その死とまったく同時刻に、ロンドンの同伯爵の自邸では愛犬がけたたましく吠えて狂い死してしまった、というから、いよいよツタンカーメンは薄気味わるい。  しかしカーターは、その後べつにかわりもなく、六六歳まで生きた。   3月3日 ■桜田門外の変と牛肉■一八六〇(安政七)年三月三日、水戸浪士ら一八人が江戸城桜田門外で井伊直弼を刺殺したのはあまりにも有名な事件だが、当時の瓦版には、その原因が水戸家と井伊家のあいだの食い物の恨みである、という珍説が書かれている。すなわち、この瓦版によると、水戸斉昭は牛肉が大好物で、とりわけ彦根産の肉を好んで食べていた。ところが、彦根の井伊家のほうではそれを知って、わざわざ水戸への牛肉の輸出を差しとめた。そこで、その恨みから水戸家は井伊家への敵意をさらに深め、それが契機で桜田門外の変が起きた、というわけ。この解説が正しいかどうかはわからないが、斉昭が牛肉好きであったことは事実である。そのころの牛肉の食べ方は、まず肉を薄切りにして醤油にひたし、鉄鍋で両面を焼いて胡淑や七味で味つけをしたものであるらしく、それがやがてすき焼きに進化してゆくのである。牛肉屋は明治二、三年ごろにできたが、その屠殺場は芝の白金だけであった。 ■八百長の語源■インチキ、いかさまのことを一般に八百長というが、もともと、これは相撲隠語で故意に負けることであった。これは、相撲協会がまだ相撲会所といっていた頃、出入りの八百屋に長兵衛という者がおり、相撲年寄の碁の相手をしたときに、わざと勝をゆずってご機嫌をとったためという。その相撲年寄は伊勢の海五太夫といい、彼は昭和一九年三月三日、六〇歳で没している。   3月4日 ■藤田嗣治と帝劇■帝劇、すなわち帝国劇場がお濠端にその姿をあらわしたのは明治四四年三月四日のことであった。いまはすっかりかわってしまったが、旧帝劇は戦後も焼けのこり、健在であった。  この帝劇は横河民輔の設計になる凝った建築で、着工から完成まで三年の年月を費したが、とくに注目されたのは劇場内の内装であった。すなわち、ホールや廊下はもとよりのこと、天井にまで、西洋の劇場に倣って精密な装飾画が描かれたのだ。その構想を練り、総指揮にあたったのは洋画の重鎮、和田英作であり、かれの描いた下絵をもとに門下生や若い画家たちがえらばれてこの巨大な画業にいそしんだ。その若い画家たちのなかには、岡本一平もいたし、山下(池部)鈞、田中良、などもいた。そして、藤田嗣治もそのひとりだった。かれらは、劇場の大ドームに足場をかけて絵筆をとり、ほとんど仰向けの姿勢で天女飛翔の図を描いた。その意味で、旧帝劇の内装画は近代日本美術史にのこるべき貴重な作品であったというべきであろう。そればかりではない、藤田嗣治は、帝劇開場後も、舞台の背景画を描きつづけた。若き日の作品であり、しかも、劇場の背景画だから、それらは大道具として用済みになりしだい処分されてしまう運命にあったが、後年の藤田をかんがえてみれば、まことに惜しい思いがする。 ■新国劇の盛衰■帝劇の話が出たついでに日本の近代演劇運動の話題をもうひとつ。沢田正二郎(一九二九〈昭和四〉年三月四日没)は、はじめ坪内逍遙の「文芸協会」に入り、のち、島村抱月、松井須磨子の「芸術座」にも参加したが、大正六年、久松喜代子らとともに「新国劇」を結成した。第一回の東京公演は興行的に失敗したけれども、再起を期して関西で力をたくわえ、五年後にふたたび東京に戻ってこんどは大成功をおさめた。  新国劇は、いっぽうで歌舞伎の世話物狂言の雰囲気をのこしながら、立ちまわりなどではリアリズムを導入し、現代的なテンポで舞台を展開させてゆく。沢田の「国定忠治」などはとりわけ大ヒット。ここから昭和初年の流行歌「赤城の子守唄」が生まれたことはいうまでもない。沢正の死で「新国劇」はいったんつぶれたかにみえたが、辰巳柳太郎と島田正吾によって、奇蹟的にもちなおすことになった。   3月5日 ■ハワイ王朝の縁組■一八八一(明治一四)年三月五日、ハワイ王国のカメハメハ七世が横浜に着いた。そもそも、ハワイ諸島はそれぞれの島に酋長がいて勢力争いをしていたが、一七九五年カメハメハ一世が全島を統一し、太平洋における最初の王国をつくった。それを継承したのが第七世である。かれは積極的にアメリカやイギリスと接触し、一八四三年には英米仏の三国から独立国として承認をうけている。カメハメハ王の来日は、明治の日本が迎えた外国元首第一号であり、王は国賓としてもてなされた。  だが王の訪日の目的のひとつは、日本の皇族の血をいれることにあった。王はひそかに明治天皇と単独で会見し、王嗣カイウラニの配偶者に日本皇族を、と申し出たのだが、宮内省はこれを謝絶することに決定した。もしもそのとき、この縁組が成立していたなら、日本とハワイの関係も、日米関係も全面的にかわっていたにちがいない。 ■「解体新書」に先行するもの■前野良沢、杉田玄白、中川淳庵らによる人体解剖は、一七七一(明和八)年三月四日に江戸千住小塚原でおこなわれた。もっとも、この解剖はかれらが直接に執刀したわけではなく、あだ名を「青茶婆」という女性の屍体を、九〇歳になる手馴れた老人が「腑分け」し、学者たちは、『和蘭解剖図譜』を片手にそれを参照しながら、西洋の医学の正確な科学性にふかく感動したのである。  しかし、日本における人体の解剖は以前にもあった。小塚原に先立つこと一五年、一七五四(宝暦四)年に京都の刑場で処刑された罪人の屍体を解剖したという記録が残っている。さらに、一六五〇年ごろには、すでに西洋の人体解剖図が日本に輸入されていたし、人体解剖模型なども蘭学を勉強する学徒たちのあいだでは知られていた。だから、前野良沢らの人体解剖が日本最初のもの、というわけではない。ただ、これが有名な歴史的事件として記録されたのは、解剖の現場に立ち会った人びとが、その知的興奮をおさえることができず、翌三月五日からさっそく『解体新書』の翻訳作業にとりかかったからである。この翻訳は築地鉄砲洲の奥平藩邸内の前野の自宅でおこなわれ、数人の医師たちが、ひたいを寄せあって共同作業にはげんだのであった。前野はかつて青木昆陽についてオランダ語の初歩を学び、長崎の通詞からもオランダ語を教えられ、そこで『和蘭解剖図譜』を入手してきた人物であり、蘭学に多少の自信はあったようだが、なにぶんにも原書がむずかしく、読解に苦心をかさねたのは『蘭学事始』でご存じのとおり。結局のところ、訳文原稿は書きなおし一一回。翻訳にとりかかってから四年めにやっと刊行のはこびとなった。なおこの本の扉には、西洋ふうのさし絵がみえるが、アダムとイブをあらわすふたりの人物像が原本とかなり違うのがおもしろい。   3月6日 ■マルコ・ポーロの裁判■マルコ・ポーロがあのアジアへの旅行に出発したのは一二七一年、一一歳のときであった。『東方見聞録』に書かれているような大冒険ののち、ふたたびヴェネチアに帰ってきたのは一二九五年。結局、かれは二四年間を旅にすごしたことになる。  かれは帰国後、商売にはげんだが、ふたたび航海に出てジェノア軍にとらわれ、牢屋にいれられてしまった。その晩年は、けっして幸福だったとはいえない。しかし、かれは一三〇六年三月六日に、ヴェネチアの法廷にあらわれた。それというのも、かれは、じぶんの従兄弟に貸した金が戻らず、思いあまって訴訟にふみきったからだ。裁判の結果、原告のマルコは勝訴した。従兄弟は元金プラス二割の利子、それにくわえて利子の二倍にあたる賠償金をマルコに払うべし、と裁判官は判決をくだしたのであった。五〇歳のマルコは近親者にたいしても、厳正なビジネス精神を崩さなかったらしいのだ。 ■団十郎と活動写真■日本への映画の輸入にはふたつの系統があった。ひとつはフランスからきたシネマトグラフ、もうひとつはアメリカ系のヴァイタスコープ。このふたつの系統の活動写真は、一八九七(明治三〇)年の春に、ほぼ並行して日本で公開されたが、ヴァイタスコープについては、とくに福地桜痴らが深い関心をしめし、これを東京歌舞伎座で公開しようと計画したが、歌舞伎役者の団十郎がこれにつよく反対した。活動写真などというものが上映されるなら、こんごいっさい歌舞伎座の舞台はふまない、というのである。そこでヴァイタスコープは、神田の錦輝館で初上映された。三月六日のことである。ちなみに、ヴァイタスコープは、「蓄動射影」と呼ばれた。   3月7日 ■ホテルの大火■一九四八(昭和二三)年三月七日に自治体消防が発足したというので、きょうは消防記念日。世界じゅう、火事のない日は一日としてないが、都市のホテルの火事として最悪の記録を残しているのは、アトランタの繁華街に建つワインコフ・ホテルの火災であろう。このホテルは、しっかりしたコンクリート建築であり、所有者のワインコフじしん、その耐火性がご自慢で、ホテルの一画をみずからの住居としていた。自信があったから、非常口もつけていなかった。  ところが一九四六年の暮、このホテルで火事が起きた。いくら建物の耐火性が高くても、カーペットや壁紙、そして家具などはすぐに燃える。逃げ場を失った宿泊客一一九人が、あっというまに焼死してしまった。高層で窓が小さいから、ハシゴ車もなすすべを知らぬ。そして、ワインコフの死体も、この焼死体のなかにまじっていた。 ■タバコと神託■一九〇〇(明治三三)年三月七日、未成年者禁煙法が公布され、喫煙についての国家的な統制がはじまったが、そもそもタバコとはいったいなんであったのだろうか。  タバコについてのいちばん古い記録はマヤやアズテックの文明のなかに絵文字でのこされている。そこでは、タバコの葉を燃やし、その煙を神官たちが吸っていたらしい。タバコには、ご存じのとおり、一種の麻痺剤的な作用がある。はじめてタバコを吸った人が、頭がクラクラするような感覚を味わうのは、まさしくその作用によるものだ。どうやら、中米の古代文明の司祭者たちは、このタバコの作用によって一種の神がかり状態になり、その状態をつうじて神託をうけたもののようなのである。もっと大ざっぱにいえば、タバコを使用することは、シャーマニズムの一系統なのであったとみてさしつかえない。  タバコの吸いかたには、しかしながら、ずいぶん苦労したものであるらしい。最初は、ただ葉をいぶしてそれを吸いこんでいたにすぎないが、のちには地面に小さな穴をあけ、そこにタバコの葉をつめて火をつけ、中空の植物の茎などをその穴の横から突っこんで煙を集中的に吸いこんだ。したがって、タバコを吸うためには、地面に腹ばいにならなければならないというわけ。そういう喫煙風景は古代の絵文字から推測がつく。  その穴をポータブル化したのがパイプである。初期のパイプは粘土製であって、ボウルの部分にタバコをつめて長い吸口で煙を吸いこむのだ。素材が粘土であるから、当然のことながら、すぐにこわれたり折れたりする。だから粘土パイプは消耗品であった。もちろん、この時代になると、タバコは一般の嗜好品であるにすぎず、もはや神官ともシャーマニズムともまったく関係はなくなっていたが、ニコチンのもつ陶酔作用だけはかわらなかった。   3月8日 ■古典的スカートの終末■A・ブルーマー女史(一八一八—一八九四)はけっしてこんにちのいわゆる「ウーマン・リブ」の先駆者ではないけれども、婦人の生活改善に関していくつもの顕著な功績をのこしている。ニュー・ヨーク州の小さな町に生まれたブルーマーは、はじめ、いくつかの雑誌に、主として道徳問題やアルコール中毒問題などについて投稿していたが、やがて、みずから雑誌を発行しよう、と思いついた。誌名を「リリー」というこのスモール・マガジンは、世界最初の婦人雑誌であった。  だが、彼女を歴史上の有名な人物にしたのは、いわゆる「ブルーマー」スカートの発明である。それまでの婦人たちが、かたいコルセットでからだをしめつけ、竜骨で大きくふくらみをつけたスカートをはいていたのを、ブルーマーはきわめて不合理なこととかんがえた。そこで腰のまわりにゆったりと余裕をもたせ、脚の部分をズボン状にしたあたらしい女性用の着衣を開発した。これがこんにち、たとえば小学校の運動会などで女生徒がはいている「ブルーマー」の起源だ。  この新発明は、ごうごうたる反響を呼んだ。進歩派の女性たちは、コルセットによる肉体の緊縛から解放される、というので「ブルーマー」を愛用しはじめたが、保守派の人びとは眉をひそめ反対した。マサチューセッツのある教会では、「ブルーマー」をはいた若い女性ふたりを除名したし、男のような恰好をした女性というのは聖書に照らしてみても不道徳だ、と論断した神学者もいた。だが、勝利はブルーマー派の頭上に輝き、この新風俗は大西洋をわたって、ヨーロッパでも大流行しはじめたのである。古典的スカートは、これを契機に衰退の一途をたどった。こんにちの女性風俗のなかにあるパンタロンやジーンズは、ブルーマー女史の思想の延長線上にある、とみてよかろう。きょうは国際婦人デーである。   3月9日 ■炉辺談話のはじまり■一九二九年にはじまる大恐慌にどう始末をつけるか——それが一九三二年の大統領選挙の争点であった。共和党は前大統領H・フーヴァーを立て、それにたいして民主党はF・ルーズベルトを指名し、ついにルーズベルトが大統領になったが、かれは失業救済、通貨統制などをふくむニュー・ディール(新政策)をスローガンにかかげ、大統領に就任すると同時に、経済再建の政策をつぎつぎに実行にうつした。一九三三年三月九日は、そのニュー・ディールがスタートした日。  ただここで忘れてはならないのは、ルーズベルトがこの政策を国民に周知徹底させ、かつ国民から支持をうけるために、ラジオという媒体に着目してそれをフルに利用したことであろう。かれは「炉辺談話」と名づけられた特別番組で、直接に国民に語りかけた。その第一回は、ニュー・ディール実施の五日まえ、すなわち三月四日である。第一回めの放送は、こんな名文句ではじまった。「わたしたちが恐れなければならない唯一のものは恐れそれじしんです。わたしは堅くそう信じています」 「炉辺談話」は定期的に放送され、短波放送で世界じゅうに流された。ルーズベルトはメディアの利用にかけても天才的な才能をもっており、これがニュー・ディールを成功させた、かくれた理由のひとつなのであった。 ■記念郵便切手のはじめ■明治二七年三月九日、天皇、皇后両陛下の御結婚二五年をお祝いして祝典がひらかれたとき、それを記念して二種類の郵便切手が発行された。それが、わが国における記念切手のはじめであり、この日を契機に国家の大事があるたびに記念切手というものが発行されるようになった。わが国最初の記念切手のうち、一つは紅色内地用の二銭切手であり、他の一つは、青色外地用の五銭切手である。この切手は、ことに外国人に需要が多く、なかには、一度に数百円分を買入れて本国に送ったものもあったという。上海郵便局でも、半時間余りのうちにみな売りつくし、電報で追加注文をして、その到着を待つ者が多かった。   3月10日 ■B29のできるまで■一九四五(昭和二〇)年三月一〇日は東京大空襲の日で、つぎつぎにあらわれるB29から投下された爆弾によって東京は完全に焼野原になってしまった。この「空飛ぶ要塞」と呼ばれるB29は、一万メートルの亜成層圏を飛び、悠々と日本上空を旋回した。この爆撃機のエンジンは、ライトR三三五〇型と呼ばれ、七六〇〇メートルの上空で最大二三〇〇馬力を出すことができた。しかも、この飛行機は、気密装置が完全で、これだけの高度を飛びながら、乗員は酸素マスクをつける必要がなかったのである。そして、合計一二個の一三ミリ機関銃がいたるところに配置され、後方に向けては、二〇ミリの機関砲も装備されていた。これらはすべて、リモコン操作によってうごかされていたから、日本の戦闘機が飛び立っても、とうてい太刀打ちできなかった。B29が、一万メートルの高度で五七四キロの時速を誇ったのにたいして、日本の戦闘機は五五〇キロていどだったのだから、はじめから勝負はきまっていたようなものだ。  このB29の開発は、現代科学技術の驚異でもあった。というのは、この爆撃機をつくる計画が最初に出されたのが一九四〇年一月、そして、二年半後の一九四二年九月には、テスト飛行がおこなわれ、それから一年経過した一九四三年から量産体制に入っていたからである。もちろん、その背景には、それまでに蓄積されていた技術力があったとはいうものの、わずか三年あまりで新機種が量産された、という例は他に見ることができない。そして、終戦までに、B29は四二〇〇機という、おどろくべき機数を誇るようになったのであった。  広島に原爆をおとしたのもB29であり、したがって、日本の敗戦を決定的にしたのは、まさしく、ここにみられるようなアメリカのすさまじい技術開発力であった。といってさしつかえないだろう。 ■ボールペンと空軍■もうひとつ爆撃機にちなんだ話。ハンガリーにビロという印刷の校正係がいた。商売がら、毎日、ペンを使ってしごとをしていたのだが、万年筆を使っていると、インクの補充をなんべんもしなければならない。なんとかして、インクを長もちさせる方法はないものか──ビロはそうかんがえた。一九三〇年代後半のことである。実験はなかなかうまくすすまない。だが、かれは一九四三年にアルゼンチンに移住し、そこでこの研究を援助してくれるイギリス人の資産家H・マーチンにめぐりあい。ついにボールペンを完成させた。折しも、第二次大戦中で、イギリス空軍は、爆撃機内の航空計算などのためのあたらしい筆記具を必要としていた。高空で万年筆を使うとインクが洩れる。エンピツだと動揺ですぐに芯が折れてしまう。ボールペンはその点まことに理想的な発明品であった。マーチンはさっそく会社をつくってこれを売りこみ、成功をおさめた。おなじころ、たまたま商用でアルゼンチンを訪れていたアメリカのM・レイノルズは、ビロのペンを街頭で見つけ、特許権にふれないように改良をほどこし、おなじくアメリカの軍と政府に合計一〇万本を売りこんだ。アメリカの戦略爆撃隊でもボールペンが大活躍した。 ■博覧会のはじまり■福沢諭吉は、「演説」「家庭」など、みごとな翻訳造語をのこしたが、そのひとつに「博覧会」がある。すなわち、『西洋事情』のなかに「西洋の大都会には、数年毎に産物の大会を設け、世界中に布告して各其国の名産、便利の器械古風奇物を集め、万国の人に示す事あり、之を博覧会と称す」とあるのがそれである。福沢によるこのような紹介記事も手つだって、明治四年五月に日本各地の物産をあつめた「物産会」がひらかれたが、翌五年三月一〇日から日本最初の「博覧会」が公開された。会場にはフランス製の鋏、文覚上人の像、ナイアガラ瀑布の絵、元禄小袖、など、いっこうにまとまりのない展示品が雑然とならべられていたにすぎなかったが、一日の入場者一〇〇〇人と限定したのに連日大入満員で、三月末日までの予定を延長して四月いっぱい展示がつづけられた。  このあと、オーストリアでひらかれた万国博を見物してきた外交官がその規模と構成のみごとさに感嘆し、日本における「博覧会」が大幅な改善を要することを説いた。大久保利通はそうした新知識にもとづいて本格的博覧会の開催を建議し、明治一〇年、第一回内国勧業博覧会がひらかれることになったのである。   3月11日 ■パンダの発見■パンダといえば、上野動物園の人気者であるばかりでなく、中国の文化外交使節として世界中で珍重され、かわいがられているが、この動物は、ふしぎなことに中国の博物学のなかでは、いっこうにとりあげられたことがなかった。そしてこのパンダが「発見」されたのは、わずか一世紀ほどむかしのことにすぎないのである。  一八六二年から一〇年ちかく中国に滞在したフランス人神父ペレ・アルマン・ダヴィドは、一八六九年の春に四川省を旅行した。そしてその年の三月一一日、ホン・チャン・チン渓谷を歩いて、この地方の地主の家でひと休み。お茶をごちそうになって、ふと座敷をみると白と黒のあざやかな熊の毛皮が置かれているではないか。こんな動物は、これまで見たことがない。ダヴィド神父は、付近の人の協力をえて滞在期間をのばし、ついに四月一日に、生きたパンダ一頭を手に入れ、しげしげと観察した。まさしく、これは、それまでの動物学では知られていなかった新種だ。神父は地主から毛皮をゆずりうけ、パリに送って専門家の鑑定をもとめた。専門家たちもこの「発見」にびっくりした。  いったんニュースがひろがると、パンダをつかまえよう、というので、ヨーロッパやアメリカから物好きなハンターがつぎつぎにやってくる。パンダは、その数がすくなく、なかなか見つからなかったが、すくなくとも数頭はハンターに射殺されている。いま野生のパンダが何頭くらいいるかはわからないが、解放後の中国ではこれを保護動物に指定し、パンダは四川省のワンラン地区で手あつく保護されるようになった。  ちなみにつけ加えておくと、その後の調査の結果、パンダはすくなくとも六〇万年まえからいまのような姿で棲息していた動物であることがわかった。その糸口の見つかったきょうは、いわば「パンダ記念日」とでもいうべきであろう。 ■人絹のはじまり■米沢藩の藩主上杉鷹山(一八二二〈文政五〉年三月一一日没)は、殖産工業を奨励した名君であり、とりわけ、絹の生産に力を入れた。いまでも山形県は養蚕がさかんで、まさに絹糸王国の観がある。  維新後になってもこの伝統はつづき、米沢はカイコや絹についての研究センターのひとつでありつづけ、この山間の都市には高等繊維専門学校ができた。そして、この学校では、たんに伝統的な蚕糸だけでなく、あらたな化学技術を導入して、人工で絹糸にちかいものをつくることはできないか、という問題に挑戦しはじめることになった。すでに人造絹糸については、一九世紀末にエジソンが、ニトロセルローズを酢酸に入れ、穴から押し出して繊維をつくる方法を開発している。原理はわかっているが問題は製法だ。苦心の甲斐があって、いわゆる「人絹」がここでできあがった。今のテイジン、すなわち、かつての帝国人絹パルプは、かくして米沢に誕生したのである。   3月12日 ■日曜休日のはじまり■西洋人が日曜日を休日としていることは、幕末から知られていたし、オランダ語で日曜日を意味するゾンタクということばも、ドンタクと訛って知られていた。ついでながら、土曜日のことを半ドンというのはこのドンタクの半分、という意味。半日休業だからである。  日曜を休日とすることは、外人教師が多くしかもたいして社会的影響のない大学からはじまった。一八七〇(明治三)年には大学南校が毎月一日と日曜を休日とする、と規定している。だが官吏などは、江戸期の伝統にもとづいて一六休暇、つまり、毎月、一の日と六の日を休む、というシステムをつづけていた。  一八七六(明治九)年三月一二日、その翌月の四月一日を期して、学校はもとより官庁、会社など日曜日を休日とすることが制定され、全国一律にこの年から日曜休日制がはじまったのであった。 ■塩とガンジー■マハトマ・ガンジーはインドのカチュアル地方のヒンズー教徒の家に生まれ、ロンドンに学んだのち、インドの白人支配に抵抗しつづけた。かれは、みずから糸をつむぐなど、素朴な段階からインド経済を復興しようとつとめた。しかし、そうしたもろもろの抵抗運動のなかで特記されてしかるべきものは塩をめぐっての活動である。  いうまでもないことだが、塩は人間の生命活動にとって欠くことのできない物質だ。インドは海岸線にめぐまれ、製塩業もさかんだったが、インドを植民地とするイギリスは、本国での製塩業を保護するため、こともあろうに本国産の塩をインドに輸出しはじめたのである。インドの製塩は、イギリスからのダンピング政策によってほとんど完全に衰退し、しかもイギリス資本は塩の価格安定のために市場を統制した。それに加えて、当時のインドでは、塩の消費に三パーセントの税金がかけられていた。ただでさえ貧しいインドの民衆が、こうした一連の政策でいためつけられたことはいうまでもない。  この政策にたいして、ガンジーは敢然として戦いを宣言した。一九三〇年三月、かれはインド総督のアーウィンにむかって、塩税法にたいして非暴力的不服従運動を展開することを通達し、インドの若ものたちに「ダンジイの海岸へ行け、そこで潮風に身を浄め、塩をつくれ」と命じた。同月一二日のことである。若ものたちは、アーメダバッドからダンジイまで、二〇〇キロにちかい「塩の行進」をおこなった。ガンジーもみずからダンジイ海岸で原始的方法による小規模な製塩をした。これが契機になって、この運動はインド全土にひろがったが、デモ隊はイギリス軍のまえに完全に制圧されてしまった。だが、ガンジーがみずからつくった塩は、宝石のごとくに扱われ、かれの手になる二三グラムの塩は、五二五ルピーという値段で落札された。   3月13日 ■美食家協会の発足■一九二八年三月一三日、フランスで「美食家協会」なる組織が結成された。発起人はデギー男爵、ロビーヌ博士など、食べものにうるさい人たち。この協会は「食卓の芸術を奨励し、立派な飲食の作法を維持すること」をその目標にかかげ、この協会にはいるためには、すぐれた食通や料理人の推薦を受けなければならぬ。そして「評判の芳しからぬ者、健全な精神と丈夫な胃を持たない者、美食学的考察に適さない者」は会員としての資格を失う。  いったん会員としてうけいれられた人は、その栄誉を感謝し、協会にメッセージを寄せなければならない。そして、そのメッセージは会員すべてに限定出版で送付される、という念のいれよう。まず一次会員としてみとめられたのが二四人、二次会員が一六人。えらく大げさで、少数者だけがえらばれる協会である。  これと前後して、フランスには美食をたのしむためのクラブがいくつもできた。たとえば「グラン・ペルドロー」は定期的に昼食会をひらくクラブであって、一九一七年の創立。これには作家や編集者が数多くあつまった。「パイプ」という昼食クラブがある。こちらのほうの設立は一九二八年。このクラブはそのたびにレストランをかえて味覚の比較考察に余念がない。そして、この会の名称がしめすように、会員は食後のコーヒーとともにそれぞれパイプに火をつけ、紫煙をくゆらすことが規約に明記されている。  こうした少数エリートのための食道楽でなく、より大衆的な路線を開拓しようとして結成されたのが「十万人連盟」。これは観光客や旅行者のためのガイド・ブック作製をその主要な任務とし、「いっさいをふくんで二〇フランあるいはそれ以下で快適な料理」をたのしむことのできるレストランのリストをつくった。もっとも、ここにいう二〇フランは一九三〇年の物価にもとづいているものだから、現在の相場でいくらになっているかはわからない。 ■若狭の井戸の怪■奈良東大寺二月堂の「お水取り」行事がおこなわれるのはきょうである。二月堂には「若狭の井戸」というのがあり、ここから水を汲む。この行事がすむと、冬がおわり、春がやってくる、というわけ。じっさい、関西で生活していると、ふしぎなことにこの「お水取り」を境にして、ぐっと春めいてくるのである。  ところで「若狭の井戸」というのは、いったいどういうことなのであろうか。伝説によると、この井戸の水は、遠く若狭国から送られてくるのだそうである。つまり、長距離の地下水道で奈良と若狭はつながっているものであるらしい。そして、それを実証するかのごとく、若狭国の小浜では、この日に「水送り」という行事がおこなわれる。小浜には、ほんものの「若狭の井戸」があり、ここから「水送り」をすると、その水が最終的に秘密の地下水道で奈良のほうの「若狭の井戸」に流れこんでいくというわけなのである。 ■敵に塩を送る■きょうは上杉謙信の命日(一五七八〈天正六〉年)。謙信は、甲斐国の敵将武田信玄に塩を送った、という故事で有名だが、じっさいには、甲府盆地は、かつて塩水湖であり、それが隆起して盆地になったのだ、という。周囲を山にかこまれ、まったく海とは関係のなさそうな甲斐、つまり山梨県に松島だの塩山だのという地名が残っているのもそのあらわれだし、同県南巨摩郡西山村では、岩塩もわずかながら見つかっている。  だが、そんなことは知るよしもなく、信玄はほんとうに塩に困っていた。相模の北条だの駿河の今川だのが、信玄をおそれて、太平洋岸の塩を甲斐に送ることをやめてしまったからである。そこで越後の謙信は、日本海産の塩を信玄に送ることにした。三千俵の塩は糸魚川から大町、松本を経由してはるばると甲府に到着。一五六九(永禄一二)年冬のことである。塩はまず市神《いちがみ》神社に供えられたのち、住民に売り出され、これで甲斐の人びとは一安心した、というわけ。   3月14日 ■ペリカンとルーズベルト■人間はたとえばニワトリや七面鳥の肉を食べたり、キジやカモを撃ったり、ずいぶん鳥の社会を搾取しているが、人間による鳥の搾取のひとつに、羽根をとって身体を装飾する、という方法がある。つまり、うつくしい羽毛をとって帽子につけたり、ショールをつくったり、というわけ。この流行は歴史とともにふるいが、西洋では一八世紀末、ルイ一六世のころから、とされており、アメリカでも一八七〇年代には、鳥の羽毛による装飾がご婦人がたのあいだで流行しはじめた。  ところで、フロリダの海岸にちかい湿地帯には、マングローブのしげる小さな島々が点在しており、ここにカッショクペリカンという体長一メートルあまりのペリカンが住みついていた。流行商品とあって、このペリカンの羽根をとるため、ハンターたちがやってきて、ペリカンを殺しまくった。ひょっとするとペリカンは絶滅してしまうかもしれない。そうかんがえたのは地元のB・クローゲルなる人物。かれは事態をアメリカ鳥類学会に訴えた。鳥類学会は有名なシートンなどもそのメンバーとしていたが、動物好きの大統領T・ルーズベルトもその一員であった。  あることを発見、さっそく連邦政府にはたらきかけた。ルーズベルト大統領は即座に決断をくだし、その最高命令によってこのペリカン棲息地域を国有鳥類保護区に指定した。一九〇三年三月一四日のことである。  もっとも、この指定にもかかわらず、もっぱら生態学的理由によって、ペリカンの数は減りつづけた。そのバランスを保つべく保護区が拡大されたのは一九六三年であった。こんにちも、この地域を訪ねれば、みごとなペリカンの大群をみることができる。 ■ドナウ河の話■ヨーロッパでいちばん長い河はヴォルガ河でその総延長は三六六七キロ。第二位はドナウ河の二八八〇キロ。そのドナウ河は西ドイツの海抜七〇〇メートルの森林地帯にその源を発し、オーストリア、チェコスロバキア、ハンガリーなど合計八カ国を通過して黒海にそそぐ。この河の水量はゆたかで、合計八〇万平方キロ、つまり日本列島の二倍以上におよぶ面積の耕地を灌漑している。ワルツ王J・ストラウス(一八〇四年三月一四日生)は「美しく青きドナウ」でこの河を有名にしたが、ドナウ河がうるわしのウィーンの市街を流れているとおもったらまちがいであって、ウィーンはドナウ何から五キロほどはなれている。ただ、ドナウ河の水を利用した運河が市内に入り組んでいるので、そそっかしい人はカンちがいする。  この河はヨーロッパにおける水運の幹線道路であって、その所在は紀元前一五世紀にすでにヘロドトスが指摘しており、ジプシーたちは、これを「ホコリのないハイウェイ」と呼んでいた。   3月15日 ■佐倉藩とクツ製造■明治維新後に、各旧藩は、あらたな活路を模索したが、佐倉藩では、そのまま知事に横すべりした堀田正倫が顧問役の西村茂樹と相談して、旧士族にあたらしい職業をあたえるための職業訓練所をかねた工場をつくることにした。この施設は佐倉相済社と呼ばれ、もとの武道場を改造したものであったという。ここでの職業訓練の中心になったのは製靴であって、訓練生はおよそ二〇〇名。たまたま西村茂樹の弟であった西村勝三が東京で製靴業をいとなんでいたことから、この新産業に目をつけたのである。勝三の工場から熟練工が来て相済社の指導をした。一日ひとりあたり一足ないし三足を仕上げて賃銀は三〇銭であった。相済社の設立は明治二年秋だったが、ちょうどこのころ兵部省が新設され、兵部大輔の大村益次郎が西村に軍靴製造の必要を説いていったので、明治三年三月一五日に軍靴製造をはじめた。この日がのちに「靴の記念日」として制定されることになった。 ■弁当の起源■一五九八(慶長三)年三月一五日、秀吉は醍醐寺で盛大な花見の宴をもよおした。このころ、こうした行楽には弁当という食事の形式がはじまっている。原型になっているのは当然懐石料理だが、秀吉の弁当箱などは金箔を散らした豪華なもの。いわゆる「幕の内」は、携帯用懐石料理として、この花見の宴に用意されていた。  弁当というのは、旅行者の数にあわせて食事を弁ずる、という意味で、桃山時代から旅行食として普及しはじめた。日本人の行楽や旅行に弁当を欠かすことのできないゆえんである。まさしくこうした伝統があるゆえに、鉄道開通と同時に駅弁が誕生しえた、といってもさしつかえない。秀吉のこの醍醐の花見は、太閤さんの栄華のおわりでもあり、このあとまもなく秀吉はその一生をおえる。  なお関係のないことだが、醍醐味、などということばで使われる醍醐とは、ヨーグルトのことである。どこかで中央アジアの乳製品と日本人とは接触していたのであった。   3月16日 ■国立公園の矛盾■それぞれの国がもつ自然景観を保存し、それらの場所を国民の休養や観光のために供する、という「国立公園」のアイデアは、まず広大な土地をもつ新大陸アメリカではじまった。一八七二年に指定されたイエローストーン公園がその第一号である。  この文化行政は他の国にも少なからぬ影響をあたえた。まず、アメリカの隣国であるカナダが一八八五年バンフを国立公園とし、アメリカとならんで、つぎつぎに国立公園を指定した。アメリカの国立公園の総面積は合計三万平方キロ、カナダは六万平方キロ。両方をあわせると、日本の国土面積の四分の一ほどにあたる。  日本もこの例にならって一九三一(昭和六)年三月一六日に「国立公園法」を制定し、まず瀬戸内海、雲仙、霧島の三カ所を国立公園として指定したけれども、日本の事情はだいぶちがった。というのは、アメリカ、カナダなどのばあいには、国立公園として定めた土地がことごとく国有財産であるのにたいして、日本のばあいは、指定された地域の大部分が私有地だからである。国立公園に指定されるのは、ある意味では、ありがた迷惑ということになる。なまじ指定されたがために、自由に土地を使うことができなくなったりするからだ。ちなみに、現在、日本の国立公園は総数二七。その面積の合計は国土面積ぜんたいのおよそ五・一パーセントである。 ■家康の太平洋航路■一六〇〇(慶長五)年三月一六日、一隻のオランダ船が豊後国に漂着した。船名を「リーフデ号」という。この船は、もともとJ・マーフにひきいられた五隻の船団のうちの一隻だが、途中で僚船を見失い、流れ流れて日本にたどりついた、というわけ。船長以下、乗組員は家康に会って歓待をうけ、便船を待って東南アジアに帰ったが、航海長のウィリアム・アダムスと航海士のヤン・ヨーステンは日本にとどまった。ヨーステンは江戸城下に土地をもらい、その名が訛《なま》ってこんにちの東京駅八重洲口になったのはご存じのとおり。  いっぽう、アダムスは、三浦按針という日本名を名のり、その技術と知識を生かして、家康のために、伊豆の伊東で洋式船二隻を建造した。一隻は八万キログラム、もうひとつは一二万キログラム。コロンブスが大西洋横断に使った船が一〇万キログラムだから、ともに外洋航海にじゅうぶん堪えうるだけの規模のものだった、といってさしつかえない。だがいったい、この船でなにをしたらよろしいのか。  そうかんがえている矢先、ルソンからメキシコに向けて航行中の「サン・フランシスコ号」が上総の岸和田村に漂着、それを手厚く看護したのが機縁で、ぜひメキシコにいらっしゃい、ということになった。家康は、文字どおり渡りに舟というわけで、例の一二万キログラムの船を「サン・ブェナベンツーラ号」と名づけ、京都の商人田中勝介らが同乗して太平洋を渡ることになった。船を操ったのは「サン・フランシスコ号」生きのこりの乗組員八〇名、そして、日本最初の外航船「サン・ブェナベンツーラ号」は、メキシコのアカプルコに着き、船体はメキシコ政府が買いあげ、日本からの渡航者たちは、メキシコから日本への答礼大使とともに、べつな船で帰国したのである。   3月17日 ■『日本書紀』の盗作■天武天皇が『日本書紀』の編纂を川嶋皇子らに命じたのは六八一(天武九)年三月一七日。この編纂事業はその後四〇年ちかくかかって七二〇(養老四)年に完成したが、さて、この古代史の基本文献たる『日本書紀』が日本人の手になるオリジナル作品か、ということになると疑問ののこるところがないでもない。もちろん、神々の誕生は日本の伝承だが、そもそも宇宙はいかにしてできたか、という歴史哲学はどうやら『准南子《えなんじ》』のような中国の書物からの盗作であるらしい。すなわち、『准南子』には「天地未だ剖れず、陰陽未だ判れず」という文字があり、『日本書紀』ではその冒頭に「古、天地未だ剖れず、陰陽分れず」という一句があるからだ。こうしてくらべてみると、どうも偶然の一致とはいえそうもないのである。 ■バリ島の悲劇■インドネシアは、クラカトア火山の爆発など、噴火活動のはげしいところだが、一九六三年三月一七日のバリ島のアグン火山の爆発はひときわすさまじいものであった。この爆発で、バリ島の農地のおよそ三分の一が完全に熔岩や火山灰の下に埋れてしまったし、八万五〇〇〇人の人びとが家を失い、一五〇〇人が死んだ。この火山活動はこの年の一月からはじまっており、不気味な兆候がみられていたのだが、この日の噴火が決定的なものとなった。  一九六〇年代は、大きな噴火活動が世界各地でひきつづいた時代である。バリ島に先立つこと二年、一九六一年九月、南大西洋のトリスタン・ダ・クンハ島でも火山爆発があり、住民数百人が家を失った。また一九六五年九月には、フィリピンで、マニラ南方およそ五〇キロのところにあるタール火山が爆発して熔岩は火山湖に流れこみ、すさまじい水蒸気を吹きあげた。火山灰をまじえた水蒸気は約二〇キロの高さまで立ちのぼり、大きなキノコ雲となってこの付近の視界を完全に遮ったのである。  さらにタール火山の噴火は、垂直方向への爆発でなく、火山の横の山ひだから水平方向に爆発したものだから、火山弾はほとんど横なぐりに猛スピードで飛び交い、地上の樹木や建物は、まるで斧で断ち切られたような状態になってしまった。この火山は一九一一年にも爆発したことがあり、そのときには一三〇〇人が死んだが、六五年の噴火のときの死者は一五〇人にとどまった。  一九六八年になると、コスタリカのアレナル火山が噴火。こちらは活火山で、しょっちゅう小爆発をおこしていたが、この年八月の爆発は大きく、厚さ一〇メートルほどの熔岩流が山麓を埋めつくしてしまった。  さて、アグン火山だが、この噴火で舞い上った火山灰は成層圏に入り、その後数週間にわたって、北半球の人びとは、異様な美しさの夕焼けを見ることができた。   3月18日 ■マーガリンと戦争■プロシャ王ウィルヘルム一世がドイツ皇帝としてベルサイユで即位し、このあとパリが陥落し、それに抵抗する市民たちがいわゆる「パリ・コミューン」成立を宣言したのは一八七一年三月一八日。かくして、普仏戦争はヨーロッパ史に大きな衝撃をのこすのだが、この戦争のあいだ、バターの不足が深刻になった。ナポレオン三世はそこで、バターの代用になるものの発明に多額の賞金をあたえる、という、いわば発明コンテストを主催することにした。  これに応募し入選したのがH・メゲ・ムーリーなる人物の発明である。かれは牛の腎臓部の脂肪を低温でとかし、それをミルクで練りあげて、バター代用品としたのであった。その性質上、この物質にはマルガリン酸がふくまれているだろう、という想定のもとに、かれは、これを「オレオマーガリン」と名づけた。これがマーガリン、すなわち人造バターのはじまりである。一八八九年のことだ。  この代用バターは、栄養的に富み、かつ天然バターよりはるかに安い価格で販売されたから、戦後もひろく用いられ、フランスのみならず、ヨーロッパ全体にゆきわたった。さらに、第一次大戦、第二次大戦という二〇世紀にはいってからの戦争は、より深刻なバター不足をひきおこす。そして、そのたびにマーガリン需要は増大し、市場も拡大するのであった。研究開発の甲斐あって、さいきんでは、動物性脂肪でなく植物油を使った低カロリーのマーガリンもできあがり、もはやマーガリンは、たんなるバターの代用品ではなくなって独自の特色を確立している。だがマーガリンが、戦争とともに発展した食品であることにかわりはない。ところで、メゲ・ムーリーは、前述のように、この代用バターにマルガリン酸がふくまれている、とかんがえて命名したのだが、じっさいにはマルガリン酸は含まれていなかった。 ■ディーゼルの失意■ディーゼル・エンジンの発明者として知られるルドルフ・ディーゼルは一八五八年三月一八日生まれ。学業を順調にすすめ、一八七八年にはミュンヘン工学大学の学生になっていた。内燃機関についての講義をきいていたら、担当の教授は蒸気機関の熱効率がきわめて低いことを説き、将来、より効率の高い内燃機関がつくられるべきだ、と学生たちをはげました。若きディーゼルは、そのことばをきいたとたん、一種の霊感に打たれ、ノートの欄外に、「これだ!」と書きつけた。  ディーゼルが着目したのは、シリンダー内部で爆発時に発生する熱をより多く動力に用い、そのことでシリンダー内部の温度を一定に保つことである。一四年間にわたる研究の結果、かれは最初のモデルを完成させた。ディーゼル・エンジンはガソリンでなく重油でうごく。特別な点火装置もいらない。石油エンジンの熱効率が二八パーセントにすぎないのにディーゼル・エンジンは三五パーセント。ただ重量が重すぎることや騒音が欠点だった。人びとは、利点よりもむしろ欠点について神経質であった。だからせっかくの新発明にもかかわらず、製品はいっこうに市場を開拓することができなかった。最初のころには、クルップ社がディーゼルを援助し、はげましたが、やがてディーゼルは自力で資金調達をしなければならなくなり、しかもその調達能力には限界があった。金融面で完全に行きづまったディーゼルは一九一三年、ドーバー海峡をわたる仏英連絡船のうえから投身自殺。五五歳であった。 ■鳥人スミスとオールバックの髪型■大正五年の夏から、青年たちのあいだでオールバックの髪型が大流行した。流行には元祖のあるのがふつうである。実はこの髪型の大流行は鳥人アート・スミスがもたらしたものなのであった。かれは、大正四年の年末に来日したチャールズ・ナイルスにつづいて大正五年三月一八日に来日。宙がえり、木葉おとし、錐《きり》もみ、などの曲のり飛行を披瀝して、おおいなる人気を博している。というのも、当時はまさに、飛行機が、第一次世界大戦で、実用的な兵器として登場したころで、日本でも、人びとの耳目をあつめはじめていたからである。ライト兄弟が人類初の飛行に成功した一九〇三年以来、十余年後のことであった。   3月19日 ■瀬戸ものの起源■唐の時代の中国は、その国土がいちじるしくひろがり、経済も発展するし、文化・芸術のうごきもはなやかに活発化しはじめていた。中国の陶磁器は、この時代から本格的な発達をみせ、全国各地に窯がひらかれるようになったが、中国陶磁の黄金時代は、なんといっても宋代であろう。原土のえらびかたもいいし、つくられた作品にも気品と風格がある。文様もみごとだし、うわぐすりもよろしい。だから、たとえば宋の青磁、白磁といえば世界的絶品であって、珍重されている。そればかりではない、漢代の陶磁が主として貴族階級むけの一種の工芸品であったのに対し、宋の時代になると、陶磁器はひとつの産業としての確乎たる基盤を築くことになる。生産量は唐のころとはくらべものにならないほど巨大なものになった。華北では、窯の燃料として石炭を利用することもはじまり、手工業ながら大量生産への胎動もみられていた。  生産量がふえたのにはいくつも理由があるが、その最大のものは、輸出市場の拡大であろう。東洋全域にわたって宋の陶磁は輸出され、もちろん、その一部は日本にもきた。そして当然のことながら珍重された。そして、事態がかくのごとくであるならば、ひとつ自力でこれと同じものをつくってみよう、と発奮する日本人がひとりぐらいいてもふしぎではない。宋に渡ってこの新技術を身につけることを決心したのは加藤景正(一二四九〈建長元〉年三月一九日没)である。  景正は鎌倉の陶工で、やきものに関しては知識も技術もじゅうぶんにそなえていた。たまたま、道元が宋に留学するというので随行し、中国でじっくりと陶磁の製法を学んで日本に帰ってきた。かれが宋で学んだことのうち最大のものは、よい作品にはよい原土が必要だ、ということだ。帰朝後の景正は、ひたすら土をもとめて各地を転々とし、ついに瀬戸で理想にちかい土を見つけて窯をひらいた。景正がのこした作品は、こんにちでは「古瀬戸」とか「春慶焼」とか呼ばれるが、かれの最大の遺産は、この瀬戸地方に陶磁の技術をもたらしたことであろう。もともと、谷あいの農村地帯であった瀬戸は、一躍、日本における陶磁器の主要産地となり、「瀬戸もの」は、たんにこの地方でつくられたやきものについての固有名詞であるにとどまらず、陶磁器一般を指す普通名詞になったのであった。  ついでながら、「瀬戸もの」という呼称は東日本のものであって、西日本、とりわけ九州にちかくなればなるほど、普通名詞としての陶磁器は「唐津」と呼ばれる。こちらのほうは朝鮮半島を経由してやきものがはいってきたからだ。   3月20日 ■LPレコードのはじまり■LPレコードの第一号は、コロムビアから、昭和二六年三月二〇日(東京地区)に発売されている。以後、大阪、名古屋、仙台で四月中旬。北海道、九州が五月上旬に発売となった。初めはもっぱら「長時間レコード」と呼ばれ、曲は次の五枚で、値段はいずれも二三〇〇円である。  ベートーヴェンの「第九交響曲」・ブラームスの「運命の歌」・ストラヴィンスキーの「詩篇交響曲」と「三楽章の交響曲」・ムソルグスキーの「歌劇ボリス・ゴドノフ」・プロコフィエフの「バイオリンソナタ、ヘ短調、ニ長調」  当時のLP盤は、材料の塩化ビニールにまだ国産がなく、すべてアメリカに頼っていたのが難点であったが、しかしコロムビアが、前年の一月に以上の五枚の試作に成功していて、なおかつ発売まで一年五カ月を要したのは、LP用プレーヤーの製作が間に合わなかったからである。 ■ストウ夫人の台所革命■黒人奴隷解放運動のきっかけとなった、有名なストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』の初版は一八五二年三月二〇日に一万部印刷され、それは一週間でぜんぶ売り切れてしまった。当時の出版界の常識からすると、これは、信じることのできない、超ベストセラーであった。このストウ夫人の姉のキャサリン・ビーチャーは、アメリカにおける家政学の草分けだが、その家政学教科書は、姉妹共著で、一八六九年に刊行されている。当然のことだが、この著書のなかでは、家事労働のための召使をなくすことが前提となっており、主婦の台所での作業を徹底的に合理化するために、食器棚・調理台・流し台などを有機的につなげた、あたらしい台所の設計図も紹介されている。とりわけ、流し台を室内にとりこみ、井戸水や雨水をポンプで給水するシステムをくふうしたのは、都市水道の普及以前のアイデアとしては抜群であった。こんにちの能率的な台所の配置設計の原型は、奴隷解放運動とむすびついているのである。 ■ポテト・チップスの発明■じゃがいもを薄く輪切りにして油で揚げたポテト・チップスなるものは、手軽な間食としてひろく愛好されているが、これは、まったくの偶発的事故によって発明された。ときに一八六七年、アメリカのサラトガ温泉のホテルのレストランで、コックのひとりが、過ってじゃがいもの小片をフライ鍋のなかにおとしてしまったのである。あわててそれを拾いあげ、ついでに口にいれてみたら、なかなかおいしい。これはおもしろい、というので、こんどは本格的にじゃがいもの薄切りをつくり、それをさっと揚げ、あれこれの料理にそえて食事に出してみたら、これが大好評。あっというまにこのレストランの名物になってしまった。  サラトガ温泉は、当時のアメリカの上流人士の行楽地として有名であった。そして、これらの紳士、淑女たちにとって、ポテト・チップスをパリパリとかじることがひとつの流行になったのだ。バンダービルトのような富豪もこれをことのほか好んだ。その発祥の地にちなんで、これは「サラトガ・チップス」と呼ばれ、二〇世紀になっても、庶民とは縁遠い珍味とされた。これが大量生産され、大衆化しはじめたのは、一九二五年、アルバニーで専門工場が操業を開始したときからである。  蛇足ながら、イギリス英語でいう「チップス」は、じゃがいもを細い棒状に刻んで揚げたもの。アメリカ英語では、こっちのほうは「フレンチ・フライ」と呼ぶ。  日本にじゃがいもを導入し、北海道での大規模栽培をはじめたのは牛島|謹爾《きんじ》(一九二六〈大正一五〉年三月二〇日没)。   3月21日 ■消火器の歴史■一七八八年三月二一日、アメリカのニュー・オリンズで大火が発生し、八五六の建物が一瞬にして灰になった。有名なニュー・オリンズ大火災である。しかしちょうどこのころ、イギリスにG・W・マンビー大佐なる将校がいて、火災時にどのようにして被害を食いとめることができるか、についてあれこれとくふうを凝らしていた。マンビー大佐は、ノーフォーク州デンバーに生まれ、もっぱら人命救助の発明に熱中した風がわりな人物である。かれは難破船から船員を救助するためのロケット救命索などもつくったが、たまたま、一八一三年に、エジンバラの火事の現場に居合わせ、消防士がホースで水を注いでも、五階以上にとどかないのを目撃し、高層化する都市の建物のなかでの消火方法を真剣にかんがえはじめた。  その結果できたのが、マンビー式消火器であって、これは、頑丈な銅製の容器に三ガロンの水をつめ、それに圧搾空気をかけたものだ。非常のばあいには、ハンドルを押すと、空気の圧力によって、水がとび出すというわけである。このような仕掛けであるから、この消火器はたいへんに重く、肩にかけて使用するほかなかったし、商品化したものの、数百個しか売れなかった。  水を使用するのでなく、炭酸ガスを発生させる消火器が登場したのは一九世紀末である。これは要するに、密閉された空間での酸素の量を減らし、そのことによって、燃えさかる焔の力を弱らせるのが目的だった。しかし初期のものは、ボンベのなかに炭酸ガス発生装置を内蔵したものであって、炭酸ガスじたいを圧搾する装置は、第二次大戦以後に開発されたものだ。最近の消火器は、化学薬品を発泡させて焔を遮断する方式にかわってきているし、火災原因の多様化にともなって、消火器じたいも多様化してきた。 ■ムソルグスキーとE・ポー■「展覧会の絵」その他の作品で知られるロシアの国民楽派作曲家ムソルグスキー(一八三九年三月二一日生)は、ストレスにおそわれるとアルコールにたよった。とくに一八五八年、ひそかに恋する女性から絶交を申しわたされ、さらに一八六五年、母を失ってからは酒びたりになり、前後不覚に酔いつぶれるまで飲みつづけた。そのおかげで、一八七〇年代には、作曲活動の創作力もおとろえ、八〇年代になると、音楽そのものへの関心も衰えてしまった。ムソルグスキーは、ほとんどアルコール漬けの状態になって、友人たちの助けでどうにか救出される、という悲惨な日々を送ったのである。かれが四二歳の若さで死んだのは、もっぱらアルコール中毒のゆえであった。  やや時代はさかのぼるが、アメリカの推理作家エドガー・アラン・ポーもまたアル中であった。ヴァージニア大学の学生のころにかれは酒の味をおばえ、のち、ウェスト・ポイントの士官学校に入学を許可されたものの、飲酒が理由で退学させられてしまった。ポーは二七歳のときに結婚したが、妻が結核でたおれると、気をまぎらすため、さらに酒を飲むようになった。かれは、一八四九年、したたかにウイスキーを飲んだあと、ボルチモア市長選挙の投票場に出かけ、そこでたおれて死亡した。享年四〇歳。  その他アル中の有名人はたくさんいるが、短篇作家として知られるO・ヘンリーも、不幸な経験のあと、アルコールを常用し、四八歳で死んでいる。フランスの詩人ベルレーヌは、アブサン酒をあおりつづけ、三〇代のなかばで詩作活動ができなくなった。かれの人生の後半は、もっぱら象徴主義についての講演に明け暮れ、しどろもどろに語りながら酒を飲んだ。そして、ふたりの売春婦の腕に抱かれて五一歳の生涯を閉じたのである。   3月22日 ■「放送」の語源■一九二五(大正一四)年三月二二日、日本ではじめてのラジオ放送がおこなわれ、それを記念して、きょうは放送記念日。日本では放送事業をはじめるのにあたって、これを国営とするか民営とするかについて大いに議論があったが、結局のところ公共放送とすることに決定、日本放送協会が生まれた。この日の初放送は東京高等工業学校に設けられた仮スタジオからおこなわれたが、出力はわずか二二〇ワット。  ところで「放送」ということばを発明したのは、一九一七年、インド洋を航行中の商船三島丸の通信士である。この通信士は、イギリス海軍から航行中の船舶にむけて、ドイツ軍潜水艦の攻撃を警戒せよ、という無電を受信した。発信局が不明だから、「放送」という造語をして記録したのである。それが定着してこんにちにおよんでいるのだ。 ■人力車の発明■人力車は、こんにちの日本ではほとんど姿を消したが、その発明者は福岡の人、和泉要助である、というのが定説になっている。和泉は、維新後、東京の料亭の手つだいをしていたが、西洋人が馬車に乗っているのをみて、馬のかわりに人間がひく乗物はできないものか、とかんがえた。最初の試作車は明治二年にできたが、いざ走らせてみると、ひっくりかえったり、安定を欠いたり、なかなか思うようにうごかなかった。しかし、一年あまり実験をくりかえして、ようやく完成し、太政官にその使用願を出し、さらに東京府に出願した。いずれの官庁もこの新発明品に好意を示し、一八七〇(明治三)年三月二二日、和泉は営業許可をうけて、はじめて東京市内を走った。営業にあたって、東京府は、(1)通行人に迷惑をかけないこと、(2)料金はできるだけ安くすること、(3)「高貴の方並巡邏兵隊」などに行きあったばあいには、下車するかまたは脇道によけること、(4)火事があったときには近くを走らないこと、の四条件を申し渡した,人力車は、おどろくべきスピードで、日本のみならず中国や東南アジアにも輸出され、その生産のピッチをあげるため、明治六年には大蔵省から二〇〇〇円の創業補助をうけて会社組織ができあがった。自慢話の好きな福沢諭吉は、人力車のヒントになったのは、じぶんがアメリカから持ち帰った乳母車である、といっていたようだが、これは大いに疑わしい説である。   3月23日 ■晴雨計のはじまり■ガリレオの弟子にトリチェリという人物がいた。かれは、水を汲みあげるポンプに限度があることを知っていた。真空が水をひきつける力はけっして無限ではないのである。トリチェリは、その実験をおこなうため、水の一三倍の密度をもつ水銀を使ってみることにした。一六四三年、かれは九〇センチほどのガラス管に水銀を満たし、その端をおさえてひっくりかえし、水銀槽のなかに端を突っこんだ。ガラス管のなかの水銀は一五センチほど落ちてきた。その上部は真空なのである。これが「トリチェリの真空」というやつ。  かれはさらに、この真空部分がどれだけ上下するかは、下部の水銀槽にかかっている気圧のつよさと関係しているにちがいない、ともかんがえた。そこでこの装置をもって高い山に登ってみると、水銀柱はだんだんに下ってくるのであった。要するに外気圧が弱まれば水銀柱は下るのである。これが気圧計、すなわちバロメーターのはじまりだ。  これを天気予報に利用することを最初にかんがえたのはギューリッケ。一六七二年ごろのことである。かれは、この晴雨計をよりドラマチックにするために、水銀でなく水を使った。水は太い真鍮のパイプにつめられ、一〇メートルほどの高さに立てられた。その上部にはガラスがはめこまれており、水には小さな人形が浮べられていた。つまり、通行人は、ギューリッケの家の前を通るたびにこのガラス窓を見上げて、人形がその姿を見せている日は晴、逆に水位がさがって人形が見えない日は低気圧が近づいて天候は悪化するのだ、ということを知ったのである。  きょうは世界気象記念日。一九五三(昭和二八)年のこの日に世界気象機構(WMO)が設立されたが、これがその由来である。 ■最古の小学校■日本でいちばん古い歴史をもつ近代小学校は一八六九(明治二)年五月にひらかれた京都の上京第二七番小学校である。  明治政府が各府県宛に小学校設置令を布告したのがこの年の三月二三日。それをうけて、第一号の名のりをあげたのがこの小学校だ。京都はなにしろ一〇〇〇年の歴史を誇る文化都市である。京都府少参事槇村正直は、全国に先んじて小学校教育の普及につとめた。この年のうちに槇村が京都市内につくった小学校は合計六四校。それぞれの小学校は、その学区ごとに小学校会社をつくり、府が資金援助して維持された。なお、この最古の小学校はのちの柳池校。富小路御池角がその所在地である。   3月24日 ■勾玉の謎■三種の神器のひとつにヤサカニノマガタマがある。このマガタマ(勾玉)は朝鮮半島でも多く出土しているが、どうしてあんな形になったか、というと、その原型が野ブタないしはイノシシの牙であったからだ、という説が有力である。元来、なにに価値をあたえるかは、それぞれの文化のもつ独自の基準によるものであって、絶対の価値というものは存在しない。おそらく古代の日本では、野ブタの牙がある種の呪術的意味をもち、それをペンダント状に首にかけていたのであろう。勾玉は、それに似せて石を削ってつくったもの、といってよい。  野ブタの牙といえば、南太平洋のニュー・ヘブリデスでは、その牙を人工的に曲げて、直径数センチの円型にし、それを権力の象徴としている。ニュー・ヘブリデスの人びとがエリザベス女王に献上した野ブタの牙は、カタツムリのカラのごとくに、何重にも曲げられたみごとなものであった。  ところで一一八五(寿永四)年三月二四日は壇の浦の合戦。平家は惨敗し、二位の尼は安徳天皇を抱き、勾玉と草薙の剣をもって海に沈んだのであった。ほんものの勾玉は、いまも瀬戸内海の底に埋もれているはずである。 ■マンガ雑誌のはじまり■退職官吏野村文夫なる人物がいた。かれは一八七七(明治一〇)年三月二四日創刊の「団々《まるまる》珍聞」なるマンガ雑誌の発行者である。発想の根本になっているのは、おそらくイギリスの諷刺マンガ雑誌「パンチ」あたりであったろうとおもわれるが、かれは当時の人気画家をあつめ、銅版画をいれて、世相風俗はもとより、政治消息の雑報を面白半分に書き立てた。  その発刊の辞にいわく—— 「世のなかのよろずの物はみな○き、地球と天球のもとに成り立つぞかし。月日も○く星○く、……当世はやりは○顔のポチャポチャとした○容子《かたち》……み国の旗の赤玉は明治の御世のめでたさを高くあらわす日の○の、その恩沢を一日も忘れぬために○○を名題にしたる○なれば、嫌疑を避くるの○ならず」  つまり、当時は出版物についての統制がきびしく、○○という伏字を使わされることがしばしばだったので、それを逆手にとって「団々珍聞」としたのである。この週刊誌は定価五銭で発売されているけれども、なかなか好評で、「マルチン」の愛称でひろく読まれた。これに刺激されて、「風流珍聞」「珍笑新誌」「夢想奇聞」など類似誌が続々と発刊された。  この伝統はのちに「東京パック」誌にうけつがれ、近代日本における諷刺マンガの流れの源泉となっている。   3月25日 ■ギリシャと船■きょうはギリシャ独立記念日である。こんにちの基準でみれば、たしかにギシャは小国であろうが、地中海文明を最初につくりあげた栄光は、当然、ギリシャにあたえられなければならない。  ギリシャは、その立地条件からして、海上国家であった。ギリシャ人は、古くからすぐれた航海家であり、エーゲ海と東地中海を通じてオリエントと深く交渉し、エーゲ文明の人びとは人類史のなかでもっとも古い海上貿易家だったのである。ギリシャからオリエントにむけては、オリーブとブドウ酒が輸出され、オリエントからは、より高度な文明が流れこんできた。  海上国家としてのギリシャは、こんにちもその伝統をうけついでいる。オナシスによって代表されるような大船舶資本はギリシャに健在だし、エーゲ海の漁師たちは小舟をじょうずに操って祖先以来の生業をまもりつづけているのだ。 ■照明の歴史■明治一一年三月二五日、東京虎ノ門の工部大学校でイギリスのエーアトンが、二人の日本人学生とともに、アーク燈をともした。これが日本における最初の電燈である。この点燈の電源になったのは、グローボ電池。発電機など、まだあろうはずがなかった。  しかし、一般の家庭では軽油によるランプが使われており、明治三〇年代になってもガス燈がふつうであった。このガス燈は、その初期には、たんにガスに火をともし、その青い光で照明を得ていたにすぎなかったが、三〇年代後半には田中正年博士の発明によるガス・マントルなるものが普及しはじめ、光は、さらに青白い輝きをました。ところがマントル時代はわずか二、三年つづいたにすぎず、あわただしく電燈の時代が訪れた。明治三六年ごろには、東京の都心部ではもう電燈が使われるようになっていたのである。つまり、ひとことでいえば、明治三〇年代は、照明の技術革新のスピードがきわめてはやく、せっかく道路を掘りかえしてガス燈用の配管を終えたとおもったら電気時代にかわっていた、というわけなのである。もっとも、この照明技術の普及には地域差があり、東京など大都市を一歩そとに出れば、電燈はもとより、ガス燈もなく、もっぱら灯油ランプを使っていた。じっさい、九州の山村などでは、電気というものは、昭和三〇年代になってもまだひかれていなかったのである。   3月26日 ■T・ウィリアムズの転職■アメリカの劇作家テネシー・ウィリアムズ(一九一四年三月二六日生)の父親はセールスマンであった。しょっちゅう旅に出ている。したがって、テネシーはその少年期の大部分を母親の実家ですごした。作家になりたいという希望はそのころから芽生えており、一六歳のときにかれはその第一作を書いた。もちろん、そんな作品がみとめられるはずもない。大学にすすんだが、学業と作家を志望する心とは両立しがたく、中途退学をなんべんもくりかえす。  その間、かれは収入を得るため靴工場その他、雑多な職業についた。一九四〇年、やっとかれの脚本『天使の戦い』がボストンで上演されたけれども、これは大失敗。ウィリアムズは、こんどはニュー・ヨークに出て、グリニッチ・ヴィレジで料理店の給仕をしたり、歌をうたったりして糊口をしのいだ。かれが劇作家として安定したのは、一九四七年に公演された『欲望という名の電車』によってである。それまでは、かくのごとく、無名の転職時代がつづいたのだ。 ■エンゲル係数の意味■ドイツの統計学者E・エンゲルは、一八二一年三月二六日にドレスデンで生まれた。はじめはフライブルグの鉱業専門学校で冶金学を学び、鉱業の専門家としてヨーロッパ各地に調査旅行の足をはこんだのだが、パリでル・プレーというふしぎな人物に出会った。ル・プレーは、鉱山技師だったが、同時に労働者家計の研究という風変りな研究に専念していたのである。さらに、エンゲルはブラッセルでL・ケトレーにも会う。ケトレーは統計学者。このふたりの人物を知ったことで、エンゲルの関心は、もともとの冶金学からすっかり離れてしまった。かれは専門を統計学に鞍替えし、二九歳のときにザクセンの王立統計局長に就任し、のちプロイセンに移ったが、六〇歳になるまで、ずっと政府の統計局に勤務しつづけた。  だが、かれはたんに統計数字をいじりまわす官僚ではなかった。エンゲルは、この統計の手法を用いて家計の測定と分析をおこなうことをこころみたのである。かれはその目標とするところを「人間福祉測定学」という学問の確立に置き、家計および国民経済ぜんたいを具体的な実態調査によって研究した。そして『主婦の家計簿と国民の経済生活におけるその重要性』(一八八二)という書物のなかで、有名な「エンゲルの法則」を確立するのである。 「エンゲルの法則」は、家計のなかで食費の占める割合(エンゲル係数)が福祉をはかる尺度になる、というのがその主旨であって、ひとことでいえば、エンゲル係数の低い社会こそ理想の社会ということになる。しばしば、「エンゲル係数」は「貧乏係数」ということだ、と誤解されているが、じじつは逆なのであって、この係数がいかに低いかを尺度にしよう、というのが「人間福祉測定学」なのである。おなじことのようにきこえるが、エンゲルの意図していたものを逆転してかんがえるのはまちがいだ。   3月27日 ■侠客の起源■一六六四(寛文四)年三月二七日、旗本の水野十郎左衛門が切腹した。水野といえば、幡随院長兵衛を風呂場で謀殺した悪人ということになっているが、侠客というのは一七世紀のはじめから出現している。とくに首都が江戸にうつると、侠客は旗本奴、町奴、というふたつのグループにわかれてたがいに勢力を争いあったのである。旗本奴というのは小身の旗本があつまったもので、白柄組と称したりした。これは柄を白糸で巻いた刀を差して、それをいわばシンボル・マークとして市中を歩きまわる。もちろん、その活動は幕府公認ではなく、エリートのドロップ・アウトということになるだろう。水野はその代表格のひとり。  これに対して、町奴のほうは浪人だの人入れ稼業の町人だのの集団だ。長兵衛はこちらのほうのリーダーである。その出身や背景はちがうけれども、旗本奴と町奴は、ことあるごとに「男|伊達《だて》」というのを競いあった。「男を立てる」のがその身上だから、つまらぬことでも喧嘩の原因となり、しょっちゅう張りあっている。要するに幕府の威令がおこなわれないがゆえに、こういう無法者集団が横行したのである。水野が切腹を命じられたのは、江戸の司法がその権力を確立したからであったが、地方では、かならずしも役人たちは無法者をとりしまるだけの力をもっていないばかりか、ときにはかれらと結んで不正行為に加担したりしたものだから、やがて、「やくざ」を野放しにする結果になってしまった。 ■ステンド・グラスの世界■アンリ・ルオーは一八七一年三月二七日、パリ・コミューンのさなかにパリに生まれた。かれの父親は家具の職人、そして母方の祖父は版画の収集家。そうした環境から、かれは幼いころから美術をこころざし、ステンド・グラスの職人として徒弟奉公をはじめた。ステンド・グラスは、いうまでもなく、金属枠のなかに彩色ガラスをはめこんでつくられる。サン・セヴラン教会のステンド・グラスの修復作業などはかれの初期の作品だ。  二〇歳のとき、かれは美術学校に入って本格的に油絵と取りくみはじめたが、その技法のなかに、ステンド・グラスでおぼえた造型を導入した。もちろん、油絵の世界は、ガラスの世界よりはるかに柔軟である。曲線も自由にえがくことができる。しかし、ルオーは素朴な線、とりわけ太くくっきりと表現される黒い線を重視した。初期にかれが好んでえがいた題材はピエロであり、晩年には宗教的主題をより多くえらぶようになったけれども、かれの作品は例外なく、太い黒色の線で対象の輪廓を描くという点で、きわめて特徴的だ。技法的には、まさしくステンド・グラスがその原型となっているのである。じっさい、かれは一九四七年、七六歳のときに、乞われるままにアッシーの教会のステンド・グラスを制作した。かれの心の底にはげしく燃えつづけていたステンド・グラス職人の造型意欲は消えることがなかったのである。   3月28日 ■楼蘭の発見■タクラマカン砂漠を流れるタリム河はロブ・ノール湖という湖に注いでいる。まさしく砂漠のなかのオアシスだ。この湖のほとりには、むかし楼蘭という王都があり、シルク・ロードの要衝となっていた、とされているが、ながい年月のあいだにタリム河の流れはかわり、いつのまにやら楼蘭はロブ・ノール湖とともに地上からその姿を消してしまった。  この消滅した湖を求めて探検旅行をこころみたのがスウェーデンの探検家S・ヘディンである。かれは一九〇〇年三月二八日、アルトミッシュ・ブラークのオアシスを出発してタリム盆地を南下した。この日まもなく、この探検隊は古代の廃墟にぶつかった。古代中国の貨幣、陶器の破片などが見つかり、三軒の住居のあとがそこにはあった。じつはこれが楼蘭の一部であったのだが、ヘディンはそのことに気づかなかった。もちろん、これらの遺跡や遺物は注意ぶかく研究し記録したが、かれは一路、「失われた湖」をもとめて南下をつづけた。ほんとうは、かれは大発見をしているのに、それに気がつかなかったのだ。  幸運なことに、途中でシャベルを置き忘れた助手が、さきほどの遺跡のちかくでより大きな廃墟を見つけて帰ってきた。戻ることも不可能ではなかったが、なにしろ砂漠の旅である。ヘディンはつぎのオアシスにたどりついて、再起を期した。そしてその翌年に、もういちど同じルートで注意深く探検をつづけ、ついに楼蘭を発見することができた。この発見によって、シルク・ロードのルートは確定できたし、砂漠の河の気まぐれな移動もあきらかになった。ふしぎなことに、それからあと、タリム河はふたたびもとの流路にちかいところを流れるようになり、「失われた湖」はその原位置に戻ってきたらしい。 ■世界を競売にした話■二世紀のおわり、正確にいうと一九三年に、ローマは、かれらの観点からみて「文明世界」とおもわれる地域ぜんたい、つまり地中海世界を完全に制覇した。この年、シーザーの親衛隊であった一万二〇〇〇人の将兵はクーデターをおこし、パルティナクス皇帝を襲って殺してしまった。そこまではよかったのだが、気がついてみると皇帝の座が空席になってしまっている。親衛隊の連中はそこで奇抜なことをかんがえた。このローマ帝国皇帝の座を競売に出して、いちばん高い値段をつけた人物にそれを売ろう、というのだ。  競売は一九三年三月二八日におこなわれた。実質的にこの競売に加わったのはふたりである。ひとりは、殺された皇帝の義父にあたる人物であり、もうひとりは、ローマ元老院のなかで、もっとも富裕なディディアス・ユリアヌス。双方で負けずに値をつけたが、結局はユリアヌスが三億セステルスという途方もない値段でせり落とし、世界を買いとったのである。ときにユリアヌスは六一歳。ところが、かれはいっこうに人気がなく、民衆のあいだの不満はつのるいっぽうだ。そうした情勢を見て、パノニアにいたローマの将軍セベルスはみずからの手兵をひきいてローマを急襲し、ユリアヌスを皇帝の座からひきずりおろして、首をちょん切ってしまった。ユリアヌスの天下は、六六日間つづいただけだった。   3月29日 ■「じゃがたら文」再考■オランダは一六〇二年三月二九日、それまで濫立していた東洋との貿易会社を整理合併して東インド会社を設立した。折しもヨーロッパでは、オランダとスペインの戦争がつづいており、オランダとしてはリスボンの交換貿易から閉め出されていたから、このさい、一挙に、東インドと直接取引をしよう、というわけ。  もちろん、それ以前にもオランダ人は香料をもとめて東インド諸島に進出し、現地でポルトガル商人とはげしい衝突をつづけていたが、オランダの商人たちのあいだに連帯組織がないから、いっこうにその地歩をかためることができない。そこへもってきて、競争相手のイギリスがエリザベス女王の勅許状のもとにイギリス東インド会社をつくった。いわばそのイギリスの手法を真似て、オランダも貿易の独占企業体をつくったのである。  イギリスには出おくれたが、結果的に東インドで勝ち残ったのはオランダである。このオランダ東インド会社は、オランダ軍の強力な軍事的支援をうけ、事実上、東インド諸島、すなわちこんにちのインドネシアの支配者になった。一六一九年、バタヴィアに首府をひらき、そこには本社の任命する総督が着任した。オランダ政府はおもてには出ていないけれども、これで実質的にインドネシアはオランダの植民地になった、というわけだ。その最盛期たる一七世紀なかばには、この会社の版図はマレー半島からセイロン島、さらに台湾にもおよんでいた。  ところでこの時期の日本は、といえば、こちらもフィリピンからインドシナ半島にむけて着実に進出していた。山田長政のシャムにおける活躍などはそのあらわれのひとつといえる。そして、こんなふうに南方に進出した日本人は当然、東インド会社の人びとと接触した。接触したばかりではなく、これらの日本人のなかには、東インド会社の社員として採用された人もすくなくない。じっさい、場所によっては従業員の一割以上が日本人、という出張所もあった。正確な記録はよくわかっていないが、かれらはオランダ人にけっして隷属的な態度をとることなく、経営の才を発揮し、むしろオランダ人と競合しながらはたらいたようだ。  しかし、そうした日本人の活躍も、日本が鎖国政策をとったことで完全に中断されてしまった。要するに日本からの後続部隊がつづかなかったのである。だから、ここではたらいた何百人もの日本人の消息は絶えた。もしも鎖国政策がとられず、南進政策が推進されていたとするなら、東インド会社の体質や機能も、ずいふんかわったものになっていたにちがいない。鎖国後、日本に帰れなくなった人びとの「じゃがたら文」は、もっぱら感傷の対象になっているが、当時の日本人は、ひろい世界にとび出してゆくこと、ばあいによっては、行った先の国に骨を埋めることなど、いっこうに意に介していなかったようなのである。「じゃがたら文」への感傷は、しょせん、この日本という島国にとじこもっている人びとの矮小な心理世界の投影であるにすぎない。   3月30日 ■村田銃の制定■日本の陸軍は、その初期の段階ではおおむね西洋からの輸入火器にたよっていたが、陸軍少佐村田経芳は各国産の小銃をくわしく研究し、その結果、かれじしんの発明になる最初の国産小銃を開発した。この小銃は口径を小さくし、バネに改良を加えたことで、軽量かつ高性能のものとなった。帝国陸軍は発明者の名をとってこれを「村田銃」と名づけ、明治一三年三月三〇日に正式に採用することにした。同時代の欧米の陸軍が使っていた小銃にくらべてもいささかの遜色もないばかりでなく、むしろ、命中率も高かったから、五年間に一〇万挺を製造する、という大規模の生産計画が立てられ、小石川の砲兵工廠はほとんど徹夜で操業した。日清戦争で「右手に杖つく村田銃」と軍歌にうたわれたのはこの銃である。  その後、村田銃はつぎつぎに改良を加えられ、明治三八年になって、三八連発銃としてまったく面目を一新した。戦中派、戦前派の思い出のなかにのこる「三八式歩兵銃」は、まさしく、この明治三八年制定の村田銃なのであった。 ■エッフェル塔の完成■一八八九年三月三〇日、パリ名物のエッフェル塔が完成した。これはこの年にひらかれる万国博覧会のいわばシンボル・タワーであって、その高さ三一二メートル。材料になった鋼材はベッセマー鋼という高品質のもので、工期一七カ月、工費としては六五〇万フランという巨費が投じられた。これよりさき、ロンドン万国博ではガラス張りの水晶宮が使われ、ひとは「鉄とガラスの時代」のはじまりをそこに見たわけだが、水晶宮で使われた鉄は鋳鉄である。文字どおりの「鉄鋼の時代」を象徴するのはエッフェル塔だった、といってさしつかえない。  ところで、この設計をしたA・エッフェルは、鉄骨構造の先駆者であって、パナマ運河の水門の設計もしたし、ニュー・ヨークの「自由の女神」の構造もかれがつくった。エッフェルは空気力学に造詣がふかく、みずから設計したエッフェル塔にのぼっては実験をつづけていた。   3月31日 ■年のかぞえかた■官庁の会計年度は、四月一日にはじまり翌年三月三一日におわる。暦年は一月一日から一二月三一日までなのに、会計年度というのが三カ月ズレているからめんどくさい。たとえば、税金は、暦年にもとづき、一二月三一日までの所得をとりまとめ、それを会計年度のおわる翌年三月までに申告する、といった次第である。なぜこういう会計年度が設定されたか、といえば、明治時代にイギリスが四月から三月までという会計年度を採用していたからである。日本はそれに倣《なら》っただけであって、べつだんほかに根拠はない。外国を見ると、たとえばアメリカやイタリアは七月一日から翌年六月三〇日までを会計年度としている。  さらにおもしろいのは、さまざまな相場物資の年度がバラバラであるということだ。たとえば、米穀は一一月から翌年一〇月、羊毛は九月から翌年八月、棉花は八月から翌年七月、生糸は六月から翌年五月といった調子であって、年のかぞえかたは、業界によって、まったくちがうのである。われわれの日常生活は、おおむね暦年によっているけれども、政府の力がつよくなればなるほど、会計年度にあわせなければならない部分がふえてきた。学校がそうだし、就職がそうだ。われわれのまわりには、さまざまな「年」が渦巻いているのである。 ■ニュートンとペスト■ニュートン(一七二二年三月三一日没)が、じっと庭内にすわりながら、リンゴが木から落ちるのを見て、そこから「万有引力の法則」を発見した、というのは、学者の考証によると、完全な創作であるらしいが、そういうこともありえただろう、という証拠もある。というのは、かれが二三歳のとき、ペストが流行し、在学中のケンブリッジ大学が閉鎖され、かなり長期にわたって学生たちはそれぞれの故郷に帰省していたからだ。はやく大学に戻って勉強したい、とつよく願いながら、かれももっぱら自宅で自習ということになった。「万有引力の法則」の発見は、年表によると、ちょうどこの帰省中におこなわれている。とすると、勉強のあい間に、ぼんやりと庭に出てリンゴの実が木から落ちるのに気がついた、としてもふしぎではない。ペストのおかげで近代物理学の基礎がつくられた、というわけである。 [#改ページ]   四  月   4月1日 ■郵便局の消印■消印は郵便創業の明治四年からあったが、最初は検査印であった。ついで五年に、江戸橋本局(今の日本橋)で初めて日付入りの、タテ五ミリ、幅二三ミリのつげの木口彫という仕切判のようなものがつかわれた。しかし、これは外国のものと比べてヒケ目を感じるほどお粗末なものだった。そこで苦心の結果、直径二二ミリの円型に改良したのが明治六年四月一日で、このときから、朝、日中、夕の文字と、それに局名まで入るようになったのである。 ■ロールス・ロイスの誕生■C・ロールスはイギリスの上流階級に生まれ、幼いときから機械いじりが好きだった。まだ二〇歳にもならないころ、かれは父親の屋敷に自家発電装置をとりつける工事のことごとくを監督するだけの知識と技術をもっていた。親友のC・ジョンスンとともに、かれの関心はやがて自動車にむかい、みずから自動車レースに出場するとともに、ロンドンで自動車販売店をひらいた。  ところが、ここにH・ロイスなる青年が登場する。かれは下層階級の出身で、過労のため健康を害し、歩行が困難であった。そこで分不相応ながら、自動車を一台買って通動しはじめたのだが、どうも気に入らない。かれは電気モーターの会社ではたらいていたので、持ちまえの技術でみずからの自動車に改良を加え、最後には、じぶんの満足のゆく自動車を製造してみようと決心する。その手づくりの職人魂でつくられたロイスの自動車第一号は、一九〇四年四月一日に完成した。  ロイスはこの新車ができると、やがてロールスとジョンスンに試乗するよう誘いをかけた。乗ってみたふたりはその高性能にいたく感動し、三人で新会社をつくろう、と決心する。最初は「ロールス・ロイス・ジョンスン」社と名づけたが、これではあまり長すぎるので「ロールス・ロイス」とした。かれらのつくる自動車は、またたくうちに特製高級車として定評をえた。お客の好みによって、室内装飾からボディの材料にいたるまで注文に応じた。  だがやがてロールスは飛行機にも興味をもち、みずから小型飛行機を操縦しはじめたが、墜落事故で死亡。ひきつづきジョンスンも死んだので、社業はロイスひとりの双肩にかかることになった。ただ、前記のようにロイスは健康状態がわるく、南仏の別荘に住んで、厖大な往復文書によってイギリスのロールス・ロイス社を経営した。ロイスは一九三三年に死んだが、この往復文書は、こんにちなお、同社の「聖典」とされている。   4月2日 ■ドラキュラの大虐殺■伝説上の人物であるとされているドラキュラは串刺しという拷問の方法を好んでつかった。それは彼の十八番ともいうべき処刑の方法であったが、通常は力のつよい馬を一頭ずつ犠牲者の両足にそれぞれつないで、徐々にひっぱり、生殺し状態をゆっくりとたのしむのであった。ドラキュラの拷問のなかで有名なものに、ルーマニアのブラショヴ市内の小高い丘の上でおこなわれたそれがある。その光景でとくに恐ろしいのは、彼のそばで家来たちが犠牲者たちの手足を切り落とし、杭に突き刺し、饗宴を囲む形に整然と並べている姿である。また一説によると、べつの同じような場面でも、似たようなことはしばしばおこなわれていたらしい。貴族のひとりが殺戮《さつりく》の悪臭に耐えられず鼻をつまんだのをみて、ドラキュラは、ただちにその貴族をも串刺しにさせたこともあるという。それも苦悶のつづくあいだ、まわりの死体や血のにおいに悩まされなくてもすむよう、他のものよりひときわ高い杭のてっぺんに突き刺したのだった。このような一連の虐殺行はほぼ一四五九年から六一年までのあいだにおこなわれている。このブラショヴの丘でのできごとは一四五九年四月二日のことだった。 ■ゴムの発見■新学期である。ランドセルのなかには鉛筆、消しゴム、といった文房具一式がはいっている。だが、この消しゴムから自動車のタイヤにいたる、ゴムという物質は、じつは、偶然の発明によるものなのであった。  ときは一八三九年の冬、C・グッドイヤーはインド産のゴムをなにか役に立つものにできないか、と苦心していた。生ゴムというやつは熱すればドロドロに溶け、温度がさがればこんどはカチカチにかたまってしまう。どうにも扱いにくい樹液だ。ある日、グッドイヤーは、化学実験中に手についた硫黄を払いおとし、それがたまたま生ゴムのうえにおちた。そばに、たまたま熱いストーブがあった。硫黄とまじったゴムは異臭を放ったが、よくみると、すっかりことなった形状を呈しはじめた。やわらかく固まって、弾力がある。それを手にとり、さっそく戸外に出た。そとは一面の銀世界。だが、その寒気のなかでもこの硫化したゴムはおなじやわらかさを保ちつづけていた。それまで、いっこうに使い道のなかったゴムが、このときからまったくあらたな実用的生命をもちはじめたのだ。グッドイヤーは、その後、続々とこのゴムを利用した製品をつくりはじめた。そして自動車時代をむかえて、タイヤ材料としてゴムは巨大工業に成長した。かれの名前は、こんにちもなお、タイヤの銘柄としてのこっている。  なお、消しゴムを鉛筆の頭にくっつけるというアイデアは、一八五八年、これもおなじくアメリカのH・リップマンなる人物が特許を申請し、特許料を一〇万ドルで売った。アメリカでは、依然として消しゴムつき鉛筆がひろく用いられているが、どういうわけか、日本ではあまり人気がない。   4月3日 ■欲のない学者■『昆虫記』で有名なファーブルは、一生貧乏であった。生家も貧しかったし、子どものときから、鉄道工事の現場で働いたりレモンを売りに出かけたりして金をかせぐことに毎日を追われた。苦労の甲斐あっていったんはアヴィニヨンの博物館長になったけれども、かれの科学教育についての考え方は教会の反対にあい、博物館長の職を追われてしまった。『昆虫記』はよく売れたが、こんどは教育制度改革で印税も入らなくなった。  その窮状をはじめて知ったのは詩人のミストラルである。ファーブルを救おう、というよびかけにベルグソンやポアンカレ、メーテルリンクなどがこたえた。さらにこの話がつたわると、世界じゅうから現金だの小切手だのが送られてきた。ファーブルは当惑し、それらの金品をいちいち返送した。政府は二〇〇〇フランの年金をおくることにした。年金だけは受けとったが、ファーブルは、心やさしい無欲な学者としてその一生を終えたのである。一九一〇年四月三日は窮乏のファーブルを救う会が催された日。 ■聖徳太子とキリスト■六〇四(推古一二)年四月三日、聖徳太子は一七条憲法を制定し、官吏が守るべきルールをあきらかにするとともに、国家としての日本の存在意味をも明記した。これは日本における最古の成文法であり、このときから日本は新時代に突入した、とかんがえてさしつかえない。じっさい、明治になって、日本が新国家の基本となるべき法律として、英語の Constitution を日本語に訳するにあたって、すぐさま、この「一七条憲法」を想起し、これを「憲法」と訳することに決定した、という事実をみても、いかに聖徳太子が大きな事蹟と影響を日本史のうえにのこしたかがわかる。さらにこんにちの日本でも、一万円札に聖徳太子はちゃんとほほえんでいらっしゃるのである。  太子の事蹟については、すでに多くのことが知られているが、ひとつあまり知られていない歴史上の仮説がある。それは太子についての伝説にキリスト教の影響があったのではないか、という仮説だ。まず第一に、聖徳太子は、その別名をウマヤドの皇子、という。要するに、太子は、ウマヤドでお生まれになった、というのだ。キリストもまた、ウマヤで生まれた、という伝説がある。時代も場所もちがうけれども、偶然の一致としてはあまりにも似すぎている。第二に、キリストの生誕日として祝われるのは、いうまでもなくクリスマスだが、この行事のおこなわれる一二月二五日は、日本ではいみじくも太子講の日。これもできすぎた話ではないか。  もちろん、聖徳太子がキリストの再来である、などというわけではない。しかし、キリストをめぐる伝説が日本に輸入され、聖徳太子伝説と融合した、というのはありうる話だ。というのは、かつてネストリウス派のキリスト教徒たちは、教義上の論争から中近東を離れ、はるばると大陸を横断して中国に達し、「景教」という名で布教活動をつづけていたからである。それがさらに海を渡って日本につたわったとしてもふしぎではなかろう。とにかく、東西ふたりの聖人は、どういうわけかウマヤで出生しているのだ。   4月4日 ■アンパンと山岡鉄舟■一八七五(明治八)年四月四日、明治天皇は水戸徳川家代々の勤王精神にこたえて、水戸家の東京下屋敷にご臨幸になった。このとき、水戸家は天皇の接待用にアンパンを用意した。それというのも、天皇の侍従であった山岡鉄舟が、銀座の木村屋パン店の木村安兵衛と剣道をつうじての知りあいであり、木村屋が発明したアンパンを和魂洋才を具現したものとして高く評価していたからだ。まさしく、アンパンはまんじゅうの伝統と西洋の製パン技術とのみごとな結合なのであった。この日の接待を、明治天皇はいたくよろこばれ、そのとき以来、アンパンを宮中に納入するように直接にお言葉をたまわった。とくにアンパンを愛好されたのは皇后陛下で、木村屋では皇室納入用のアンパンには、中央に穴をあけ、シソをつめた、という。山岡鉄舟は、その晩年に、木村屋の看板に名筆をふるい、この看板は銀座名物となった。   4月5日 ■筏漂流の記録■イギリスの商船ベン・ロモンド号は一九四二年一一月二三日、アゾレス沖でドイツ潜水艦に攻撃され、あっというまに沈没してしまった。乗組員のひとり、副スチュアードのプーン・リムという中国人は、沈没後、船にそなえてあった救命筏が浮遊しているのを発見し、これに乗ってあてどもない漂流をはじめた。大西洋上を流れることじつに一三三日、雨水を飲み、魚を釣って食べ、リムはみごとに生きつづけ、翌年四月五日にブラジル沖で漁船に救助された。四カ月半も漂流していたのに、かれは岸に着くと、しゃんと二本の足で立って歩きはじめた、という。同年七月、かれはイギリス政府から表彰された。 ■最初のロシア抑留■高田屋嘉兵衛(一七六九〈明和六〉年四月五日没)は淡路の人。二二歳のとき樽廻船の水夫となり、やがて庄内で一五〇〇石積の辰悦丸という船を買って船持船頭となった。かれは日本海を往復して蝦夷地(北海道)との交易につとめたが、一七九九年には幕府から命ぜられて、近藤重蔵とともにクナシリ、エトロフの両島を開発して漁場をひらいた。  ところが八二年、嘉兵衛がじぶんの持船、六五〇石積の観世丸に乗ってクナシリ島のケムライ岬を過ぎようとすると、突然ロシアの軍艦があらわれて、有無をいわさず嘉兵衛以下四人はそのままカムチャッカのペトロパヴロフスクに連行されてしまった。その背景には、日本とロシアのあいだの外交上の誤解があり、とりわけその前年に海軍少佐ゴロヴニンが海洋調査のためクナシリに来たところを捕え、松前に抑留した、という事実があったからだ。嘉兵衛を捕えたのは、ロシアがわからすれば、ゴロヴニン事件にたいする報復措置、ということになるのであろう。  嘉兵衛は手まね身ぶりでロシアのリコルド少佐と話しあい、ゴロヴニン釈放のために奔走して、結局、人質交換というようなかたちで日本に送還された。北方領土をめぐっての紛争は、これだけ根が深いのである。そして嘉兵衛はクナシリ、エトロフ漁場でつかまった抑留者第一号なのであった。   4月6日 ■コンビーフの起源■一九世紀なかばのシカゴは大発展期をむかえていた。鉄道はシカゴにむけてあつまり、中西部から西部にかけての広大な牧畜地帯からウシやブタがこの新興都市に送りこまれてきた。一八六〇年、シカゴでは年間四〇万頭の家畜が屠殺処理され、わずか二年後の一八六二年には、その三倍の一三〇万頭ほどが処理された。世界最大の食肉生産を誇るユニオン・ストックヤードが設立されたのは一八六五年である。そのシカゴの食肉生産業者のひとり、J・A・ウィルソンは、牛肉を調理加工したあたらしい食品を発明した。いわゆる罐詰のコンビーフである。骨や軟骨をぜんぶとりのぞき、水分を減らして圧縮してあるので、重量は通常の肉の樽詰の三分の一に減少した。そのまま食べることができるから、兵食として、また手軽な簡易食として、この新食品は急速に普及した。使用にさいして出しやすいように、というので、ウィルソンは、四角い、「ピラミッドの頭を切ったような」新型の罐を開発した。この罐が特許登録されたのは一八七五年四月六日であった。 ■ジッパーの起源■一九一七年四月六日、アメリカはドイツに宣戦布告し、第一次世界大戦に加わることになったが、このときはじめてアメリカ陸軍の制服の一部にジッパーが採用された。もともと、ジッパーの発明は一八九三年、シカゴの技術者によって完成されていたが、その大量生産の契機をつくったのは、このアメリカ陸軍による大量注文であった、といってよい。ジッパーなることばは、一九二六年にこの製品のPRパーティがひらかれたとき、作家のG・フランコーが、「ジップ!」(ぴゅっという音)という擬音語を使って、即興の詩をつくったことにはじまる、という。現在の精密な生産工程によると、ジッパーのかみ合わせの部分の誤差は、毛髪の幅の三分の一、というミクロン単位のものとなっており、日本のジッパー生産は、世界の総生産量の約三割をしめている。   4月7日 ■マリワナの栽培家たち■インドのムガール帝国の皇帝となったジャジャル・ウディン・ムハマッドはハッシシを愛好し、こんにちのデリー近郊に大規模な大麻の農園をつくった。かれの孫にあたるアカバール大王は、それを拡大して、北インド一帯に大麻やケシの大農場を経営した。  イギリスのジェームズ一世は一六一一年、ヴァージニア植民地のジェームスタウンの住民に、大麻と亜麻の栽培を奨励した。八年後の一六一九年、ヴァージニア議会は、すべての住民が大麻を植えることを決議した。これはアメリカ合衆国における大麻に関する最初の立法である。  ジョージ・ワシントンは、外国からの大麻の輪入に対抗し、国産化をはかるべく、マウント・バーノンで大麻の農園をひらいたし、トマス・ジェファソンも大麻栽培をおこなったのみならず、その加工処理機械まで発明している。セオダー・ルーズベルトもまた、いま国防省のあるあたりに、大麻はもとよりのこと、ケシやコカなどの麻薬の「毒草園」をひらき、これらの植物の国産化につとめた。  自動車王のヘンリー・フォード(一九四七年四月七日没)は、「実験用」に大麻の農園をつくり、厳重な柵でその農園をかこった。かれがどんな「実験」をこころみたかは、誰も知らない。フォードの死後、この敷地は破壊されたけれども、その後も、大麻は野生化して生い茂っていた、という。 ■ハエの葬式■きょうは世界保健機構(WHO)の日。WHOは、人類をあらゆる病気からまもるための国際的努力を積みかさねてきているが、さまざまな病源菌をはこぶ動物として、人間から嫌われているハエを愛し、一匹のハエのために盛大な葬儀をいとなんだ人物がいる。その人物とは、あの有名なローマの詩人ヴァージルだ。  ヴァージルは、じぶんの部屋のなかをとびまわっている一匹のハエをペットとして可愛がっていたが、ある日、寿命がつきたとみえ、床におちて死んでしまった。かれはそれを大いに悲しみ、葬式をとりおこなうことにした。式はローマの丘のうえにそそり立つかれの豪華な邸内でおこなわれ、オーケストラが葬送曲をかなでるなかを、ローマの著名人たちがつぎつぎに弔問にやってくる。長時間にわたってハエのための追悼の詩を読みあげる人もいる。ヴァージルは、特製の棺をつくって、おごそかにハエを埋葬したのであった。  どうしてハエの葬式などというバカげたことを思いついたのか。一説によると、ヴァージルは芝居気たっぷりの人物であって、こういう奇抜なことでひとの目をひき、いわばPR材料にしようとしたのだ、ともいうが、じっさいには、どうやら財産保全のためであったらしい。というのは、第二ローマ共和国政府は、金持の土地を没収し、それを兵士たちにすこしずつ分け与える計画を立てていたからだ。ただその計画には例外規定があり、死体の埋葬されている区画は没収の対象にならない、とされていた。たとえ一匹のハエでも、これだけ盛大な葬儀をいとなめば、その墓地をふくむ一画は没収されないですむ。ヴァージルはみずからの所有地を没収の対象からはずすために、ハエを葬ったのである。ちなみに、この葬儀のためにかれが使った金は、こんにちの金額になおすと、二〇〇〇万円ほどであった。   4月8日 ■偽作の名人■ハンガリー生まれのユダヤ人画家E・デ・ホリーは、これまでの絵画の偽作史上、最高の技能を誇った人物である。かれは印象派の画家として世に出ようとしたが失敗し、それ以来、もっぱら高名な画家の作品のニセモノをつくることにのみ熱中した。そのなかには、マチス、モジリアーニ、ゴーギャン、シャガール、ピカソ(一九七三年四月八日没)、セザンヌ、といった、およそあらゆる画風の画家のニセモノがふくまれており、なんと、その作品は合計数千点にのぼる。  しかも、そのニセモノは、ホンモノにくらべてなんの遜色もなかったから、画商も批評家も美術館も完全にだまされてしまった。いまなお、かれの描いたニセモノのうち数百点は世界各地の美術館で展示されており、数千点は個人のコレクションのなかにはいっている、といわれる。ところが一九六七年、かれの絵を売り歩いていたふたりの男が、四四点にのぼる絵をテキサスの石油成金に売ろうとしたとき、ふとしたことからこのインチキが発覚してしまった。デ・ホリーは、スペインのイビザ島にアトリエをもち、そこでこつこつとニセモノづくりにいそしんでいたのだが、この事件で、もはやのがれられない運命にあることを知った。それにくわえて、どうやらフランス警察がかれを逮捕するらしい、というニュースもかれの耳に入ってきた。パリの監獄の寒い独房にいれられているじぶんの姿を想像するだけでかれはまことに沈鬱な気分になり、一九六七年に、島のアトリエで服毒自殺をとげた。享年七〇歳。  しかし、かれがニセモノを描きつづけて手に入れた金は合計しておよそ八〇〇億円。こうなると、ほんとうにすぐれた画家というのがいったい誰であるのか、わけがわからなくなる。 ■オシャカ品の語源■工場などで、不完全な製品ができると、これを「オシャカ」という。とうてい売りものにはならない不良品だから、「オシャカ」をできるだけ出さないようにするのが工業経営の鉄則であり、当世ふうにいうならば、「オシャカ」を最低におさえるための手段として「品質管理」という手法がある。  ところで、不完全品、不良品をなぜ「オシャカ」というか。どうやら、これは金属工業の熔接工たちがつくったことばであるらしく、「火が強かった」ために失敗してしまったということ。「火が強かった」を、ヒとシの区別のつかない江戸ことばでいうと「シガツヨカ」ッタ、つまり「四月八日」となる。要するに他愛もない二段なぞのことばあそび。そういえば、「オシャカ」ということばは機械・電気などで多く使われ、繊維などではあまり使われない。なぜ「四月八日」か「オシャカ」か。きょうは灌仏会。お釈迦さまの誕生日。   4月9日 ■戦死者の歯のゆくえ■南北戦争は、一八六五年四月九日、南軍の司令官リーが北軍に降服したことで終結したが、この戦争での戦死者の死体から歯を抜きとってゆく無気味な人間たちがいた。この連中は、その歯を樽につめてヨーロッパに送りつづけた。というのも、そのころ、入歯の技術が進歩して、ヨーロッパの歯科医たちのあいだで人間の歯の需要が高まっていたからである。元来、入歯の歴史は古く、紀元前七〇〇年ごろ、エトルリアでは金属のブリッジを使った義歯がつくられていたけれども、ヨーロッパの歯科医が入歯の技法を開発したのは一七世紀になってからであった。そして、入歯を必要とする金持は、貧乏な人から歯を買ったのである。つまり、貧乏人は、なにがしかの金とひきかえに、じぶんの歯を技いて提供したのだ。ヨーロッパの宮廷では、いろんな材料で義歯をつくることがファッション化し、銀だの、青貝だの、メノウだので歯をいれる貴族もあらわれた。しかし、なんといっても、いちばんいいのは、人間の歯だ。一九世紀になってやっと、死体の歯を使う、という方法が採用されるようになった。南北戦争のみならず、戦争があると、戦死者の歯を一本のこらず技いて商品化するというグロテスクな商売がさかんになったのである。死人の歯で入歯をする、ということに嫌悪感をもつ人も、もちろんたくさんいた。しかし陶歯がこんにちのように完全なものになる以前には、ずいぶんいろんな材料が実験的に使われていたようである。もっとも悲喜劇的なのは、硬質セルロイドの義歯であって、この入歯をした人物がタバコをくわえ、火をつけたとたん、歯もメラメラと燃えてしまった、という。 ■パーキング・メーターの起源■春の交通安全週間がはじまるが、都会では自動車の駐車場を確保するのがたいへんだ。とりわけ、土一升、金一升、というくらい地価の高い都心部では、時間制限なしに駐車されたのではたまらない。駐車料をきっちりととるためにはどうしたらよろしいか——こういうアイデアを最初に抱いたのは、アメリカはオクラホマ市のC・マギーなる人物。かれは同市の商工会議所の会員であり、本業はジャーナリスト。しかし、アイデアはあっても、これを実現するためにはしかるべき技術者の協力が必要である。  そこにちょうどG・ヘイル教授という技術の専門家があらわれた。ヘイル教授はマギーの着想にいたく感心し、コインをいれるとそれがタイマーに連動して針がうごくパーキング・メーターを完成した。一回ごとに利用者がいれるコインはわずかな金額だけれども、チリもつもれば山となる。それを財政収入のたしにしよう、とかんがえたのは、当然、まず地元のオクラホマ市であった。かくして、一九三五年には、同市の中心部に一五〇台のパーキング・メーターが設置された。それまでは、車をとめることなど、タダというのが通念であったから、市民はこの新発明をひたすらに憎んだ。  だが、この新発明は、つぎつぎに地方自治体の採用するところとなり、駐車料収入が地方財政に貢献するようになったのである。もっとも、パーキング・メーターを敵視する市民の力もつよく、アラバマ州のモービル市にこの機械が設置されたときには、反対派の市民たちが斧をもって、すべてのパーキング・メーターをチョン切ってしまった。   4月10日 ■正倉院の薬草■正倉院には、古代における日本と大陸のあいだの文化交渉を物語るさまざまの品物が収蔵されており、日本における最古の歴史博物館という感が深いが、この収蔵品のなかには、二個の唐櫃《からびつ》に入れられていた漢方薬がある。薬品名からいうと合計六〇種類。そのうち一〇パーセントが動物性の生薬、三〇パーセントが鉱物、そしてのこりの六〇パーセントが植物性の薬だ。正倉院の御物は、ことごとく門外不出がその原則だったけれども、これら漢方の生薬については光明皇后は特例を設け、重病人が出たばあいには、東大寺の僧に願出てこの貴重薬を使ってよろしい、という文書をのこしている。そのため、もともと保存されていた生薬のうち、およそ半分は出庫され、治療に使われた。のこりを天皇の名において封印したのは平安朝以降のことである。もっとも、足利義満や織田信長などの権力者はときどきその職権によって、すこしずつ失敬したらしい。  この正倉院の生薬が一般に知られるようになったのは一九四八(昭和二三)年九月二八日、戦後民主化の一環として、宮内庁から学者グループに調査が委託されて以来のことである。これには薬学者をはじめ、東洋史や細菌学の専門家も加わり、一九五三(昭和二八)年四月一〇日にくわしい報告書が提出された。この報告によると、現存する生薬のうち、もとの収蔵記録にふくまれているものが四〇種、その他が一七種となっており、これまでに何回か入れかえがおこなわれたことがわかる。  ただおどろくべきことは、このように一二〇〇年というながい年月を経た漠方薬のなかに、こんにちなお薬品として有効なものがいくつも存在しているということである。現代の化学薬品にくらべると、その有効期限のいかに長いことか。 ■競馬奇談あれこれ■日本で競馬法が公布されたのは一九二三(大正一二)年四月一〇日だが、こんにちのようなかたちでの競馬場が最初につくられたのは一一七四年のことであった。ロンドンのスミスフィールド競馬場がそれである。  馬と競馬にはいろんな奇談がある。そのいくつかをかいつまんでみると、──  ※一九三一年にオスバルデストンなる人物は二〇頭の馬を乗りついで三二〇キロを八時間三九分で走った。この記録はまだ破られていない。  ※一九一一年、イギリスに登場したテトラッチという競馬用の馬は、あまりにもスピードが速すぎて、みずからの脚さばきをコントロールすることができず、二年間すばらしい成績をあげて引退した。  ※レヴィ・バーリンガムは、騎手としてもっとも長いキャリアを誇った。かれは一九三二年に足の骨を折って引退したが、そのときの年齢は八〇歳。   4月11日 ■ものさしの歴史■一九一二(大正一〇)年四月一一日、日本はメートル法を採用することになった。メートル法の基礎になったのは、一八世紀にフランス・アカデミーの科学者たちが政府の委託によって定めた体系的な計量法である。そして一八七五年に、メートル条約というのがむすばれ、国際的な単位として普及がはかられてきた。日本は、つとに明治一八年にこの条約に加入している。この日に公布されたメートル法も、べつだん強制力をもっておらず、これが完全実施に移されたのは一九五九年のことであった。  たしかに、国際的な交渉がひろがるにつれて、計量単位は統一されていることがのぞましい。いちいち換算していたのでは手間ばかりかかってやりきれない。しかし、それぞれの文化は、むかしから独自のしかたで計量単位を決めてきたのだし、そのなかには、実用上、きわめて合理的な方法もすくなからずふくまれていた。そういう伝統の力を無視することはできない。たとえば、現在の日本で、かつて一坪と呼んでいた土地面積の単位がもはや公的には使用できなくなったため、三・三平方メートルという表示が使われている、などというのがそのいい例だ。  ものさしの歴史は非常にふるい。最古のものはインドでつくられたといわれ、その年代は紀元前三〇〇〇年。エジプトでは、それから一〇〇〇年ほどおくれて腕尺(キュビット)がつくられている。日本では中国の影響をうけながら、七〇二(大宝二)年に「始めて度・量を天下諸国に頒《わか》つ」という記述があり、また大宝律令では、大尺、小尺というふたつの単位が規定されている。前者は土地測量専用、後者は一般の計測用であって、定めによると、各地方では年に一回、ものさしの検定をおこなわなければならない、ということになっている。  近代の西洋で、ものさしがあらわれるのは比較的あたらしく、一六八三年にイギリスのモクソンなる人物が『手細工の手引』という本のなかで、ものさしを紹介している。モクソンは地理学者だが、この本のなかでものさしのモデルをしめし、インチを単位とした二フィートの長さのものさしをつくるように指示している。これはもっぱら大工などが使った。ところが、石工のほうはリュールというものさしを使っていたから、いったい、大工と石工がどうなふうにして共同作業をおこなうことができたか見当もつかない。  ヤード、ポンド法でやってきたアングロサクソン民族も、アメリカとイギリスでは計量のしかたがちがう。おなじ一ガロンでも英ガロンと米ガロンの二種類があり、なかなかそれぞれの伝統を捨てることができない。メートル法の採用は多くの国で決定されているが、こうした伝統的計量法とこれからどんなふうに妥協し、あるいは共存してゆくことができるのであろうか。計量の全世界的統一ができるとしても、それまでにはまだだいぶ時間がかかりそうなのである。   4月12日 ■ノーベル賞はいかにして生まれたか■ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルは、いささか気まぐれなところのある人物だった。一八八八年四月一二日に、かれの兄のルードウィッヒ・ノーベルが心臓麻痺で死んだ。ところが、なにをカンちがいしたか、フランスのある新聞がルードウィッヒとアルフレッドとをとりちがえ、アルフレッドへの弔辞を掲載してしまった。弔辞だから、ていねいではあったが、ダイナマイトの発明で一躍大金持になったアルフレッドのことを、この新聞は「死の商人」ということばで報道した。  じぶんの死亡通知を読んだノーベルは、まずびっくり仰天したが、同時にじぶんが「死の商人」と表現されているのを読んで考えこんでしまった。このフランスの新聞は、かれの人類にたいする愛情だの、人間性だのについてはいっさい触れていない。なるほど、じぶんは、そういう目で世間から見られているのか、という反省がかれの心のなかを去来したのである。そこでかれは、こんにちのことばでいえば、みずからについての「イメージ・チェンジ」をしなければ、と痛感した。かれがその遺言のなかで「ノーベル賞」を設置することにしたについては、いくつかの理由があったが、そのうち最大の理由は、新聞のカンちがいと「死の商人」という、かんばしからざることばをその紙面で読んだことである。 ■大学教授の資格■一八七七(明治一〇)年のきょう、東京の開成・医学二校をあわせて東京大学が誕生した。大学で教える先生たちはいうまでもなく大学教授と呼ばれるが、しからば大学教授になるためにはどんな資格が必要なのであろうか。 「大学設置基準」によると、いくつかの資格の基準があるが、そのひとつに「助教授の経歴があり、教育研究上の業績がある者」とある。そこでこんどは助教授の資格の項をみると、「大学において三年以上の経歴」があればよろしく、助手は「学士の称号を有する者」または「それに準ずる能力がある」とみとめられる人間なら誰でもなれる。要するに、大学の先生になるためには、まず大学を卒業していればそれにこしたことはないが、それに「準ずる能力」がありさえすれば、助手をふり出しにして、教授になることができるのだ。保育園の保母さんから高校の先生までは、教職員免状をもっていることが必要条件であり、その免状をもらうためには各種の試験をパスしなければならないのだが、大学教授になるためにはいっさいの資格試験がない。大学の先生に変人・奇人の多いゆえんである。   4月13日 ■日本最初のコーヒー店■コーヒー店の元祖ともいわれる「可否茶館」が上野西黒門町に開店した。主人は長崎唐通詞の名家鄭家の嫡流、鄭永慶。彼がコーヒー店を開業したのは単に営利を目的としたのではなく、アメリカ遊学中にニュー・ヨークでじっさいに見、またうわさに聞いたオールド・ロンドンのペニー大学のような上品な憩いの場をつくろうとしたのである。五間に八間の二階建て青ペンキの洋館のこの店は、入るとすぐ玉突場があり、二階が喫茶店になっていて、洋酒もビールもあり日本酒も注文すれば出てくる、というバラエティに富んだ店であった。店内ではトランプ、クリケット、碁、将棋もでき、内外の雑誌もそろえてあるという、いたれりつくせりのサービスではあったが、一銭五厘でソバが二杯食べられた時代にコーヒー一杯一銭五厘は割高であったため、文士の応援にもかかわらず、この店は五年で閉店してしまった。  明治二一年四月一三日付の読売新聞には、可否茶館の開業案内が次のように出ている。『可否茶館開業報条 遠からんものは鉄道馬車に乗ッて来たまへ、近くば鳥渡寄ッて一杯を喫したまへ、抑も下谷西黒門町弐番地へ新築せし可否茶館と云ッパ、広く欧米の華麗に我国の優美を加減し此処に商ふ珈琲なり、珈琲の美味なる思はず腮を置き忘れん事疑なし、館中別に文房、更衣室、或は内外の遊戯場を備へ、マッタ内外の新聞雑誌縦覧勝手次第にて其価の廉なる只よりも安し、(中略)来る一四、一五、一六の三日開業(雨天順延)美景呈進、定価カヒー一碗壱銭半、同牛乳入金弐銭』 ■昭和通りの建設■関東大震災で東京が潰滅したことは、悲惨なことにはちがいなかったが、江戸の無秩序な町組みや道路が一挙になくなってしまったわけだから、それは都市改造のための絶好のチャンスでもあった。かつて東京市長をつとめ、第二次山本権兵衛内閣の内相兼帝都復興院総裁となった後藤新平は、欧米諸都市に倣って東京を全面的に再開発することを計画した。長期的にみて、すでにモータリゼーションの兆もみえていたから、後藤は幅のひろい道路を市街地のなかに縦横に張りめぐらすことをかんがえた。とくに震災の経験に照らして、こうした道路整備こそが防災上不可欠なことだ、という信念もあった。  しかし、この雄大な構想は、結局のところ実現しなかった。さまざまな理由によって、反対の声だけが高く、後藤の再開発計画のなかでどうやら完全に生かされたのは、銀座通りの東がわにあらたに建設された幅員三〇メートルの大通りだけ。その道路さえもが当時は無用の長物と嘲笑された。この道路は「昭和通り」と名づけられた。はたしてこれが無用の長物であったかどうかは、いまの東京の交通状況をみればすぐにわかるだろう。後藤はやがて引退し、一九二九(昭和四)年四月一三日に没した。   4月14日 ■最初の大西洋横断飛行■飛行機による大西洋横断、というと、たいていの人が連想するのはリンドバーグの『翼よあれがパリの灯だ』であろう。たしかに、かれはニュー・ヨークからパリまでの飛行に成功した。しかし、かれの飛行(一九二七年)に先立って、J・オルコックとA・ブラウンのふたりが最初の大西洋横断無着陸飛行に成功している。  かれらは、一九一九年四月一四日にカナダのニュー・ファンドランドを飛び立ち、翌一五日にアイルランドのクリフデンに到着した。なにしろ、はじめての冒険飛行だから、かれらは周到な準備をととのえ、それにくわえて、縫いぐるみの黒猫をふたつ、マスコットとして操縦席にのせた。はたして、このマスコットがかれらを守ってくれたのか、それとも逆にかれらに苦難をあたえたのかはわからない。というのは、離陸後まもなく、排気パイプが過熱して焼け切れるという事故が起きたからだ。それはたいしたことではなかったが、やかてかれらの飛行機は深い霧につつまれて、方向を見失った。方向を定めようとして下降したら、危うく海面に突っこみそうになった。海面までわずか四〇メートルというところで、あわてて機首をひきおこし、辛うじて再上昇に成功したけれども、こんどは寒気団のなかに入ってしまった。翼がすっかり凍結してフラップがうごかなくなったので、ブラウンは飛行中に翼によじのぼり、ケーブルの調整をするという放れわざを演じなければならなかった。だが、それにもかかわらず、かれらの飛行機は無事にアイルランドに到着したのである。  その後、オルコックは、公衆のまえで模範飛行の実演中に墜落して死んでしまった。ブラウンは、二度と操縦桿をにぎることなく余生を送ったが、かれの息子はパイロットとして第二次大戦に参加して、戦死している。 ■春慶塗の起源■きょうは飛騨高山の山王祭。高山は、まわりを山でかこまれた盆地であって、文化的に隔絶している。だからこそ、一五八六(天正一四)年に金森長近が高山城を築いたときから、文化開発に力がそそがれた。とりわけ、文化の先進地域である京都へのあこがれは強く、街の中心を流れる宮川を京都の鴨川に見立て、いわゆる「小京都」を意識的に設計した。山王祭に出る山車は飛騨の匠《たくみ》として知られる木工技術者がつくったが、これも京都祇園祭の鉾に見立てたもの。  高山は手工芸品の開発にも力をいれた。その代表が春慶塗である。もともと一四世紀に泉州堺の漆工春慶がくふうしたものといわれるが、金森家の三代城主重近はこの技術を導入して、飛騨春慶の名で知られるアメ色の漆器を、この山深い町で発展育成させたのであった。そのことによって「小京都」は、ますますその声価を高めることになる。   4月15日 ■キャッシュ・レジスターのはじまり■アメリカはオハイオ州、デイトンにJ・リッティなる人物がいた。かれはレストランを経営していたのだが、店の売上げを管理するのにたいへんな苦労をしていた。それというのも、お客はその飲食代金を支払うのだが、はい、ありがとうございました、と現金をうけとったとたんに、しばしばレジ係はその一部をじぶんのポケットにいれてしまうからだ。いったい、誰がなにをどれだけ食べて、いくらの収入があったのか、見当がつかないのである。ドンブリ勘定もいいところだ。いったい、レジ係をどう管理したらいいのか。  そんなことをかんがえながら、リッティは一八七八年の夏に、気晴らしのヨーロッパ旅行に出かけた。大西洋をわたる客船のうえで、つれづれなるままに、かれは船の機関室を見学してみた。機関室は、熱く、騒音もひどかったが、そこでかれは船のスクリューの回転数を表示する計器を見て、一種のひらめきが頭をかすめるのをおぼえた。この計器とおなじような構造で売上管理の機械がつくれないものか——船上でリッティは図面をひきはじめた。そして、ヨーロッパに着くと、休暇旅行の全日程をとりやめて、いそいでアメリカに帰国し、歯車やレバーをつなげて、領収金額を記録する機械を完成したのである。この機械をかれは「腐敗することなき出納係」と名づけた。何ドル何セント、ときっちり数字を表示するこの新発明品は、あきらかにキャッシュ・レジスターの第一号だったのである。  かれはこの試作機をさっそくみずからのレストランに設置するとともに、それに改良を加えて一般に市販しはじめた。だが、その利点に気がつく小売業者はすくなく、リッティはこの機械の製造販売権を第三者にゆずりわたした。キャッシュ・レジスターがブームをひきおこしたのは、二〇世紀にはいってからである。きょうから科学技術週間がはじまる。 ■ダ・ヴィンチのヘリコプター■子どものおもちゃが大きな発明のヒントになった例はいくつもあるが、ヘリコプターなどもそのひとつだ。その原型はおなじみの竹とんぼ。両手の掌で軸をまわすと、上部についた二枚の羽根が浮力をつけて竹とんぼは空に舞い上る。子どもたちは、かなりむかしからこのあそびを発見していたらしいが、それに着目して、動力を積みこんだ竹トンボはできないものか、と最初にかんがえたのはレオナルド・ダ・ヴィンチ(一四五二年四月一五日生)である。かれは動力源をゼンマイにもとめ、四枚羽根のスクリュー型プロペラをとりつけて実験してみた。それが成功したかどうかは残念ながら知られていない。  竹とんぼは、その後、さまざまな改良を加えられ、やがて内燃機関の使用がさかんになるにつれて、人間をのせる竹とんぼ、すなわちヘリコプター、というアイデアが生まれてくる。最初にヘリコプターが飛んだのは一九〇七年。二軸ローターを使ったポール・コルニュのかわいらしいヘリが、この年の一一月にはじめて独力で地上からふわりと浮いたのであった。   4月16日 ■麻薬あれこれ■マリワナを最初に発見したのはW・オシャウネシイなるイギリスの医師で、かれは一八三九年にインドで大麻のもたらす幻覚作用を知った。その研究をすすめるにあたって、かれは現地の下層階級の人びとを人体実験に使った。その記録にいわく、「リューマチ患者の老クーリーにアルコールにまぜた大麻を服用させたところ、三時間後に、きわめて饒舌になり、かつ音楽的になった。かれはいくつもの物語を話しはじめ、歌をうたい、二人前の食事をたいらげ、あとはやすらかに眠りはじめた」  もっともマリワナという銘柄はメリ&ジョーンズという英訳名(この説によると、マリワナはスペイン語だという)で、かなりまえからアメリカの南部や中西部で栽培されていた、という説もある。  幻覚剤のなかでもっともあたらしいもののひとつは、LSDと呼ばれる化学物質だ。これはスイスの化学者A・ホフマンがバーゼルの研究室で開発したものであって、五年間にわたる実験ののち、一九四三年四月一六日にホフマンじしんが服用した。その日のかれの日記にはこうしるされている。 「午後になって、どうにもしごとをする気がなくなったので自宅に戻った。一種の焦燥感と倦怠感がわたしを襲い、想像力だけが鋭くはたらきはじめた。目をつぶり、昏睡状態になったわたしの頭のなかには、すばらしい柔軟性をもった幻想的なイメージがつぎからつぎへと湧きあがり、万華鏡のごとくに色彩がめまぐるしくうごきはじめた」 ■チャップリンと天ぷら■喜劇王チャーリー・チャップリン(一八八九年四月一六日生)は、その来日中、ことのほか天ぷらを愛好し、毎日のように有楽町の某店におもむき、天ぷらを食べつづけていた。とくにかれが好んだのはエビであって、一晩に数ダースのエビの天ぷらを平らげた、という記録が残っている。  ところが、この天ぷらという調理法は、よく知られているようにスペインあるいはポルトガルから渡来した南蛮文化のひとつだが、その語源についてはすくなくとも三説ある。その第一は、スペイン語のが Tempora すなわちキリスト昇天の金曜日からきた、という説。つまり金曜日には肉食を避け、もっぱら魚料理を食べた。天ぷらというのは、そのテンポラと魚のフライとのあいだの連想作用から生まれた和製スペイン語だ、というのである。  第二説は、一八世紀のおわり、大阪商人の利助なる者が芸者と駆落ちして江戸にたどりつき、揚げ魚を売りはじめようとして山東京伝を訪ね相談したところ、あんたは天竺浪人で西国からぶらりとおいでになった、されば、それを略してこの料理を「天ぷら」と名づけてはいかがか、と助言したのが語源だ、とする説。  第三説は『嬉遊笑覧』に出ているもので、「天扶羅揚」という万葉仮名で「あぶらあげ」と呼んでいたのがいつしか漢音で「天ぷら」と発音するようになった、という説である。これら三説、いずれももっともらしくきこえるが、同時にいずれもアテにならぬ。ただ「テンプラ」が海外にひろく紹介されるにあたって、チャップリンの功績は大きかった。   4月17日 ■避雷針論争■雷の問題が最初に科学の問題としてとりあげられたのは一七四九年のことであった。この年、フランスのボルドーのアカデミーは「電気と雷との間に類似性があるか」という懸賞課題を出して科学者たちに問うた。ディジョンの医師バルバレットは雷が電気現象のひとつであることを証明して懸賞金を手にいれたが、実験はしていない。  アメリカでは、よく知られているように、ベンジャミン・フランクリン(一七九〇年四月一七日没)が友人たちとともにタコをあげて、雷が電気現象であることを証明した。一七五二年のことである。しかし、かれの主要な関心は、雷によって帯電させることであった。タコによる実験に先立って、フランクリンは丘の上に鉄の棒を立て、それが落雷によって帯電することをすでに知っていた。  だが、ここから一歩すすめて、かれは避雷針というアイデアにたどりつく。空中の放電現象である雷が大地にむけて放電すると、いうまでもなく地上に被害をあたえる。落雷によって死亡する人の数はわずかにはちがいないけれども、毎年かならず何人かは落雷で命をおとす。そこでフランクリンは「いかにして雷から家を救うか」という論文を書き、避雷針の実用的効用をあきらかにした。  しかし、これには思わぬところから反対の火の手があがった。神学者や牧師は、雷は神の怒りなのだからそれを人工的に操作するなどというのはもってのほか、と論じたし、半可通の科学知識をもった人びとは、避雷針は強力な電気を地上に導くから、かならずや大地震をひきおこすだろう、と叫んだ。やがてこの発明がヨーロッパに伝わると、フランス人も反対した。そうした発明品によって天罰があたるにちがいない、というわけだ。ただロベスピエールが、避雷針の正当性を弁護したことは、ここにつけくわえておいてよい。  そうした賛否両論のなかで、避雷針は科学者たちの認めるところとなり、一七五三年、イギリスの学士院はフランクリンにコプリー・メダルを贈り、またこれが契機になって、フランクリンは技術奨励協会の会員に推挙されている。  そうしたフランクリンの名声をきいて、じぶんのほうがさきに発明した、と言い出した人物がいる。それはチェコのプロコピウス・デービス神父。かれは一七五四年にモラビアで避雷針を立てたが、その設計は一七五二年にすでに完成していた、と主張したのである。ちょうどそれはフランクリンがタコをあげた年にあたるわけだから、もしもそれが事実なら、避雷針の着想は、わずかの差でデービス神父のほうがフランクリンよりはやい、ということになる。だから、チェコの科学アカデミーはこの神父に賞をあたえることをいったんはかんがえたらしいが、どうも不確かなので、取リやめにしたようである。 ■肉食禁止令■六七六(天武五)年四月一七日に、鳥獣の肉を食べることが禁止された。その理由は、もちろん、仏教の教えにそむくから。したがって、正確にいうと、この日から明治初年の解禁までおよそ一二世紀にわたって日本人は肉食ばなれしていた、ということになるけれども、タテマエはあくまでタテマエであって、じっさいには、イノシシだのウサギだの、ときにはタヌキだのが食用に供されていた。日本人は、それほど仏典や国法に忠実な民族ではなく、結構、肉食をたのしんでいたのだ。   4月18日 ■いたずら電話あれこれ■ポール・リビアといえば、ボストンではじまったアメリカ独立戦争の英雄である。このリビアと血縁があったかどうかは不明だが、まったく同姓同名のポール・リビアなる人物が一九三〇年代にボストンにいた。そして、かつてイギリス軍がやってきた四月一八日になると、このリビア氏の自宅には深夜「イギリス軍が来たぞ」とか「早く起きろ、間に合わんぞ」とかいったいたずら電話が毎年かかってくるのであった。これが年中行事になってしまったものだから、リビア氏は、この日になると電話をとりはずすのであった。  手のこんだいたずら電話としては、舞台の上で小道具として使われる電話に仕掛けをする、という悪質なものがある。ふつう、舞台上の電話はただベルが鳴るだけで、俳優はしかるべくセリフをしゃべるだけなのだが、舞台裏のスタッフが、よその回線とつないでベルを鳴らす。思いもかけないことばが受話機からきこえてくるものだから、俳優はあわてて立往生してしまう、というわけ。  フレッド・ホーソンなる人物は、ある日友人たちに電話をし、みずから電話会社の技師であると名乗ったうえで、「きょうは電話線の掃除をします。空気を吹きこんで掃除をしますから、電話機からゴミや油が飛びちるかもしれません。しっかりと紙袋などで包んでおいてください」とまじめな声でつたえた。その効果を調査すべく、かれはその友人たちの家を訪ねたが、どこの家でも例外なく電話機には袋がかぶせられ、家中の人たちが、いつゴミがとび出してくるかと見守っていたのであった。 ■トーキーの波紋■一九二六年、アメリカのワーナー社は、それまであった映画の伝統を打ち破り、音声のはいった映画、すなわちトーキーの製作に成功した。それはそれでよいのだが、これで被害をうけたのは無声映画時代に活躍した、映画館の楽士や弁士たち。はやくも一九二九(昭和四)年には、邦楽座や武蔵野館では楽士不要、というので全員が解雇を申し渡された。  画面を見ながら、日本語で説明していた弁士たちもその職場はせばめられるいっぽうである。当時、東京には三〇〇〇人の弁士がいたが、このままでゆくと完全失業者になってしまう、というので、一九三二(昭和七)年四月一八日から全面的ストライキに突入した。外国映画のトーキーのばあいには、セリフはぜんぶ外国語である。いくらトーキーでも、一種の通訳としての弁士がいなければ困るだろう、というわけ。しかし、すでに字幕方式が技術的に成功していたから、このストライキは、実質的な効果をあげることはできなかった。   4月19日 ■アヘンの話■一八六八(慶応四)年四月一九日、日本でのアヘン喫煙が禁じられた。アヘンは、ケシの実に傷をつけ、そこから分泌する乳液を乾かしたもの。そして、この麻薬は紀元前後からすでにギリシャ人のあいだでは麻酔剤として使用されていたらしい。じっさい、アヘンのことを英語ではオピアムというが、その語源はギリシャ語のオポスであり、オポスとは、汁または液を意味していた。  この植物を文献のうえで最初にあきらかにしたのはアラブの博物学者イブン・バイタールである。かれは「アルフューン」という物質はエジプトの一部にのみ産するものと記述しているが、どうやら中近東にもケシの栽培はひろがっていたようである。この「アルフューン」は西洋人の東洋への来航にともなってまず中国にもたらされ、明の時代に李時珍が編纂した『本草綱目』に「阿芙蓉」という名前ではじめて登場する。一七世紀はじめのことだ。音読みにしてみればすぐわかるが、阿芙蓉はアラビア語に漢字をあてはめたものである。  アヘンは、もっぱら薬用物であった。とくに鎮痛剤として、西洋でも東洋でも珍重されていたのだが、マラリアに効力がある、ということから、台湾でこれをタバコにまぜて吸う習慣がはじまった。そしてこの習慣は福建省を経て、ひろく中国全土におよぶことになったのである,これが新種の嗜好品にとどまっているかぎりはよかったが、だんだんと、アヘンの中毒症状がおこり、いったん常用しはじめると肉体的、精神的に人間が廃人同様になってしまう、ということもわかってきた。中国では一七二〇年代に、すでにこの危険性が発見され、アヘン喫煙の禁止令が出されている。  しかし、それにもかかわらず、アヘンを吸う習慣はけっしてやまなかった。禁令がきびしくなればなるほど、かくれて吸う人びともふえたし、いちどこの麻薬のとりこになった人間は、それがもたらしてくれる快感を忘れることができない。いちばんひどい時期には中国全人口の一〇パーセントがアヘンを吸うようになっていたともいう。皇帝も吸ったし、富家はぜいたくな喫煙室をつくる。貧民はアヘン窟に足をはこぶ。こうなると、禁令などあってなきも同然だ。  ところが、一九世紀のはじめになると、イギリスは中国との貿易収支に困るようになっていた。中国からイギリスに向けては、茶や絹がどんどん輸出されるが、中国がイギリスから買いたいものは何もない。絹と茶の見返りになるのは銀だけ。そしてその銀も底をついてしまった。そこでイギリス商人が思いついたのがアヘンである。かれらはインドのベンガル地方でケシを栽培し、そこでとれるアヘンを中国に輸出しはじめたのだ。それに怒った中国がイギリス商人のもっていたアヘンを没収して焼き捨て、密輸業者を処刑したところからはじまったのが、いうまでもなくアヘン戦争(一八四〇—四二)である。日本は中国の前例を目のあたりにみていたから、事前にアヘンの害を警戒することができた。しかし、明治維新前後には密輸入もあったにちがいない。禁令が新政府誕生とともに公布されたゆえんである。   4月20日 ■ミスターの呼称■北米大陸に、英国王の特許をえて、ヴァージニアにふたつの植民会社、つまりロンドン会社とプリマス会社ができたのは一六〇六年四月二〇日のことであった。有名な「メーフラワー号」が新大陸に着いたのは、これより一四年後の一六二〇年だったが、この当時の英語の語法では、姓名の前に「ミスター」を冠するのは、牧師、医師、弁護士、富裕な商人など、要するに社会の上層階級の人びとにかぎられており、それらの人びとの夫人だけが「ミセス」と呼ばれた。身分の低い人間たちは、「グッドマン」(goodman)(妻は「グッドワイフ」(goodwife)というのか)という呼称で呼ばれた。そして「メーフラワー号」でアメリカに着いた植民者たちのうち、「ミスター」または「ミセス」の呼称をうけていたのは、わずか一二人にすぎなかった。 ■鉄条網の歴史■一八九八年四月二〇日、アメリカ大統領マッキンレーは、スペインにたいして宣戦を布告した。例の米西戦争のはじまりである。このとき、前線にいたセオダー・ルーズベルトの義勇騎兵隊は、有刺鉄線、つまり、鉄条網を野営地の周囲に張りめぐらし、防御用に使用した。イギリスでは、これより一〇年はやく、有刺鉄線の軍用化に着目し、一八八八年には、すでにこれを陸軍のマニュアルに加えている。  しかし、そもそも、鉄条網の発明は、一八六七年に、ルシアン・スミスなるアメリカ人の手によっておこなわれた。そのアイデアは、アメリカ西部の大草原地帯で、牧場の境界線をつくり、かつ、牛をそこから出さないようにする、というのがその目的であった。スミスは、この特許申請を出したが、その量産には成功しなかった。  量産をはじめたのは、ヘンリー・ローズであったが、一八七三年に、これを見たニュー・ハンプシャー州の牧場主ジョセフ・クリドンは、有刺鉄線のトゲの部分をねじ切る機械を発明し、ここからアメリカ西部における鉄条網史がはじまるのである。もちろん、牧場主たちは、じぶんの牧場の境界をこの新発明品によって区切ったし、同時に、西部の開拓者たちは、処女地に鍬をいれて、それぞれに思いどおりの所有地を設定し、それを鉄条網でかこった。いわば、鉄条網は、文字どおり、西部における土地のナワ張りのための手段だったのである。もっとも、こうしたナワ張りのゆえに、西部のならず者があばれまわり、有刺鉄線をめぐって、ピストルの撃ち合いもおこなわれたのである。  二〇世紀にはいると、第一次世界大戦は、鉄条網戦争であった。ヨーロッパ戦線ではスイスからドーバー海峡にいたる数千キロにわたって鉄条網が張りめぐらされ、それを突破することが、両軍にとっての重要な戦術となった。   4月21日 ■宝くじの原型■何人かの人が金を出しあい、まとまった金額をつくっておいてからそれをひとりが手にいれる、という方法が定期的におこなわれるのは、いうまでもなく無尽、ないし頼母子《たのもし》講と呼ばれる制度だが、これはやがて展開して一回かぎりの賭博的要素のつよい「くじ」になってゆく。それは「千人会」「万人講」「突富」などさまざまな呼びかたがあるが、一般には「富くじ」という名称で知られている。その起源は室町時代にまでさかのぼることができるともいうけれども、史料的には一六三五(寛永一二)年の富くじの記録がのこっているのがそのはじまりだ。  しかし、このような賭博性のある行事を幕府は好まなかった。したがって、禁令がつぎつぎに出され、富くじは非合法化された。とはいうものの、民衆は古今東西を問わず賭博が好きである。そこで、寺社はその特権を利用して、しばしば「御免富」というのを実施した。文字どおり、幕府認可の合法的な富くじである。いったんこの許可がおりると、寺社が勧進元になって富くじを発行したのだ。そして、幕府も、寺社からの出願にたいしては寛容であった。いや、寛容であらざるをえなかった。というのは、慶長以来、幕府は宮門跡だの、徳川家とつながりの深い寺社の修復については、それを全額負担するか、あるいはかなりの補助金を支給するのが慣例であったのだが、財政難におちいると、とてもそうした経費は出しにくい。だから、修復費用を調達するため、という理由で寺社から富くじの出願があると、これを許可せざるをえなかったのだ,  そういう「御免富」の第一号は一七三〇(享保一五)年四月一二日、京都の御室仁和寺門跡にあたえられている。いったん前例ができると、この御免符の妙味を狙って、つぎつぎにいくつもの寺社が出願し、幕府は窮地に追いこまれたのであった。こんにちの「宝くじ」はこんな歴史的背景のもとにうまれた。 ■洪水と選挙■一九二七年四月、ミシシッピー渓谷には集中豪雨が降りつづき、これが中西部一帯に大洪水をひきおこした。水没した農地は合計一八〇〇万エーカー。六七万人が家を失い、三一三人が死んだ。被害総額は当時の金で三億ドル。浸水した家屋は七〇万戸。ミシシッピー河は、合計四四カ所であふれ出したから、被害は全流域におよんだ。  この緊急事態に、商務長官のH・フーバーはすばやく救済政策をとり、その功績が国民にみとめられて、やがて大統領選挙で勝利をおさめたのであった。皮肉なことに、フーバーは、じつは地域主義者、分権論者であって、ほんらいのかれの哲学からすると、ミシシッピーの洪水に連邦政府が援助するなどというのは、よろしくないことであったはずなのだが、緊急事態だったからやむをえない一種の怪我の功名であろう。ちょうどこれに先立つこと一七年、ミシシッピーを愛してやまなかったマーク・トゥエインがこの季節(一九一〇年四月二一日)に死んでいる。   4月22日 ■点字のはじまり■目の不自由な人は、当然のことながら、書物を読むことができない。だが視覚のかわりに触覚を使い、指で記号にふれながら文字を読むことはできないだろうか——そんなふうにかんがえたのはフランス人のJ・ブライユであった。かれみずから、目が不自由であったため、この願望と着想はきわめて切実であった。ブライユは点字のシステムを考案して一八二九年に公表したが人びとは関心をしめさず、やっとこれが採用されたのは一八五四年のことである。残念なことに、ブライユはこの二年まえにもう死んでいた。  日本では、ブライユ式の点字に改良を加え、東京盲学校の教師であった石川倉次が五〇音式の点字を一八九〇(明治二三)年四月二二日に完成、一九二五年には「衆議院議員選拳法」のなかで点字による投票がみとめられたので、このときから点字の社会的、法的な価値が定着した。 ■うそ発見器の歴史■人間というのは、うそをつく動物である。うそも方便、という無害のうそもあるけれども、たとえば、ひとつの犯罪事実について容疑者が真実をのべるか、それともうそをつくかは、罪の判定にあたって決定的な意味をもつ。そこで、古代から、人類はどうやってうそを見破るかについて、さまざまなくふうをこらした。中国では、容疑者に米の粉を噛ませ、それを吐き出させて、もしそれが乾燥していたら有罪としたし、イギリスでは、パンとチーズの一片を容疑者にあたえて、それを呑みこむことができなかったら有罪とみとめた。それは一見、根拠のないことのようにみえるけれども、生理的なストレスがあると口がかわいてしまうものだから、かなり粗雑ではあるけれど、こうした方法にも多少の真理はあった。  近代の犯罪科学は、たとえばイタリアのロンブローゾによって代表されるように、脈搏や血圧でうそを発見する方法を開発したし、アメリカの犯罪学者ラーソンは、いくつもの身体的反応の組みあわせによるポリグラフをつくった。これらのうそ発見器は、日本では江戸川乱歩の『心理試験』のなかに引用されている。  さてラーソンのうそ発見器を原型として、その後、多くの改良が加えられ、そのデータはしばしば、法廷での立証資料としても使用されるようになった。日本で警視庁がこの器械を利用することを決定したのは一九四六(昭和二一)年のことであって、アメリカから輸入したうそ発見器は翌四七年四月二二日にその初テストがおこなわれた。これはストレスによる発汗作用を測定する方法であって、野老山鑑識課長が、婦人警官をモデルにして、じきじきにテストをくりかえした。しかし、その結果は、かならずしも満足なものとはいえず、その後、研究と改良をすすめ、じっさいに捜査上にこれを利用するようになったのは、輸入後七年目の一九五三年一二月からのことであった。   4月23日 ■ヒットラーの自動車■ヒットラーは、特製のメルセデス・ベンツ二台を持っていた。外装は八ミリの厚さの鉄板、防弾ガラスはなんと三センチの厚さ。ヒットラーはその防弾効果をためすため、みずから外がわからピストルを撃ちこんでみたが、表面に傷がついたにすぎなかった。そんなわけで、この特製ベンツは重量四・五トンにおよんだ。この二台のうち一台は、ヒットラーからフィンランドのマンネルハイム元帥に贈られたが、元帥は中立国のスウェーデンにその保管を委託し、スウェーデンは車輛税不払いを理由に競売に出してしまった。これを落札したのはシカゴの実業家C・ヤヌスなる人物。かれはこの車をニュー・ヨークはじめアメリカ各地で展示し、合計一〇万ドルの見物料を稼ぎ、それを慈善事業に寄附した。  もう一台のヒットラーのベンツは、一九四五年、アメリカ軍が無傷のまま没取し、これもアメリカにはこばれた。この特製ベンツが二台ともアメリカにあることを知ったアリゾナの不動産業者T・ベネットは、一九六六年に二台そろえて買取に成功し、かれの自動車コレクションに加えたが、数年後に売りに出した。その競売では、一台一五万ドルというべらぼうな値がつき、クラシック・カーの価格としては史上最高の記録をのこした。  結局のところ、一台は、ペンシルバニアのE・クラーク、もう一台はD・ティドウィルなる人物の手に入った。クラークはその後、このベンツをセントルイスのR・パスに売り、パスはさらに、これをA・ファスコナなる人物に売った。要するに、ヒットラーの特製ベンツは二台とも、アメリカ合衆国にいまなお健在なのである。ベルリン陥落は一九四五年四月二三日であった。 ■ゴーギャンと株■ポール・ゴーギャンはタヒチを愛し、タヒチに死んだ芸術家だが、もともと画家になろうなどというつもりは毛頭なかったようである。  かれの育った家庭はあまり幸福でなく、母と姉の三人暮らし。一七歳のとき、ふと海にあこがれて船乗りになり、とび出してしまった。フランスに帰ってきたのは六年めの一八七一年四月二三日。すでに母は亡く、姉は結婚していた。いよいよ、ここでひとりで生きてゆかなければならない。かれは人を介してパリの株式仲買人となった。家庭も持った。ところが、株屋仲間に絵の好きな連中がいた。そこではじめてゴーギャンは絵に興味をもつようになったのである。幸か不幸か、ピサロ、ドガ、ルノアール、といった画家たちとも知りあいになってしまったから、もう株式相場より絵のほうがおもしろくてしかたがない。画家ゴーギャンはかくのごとくにして誕生し、かれは妻子を捨てて旅に出てしまったのである。   4月24日 ■最初の戦車戦■戦車の歴史は古く、シムスの考案した装甲車がイギリスで開発されたのがそのはじまりである。しかし、実用的な戦車が、じっさいに戦場にあらわれたのは第一次世界大戦のときであった。まず一九一六年にフランス戦線にイギリス製の戦車四九台が送りこまれた。ただし、このうち一七台は故障でうごくことができず、発進できたのは三二台であった。しかも、その三二台のうち満足にうごいたのはわずか九台であった。  フランスもこのイギリスの新兵器開発に刺激をうけ、「シュネーダー戦車」をつくった。そして英仏合同の大機動部隊が一九一七年カンブレー会戦に登場した。このときの戦車の台数は合計四七六台。そしてこの戦闘では、圧倒的にドイツ軍は潰滅状態に追いこまれ、八〇〇〇人もが捕虜になった。  この新兵器に対抗すべく、一九一七年になると、ドイツがわも戦車をつくりはじめた。A7Vと呼ばれる戦車である。イギリス戦車の装甲板一四ミリに対して、このドイツ戦車は三〇ミリの装甲板でおおわれていた。しかも五七ミリ砲を装備し、その照準装置もイギリスのそれよりすぐれていた。この英独両軍の戦車が遭遇戦を展開したのは一九一八年四月二四日、ウイレー・ブルトーヌ付近であった。このとき、両軍ともに戦車は三台。ただ、イギリスがわは、そのうち一台だけが行動可能であって、結局、一対三という不利な戦闘になったが、イギリスの戦車を指揮するミッチェル少尉は、じょうずにドイツ戦車の側面にまわりこんで砲撃を開始した。台数と性能からいえば、あきらかにドイツがわに利があったが、要するに、イギリス軍の操縦技術の熟練によって、この史上最初の戦車戦はイギリスがわの勝利におわったのであった。   4月25日 ■ハワイ移民のはじまり■一八六八(明治元)年四月二五日、イギリス船「サイオト号」がひそかに横浜を出帆した。これより先一八六七年にハワイ駐在のアメリカの貿易領事E・ヴァン・リードなる人物が日本に来て、三〇〇人の出稼ぎ労働者をハワイの砂糖キビ畑に送ってほしい、という交渉をすすめ、幕府もこれを承認していた。ところがここに明治維新が起きてしまった。明治新政府は、幕府とのあいだに結ばれた条約は無効だ、という。話しあいはこじれた。業を煮やしたヴァン・リードはすでに募集済みの一五三名のハワイ渡航者を乗せた「サイオト号」を無許可のままに出航させたのだ。  この船は三四日間かかってホノルルに着いた。しかし、一五三人のなかで砂糖キビ畑で働くことのできそうな農民出身者はきわめて少なかった。その多くは植木屋、左官屋、桶屋からこんにゃく屋まで、ありとあらゆる職入たちであり、なかには江戸や横浜の遊び人、やくざ、浮浪者までもがふくまれていたという。しかし、かれらは、角に木の字という揃いの印半纏《しるしばんてん》に豆しぼりの手拭、三尺帯をしめてパッチをはき、饅頭笠を頭にのせる、という粋な姿で上陸。数日間休んだのち、農場に送られた。  ところが、いったん砂糖キビ農場に着いてみると、聞くと見るとは大ちがい。契約は規定どおりに履行されないし、なにしろ、熱帯の島の気候に馴れるのもたいへんだった。自殺者も出た。そこで、全員を代表して旧仙台藩士族牧野富三郎は日本政府宛の嘆願書を書いた。それに答えて一八六九年に日本政府は調査使節団を派遣し、日本とハワイのあいだに移民に関する条約がむすばれた。こんなふうにしてハワイの土を最初に踏んだ日本移民は、たまたま明治元年に渡航したという意味で「元年者《がんねんもの》」と呼ばれ、かれらがいわばハワイ移民の草分けとなったのであった。 ■しょうゆの輸出■はじめてしょうゆをヨーロッパに紹介したのは、ツンベルグというスウェーデンの植物学者であった。東洋の国日本の植物をぜひ調べたいと望んでいたかれは、鎖国中で、外国人の入国を禁止している日本に、唯一入国を許されている医者として一七七五年にやってきた。のちに書かれた『日本植物図鑑』の中で、彼は「日本にはしょうゆという非常においしいものがある」と紹介しているが、これがしょうゆがヨーロッパに正式に紹介された最初であった。  ところが、いまから約三〇〇年前、ルイ一四世の宮廷料理には調味料として日本から渡来したしょうゆが使われ、その料理のうまさが自慢されていたらしい。しょうゆそのものの輸出は非常に古く、江戸の元禄時代、オランダのケムペルという医者も「日本のしょうゆがオランダ人によってヨーロッパに運ばれ、よい値で取引きされている」と、その著書『日本史』の中で紹介している。当時のオランダ人たちは、しょうゆをビンあるいはツボに詰め、木の栓をした上から松脂で封印をし、熱湯で殺菌をしたうえ、船に積んでインド洋を通ってヨーロッパに運んでいた。しかし、一八三六(天保七)年の大凶作以後、しょうゆの品質が悪くなったために、輸出はぱったりとだえてしまったのであった。このようであったから、しょうゆの輸出はここでとまってしまい、再び開始されることになったのは明治にはいってからである。明治以後、はじめて輸出されたのは、明治元年四月二五日、前項でみたハワイに渡った移民一五三名のために、しょうゆが積み出された時であった。 ■「三条の教憲」と講釈師■神道の国教化をめざす明治政府は、明治五年四月二五日、国民の教化活動をいっそう強化するために、㈰敬神愛国、㈪天理人道、㈫皇上の奉戴と朝旨の遵守を教導内容の本則とする「三条の教憲」を発令するとともに、教部省のもとに教導職を設置した。この教導職には、まず、神道家、仏教家、民間有識者などが起用されたが、それだけでは人数がたりず、戯作者、俳優、落語家、講釈師までが動員された。ところが、このとき、落語家や講釈師のなかから、神官の衣裳をつけて寄席の高座にあがり、聴衆をあぜんとさせた|はねっかえりもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》がでた、という。「お上から、教導職をたまわったのだから、単なる寄席芸人とはちがう」という意識が、かれらに、こうした奇異な行動をとらせたのであろうか。   4月26日 ■シェクスピアのにせもの■ロンドンの印刷屋であり、かつシェクスピア学者であった父親をもつW・H・アイルランドは一七七七年生まれ。父親が一心不乱にシェクスピア(一五六四年四月二六日生)に打ちこんでいる姿を見ながら育ったせいか、かれも幼いころから、シェクスピアの作品にしたしんだ。そのアイルランドが一九歳のとき、どこからか、シェクスピアの遺稿のいくつかをさがし出してきたのである。  その遺稿のなかには、シェクスピアが愛人に宛てて書いた手紙だの、「リア王」の改訂版だの、「ハムレット」の一部のメモだの、といった書類にまじって、二つの完全な戯曲がふくまれていた。そのひとつはサクソン民族の侵入をえがいた「ヴォルティゲルン」、もうひとつは「ヘンリー二世」である。ともに手書きの原稿であって、同時代のシェクスピア学者たちは厳密にそれらを検討した結果、真正のシェクスピアの自筆によるものであることを確認した。アイルランドによるこの「発見」は学界に大きな衝撃をあたえるとともに、こんなふうにして陽の目をみることのできたシェクスピア劇を上演しよう、といううごきにもつながってきた。そして、「ヴォルティゲルン」はロンドンのドルリ・レン劇場で公演されたのであった。しかし、劇場関係者は、直観的に、どうもこの戯曲がうさんくさいということに気がつき、公演は一回かぎりで中止になった。  その後まもなく、アイルランドは、かれの「発見」したシェクスピアの草稿がことごとくかれじしんの偽筆になるインチキであることを告白した。かれは時代ものの紙を手にいれ、薄色のインクを使ってシェクスピアの筆蹟をまね、二篇の戯曲を創作したというわけ。だまされた人びとはかれに怒りをぶちまけたけれども、べつになんの処罰をもうけることなく、アイルランドはその後、小説を書きつづけ、一八三五年に死んだ。 ■マゼランの最期■太平洋探検に出かけたマゼランは、東ポリネシアから苦難の旅をつづけ、ついに、こんにちのグアム島に到着した。ほんらい目的地としていたモルッカ諸島とはだいぶその位置がちがったが、とにかくこの島に着いて飢えや病気から救われた。  この島からモルッカにゆくのは、それほどむずかしいことではない。マゼランの一行は、その途中、フィリピンのセブ島に寄った。島民はおだやかでやさしく、マゼランはこの島の人びとと友好関係をむすび、かれらをキリスト教化することに成功した。いったんマゼランがきたことが知れると、近くの島からも酋長たちがやってきた。フィリピン南部は、こんなふうにしてスペインの属領になるための地ならしを完了したのである。  だが、セブ島から望見できるマクタンという島の酋長だけはやってこなかった。それというのも、この島のラプラプという酋長はセブ島の王と伝統的に仲がわるく、マゼランがセブ島の島民と仲良くなったことをこころよくおもっていなかったからである。たかが小さな島ひとつではないか。マゼランはラプラプのもとに使者を送り、友好を提案し、もしこの提案にしたがわないなら、鉄砲で攻撃するぞ、と威嚇戦術に出た。ラプラプはこれにこたえて、こっちだって槍がある、ときわめて戦闘的な態度をとった。  マゼランは、この返答に激怒し、さっそくマクタン攻撃を実行にうつすことにした。かれはスペイン兵一五〇人を手兵としてしたがえている。だが、こんな小島の攻撃に一五〇人を総動員するなどというのもおとなげない話だ。そこで一〇名をひきつれて出かけた。それがマゼランの誤算であった。小さい島ではあっても、ラプラプはサンゴ礁などの地の利をよく知っている。かれはマゼランを鉄砲のとどかない海岸におびきよせ、マゼランが上陸したところをあっという間に毒矢で攻撃し、呆気なく殺してしまった。ときに一五二一年四月二六日。   4月27日 ■最古の図書館■一八九七(明治三〇)年四月二七日、帝国図書館が開設された。しかし、図書館の歴史は人類の歴史とともにふるいといってもさしつかえない。メソポタミアでは、粘土板に楔形文字を刻みこむ、という筆記法が使われていたが、そのようにして記録された粘上板の大集積がニップールの寺院跡で見つかっている。さらにアッシリアの首都ニネヴェの宮殿の跡でも、厖大な量の粘土板が発掘された。  とはいうものの、こうした古代都市のばあい、粘土板は、べつだん複製され、公共用に公開されていたとはかんがえられないから、正確にいえば政府の専用文言館、あるいは記録保存庫というような性格をもっていたというべきであろう。  こんにちわれわれが知っているような意味での公共図書館がはじめてあらわれたのは、一七三一年の「フィラデルフィア図書館会社」である。その中心的役割を果たしたのはフランクリンだが、この会社は勉学欲にもえる職工たちのものであって、会員はそれぞれ、じぶんの持っている書物や、なにがしかの金を持ち寄って買った本を、図書館という場所に集積して知識をわかちあおうというわけである。おなじようなこころみは、イギリスやドイツでもはじまり、それが公共図書館の原型になった。 ■捕虜の運命■一八六五年四月二七日、ミシシッピー河でおどろくべき惨事が発生した。ちょうど南北戦争がおわり、南北両軍とも捕虜を送還することになったので、北軍の捕虜二〇〇〇人ほどが「スルタナ号」という船にのせられ、ミシシッピーを北上していた。この船は、通常三七〇人を定員としていたが、帰郷を急ぐ兵士たちの数は多く、しかも戦争終結直後のことであったから、その復員業務は錯綜していた。したがって、記録でも、二〇〇〇人以上、ということしかわかっていない。しかし、定員の数倍の人間をのせたこの外輪船は、当然のことながらスピードもおそく、エンジンはフル回転し、完全に過熱状態になってしまった。その結果、この日の午後二時ごろ、船の第三ボイラーが爆発し、甲板にいた何百人もの兵士たちを殺した。爆発は、すぐに第一、第二ボイラーにもおよび、船は瞬時にこなごなになってしまった。運よく河にとびこんだ兵士たちも、流れにまきこまれ、わずか一〇〇メートルほどのところに川岸を見ながら、溺死した。その後数日のあいだにこの河で収容された遺体は一四五〇と記録されている。河川の船舶事故としては、「スルタナ号」事件は史上最大のものであったが、戦後の混乱の最中であったため、ほとんど誰もこの事件については知っていない。   4月28日 ■軍楽隊とボーイスカウト■近代日本のもっとも開化的な君主といえば、当然、島津|斉彬《なりあきら》(一八〇九〈文化六〉年四月二八日生)の名をあげなければなるまい。かれは、はやくから開国貿易論を唱え、西洋の文物を日本に輪入すべきだ、というかんがえを持っていた。西洋砲術の学習もはやかったし、集成館という名の研究所をつくって、火器、水雷、地雷、ガラスなどの製法を研究させた。活字印刷や写真術にも手をつけたし、洋式紡績機のテストもおこなっている。  かれがこれだけのモダニズムで行動しえた理由のひとつは、薩摩藩が西南の雄藩であって、幕府にあまり気兼ねせずに自由に振舞える、という歴史地理的条件であり、もうひとつは砂糖という専売品をもっていた、という経済的なゆたかさであろう。じっさい、薩摩藩はそれじたいひとつの独立国であって、日本という国のほかにもうひとつ薩摩という国があるのだ、といったようなふしぎな神経をもっていた。だからこそ、ロンドンでひらかれた万国博では、日の丸をかかげた日本政府館とはまったく別個に、丸に十の字の島津家の紋をいれた旗を立てた「薩摩館」を堂堂と建設しているのである。  ところがこのモダニストを指導者とする薩摩藩は、薩英戦争で完敗してしまう。鹿児島湾に入ってきたイギリス艦隊は大砲で鹿児島を制圧する。武勇名だたる薩摩武士がいくら日本刀をふりまわしてみてもどうにもならない。しかし、無念やるかたなく、イギリス艦隊をにらみつけていた薩摩藩士たちは、夜半になると、夜風にのって妙なる音楽がきこえてくるのに気がついた。それは戦勝者の凱歌のごとくにもきこえるが、どうもそれだけではない。そこで戦いすんで薩英が和解すると、薩摩藩は軍艦上での音楽についてイギリス人にたずねてみた。謎はすぐにとけた。要するに、それは軍楽隊というものであって、この楽隊は士気を鼓舞し、かつ戦場でのすさんだ気分をやわらげるために軍艦に乗っているのだ、という。薩摩藩はこうなると、持ちまえの進取の気象がとび出してくる。島津はぜひ、その軍楽をわが藩士に教えてくれ、と無邪気な注文。イギリスもこころよくうけいれ、まさしく昨日の敵は今日の友、さっそく選ばれた若い藩士たちがイギリス軍艦に乗って軍楽の手ほどきをうけた。これが近代日本における洋楽導入のはじまりである。  しかし、いっぽう、イギリスのほうも薩摩の武家社会を見ていてひとつ大いに感銘をうけたことがあった。それは薩摩藩の郷中教育である。郷中教育というのは、武家の男の子たちの自治的な集団学習。ここでは、たとえば一〇歳の子は七歳の子どものめんどうをみる、そして七歳の子は五歳の子どもの世話をする、といったふうに、年齢階梯を守りながら順次指導制がきわめて自律的におこなわれている。この教育システムをどうにかしてイギリスで活用できないか——そんなふうにかんがえたイギリス人は、そのアイデアをあたため、ボーイスカウトという青年組織をつくった。こんなふうにかんがえてくると、日英最初の文化交流は、軍楽隊とボーイスカウトであったのかもしれない。   4月29日 ■ある旅行家の記録■ゴールデンウイークがはじまると、日本国じゅう、旅行客で埋まるが、近代の旅行家のなかでの最高の人物はアメリカのB・ホームズであろう。かれは一八七〇年に生まれ、子どものときから旅行熱にとりつかれていた。そして、その生涯を、すべて旅行についやした。合計五六回の夏をそれぞれにことなった国ですごし、大西洋横断三〇回、太平洋横断二〇回、世界一周は六回。こんにちのジェット機時代なら、いとも簡単なようにきこえるが、当時の旅は、ことごとく汽車か船である。  かれはデンマークで最初に自動車を運転した人物であり、またコルシカ島ではじめて自転車をうごかした人物でもあった。かれはシベリア鉄道の敷設中に、その工事を見守りながら第一号の旅客となり、一八九六年のアテネ・オリンピックを見たかとおもえば、エチオピアのハイレ・セラシエ国王の戴冠式に立ちあい、ヴェスビウス火山の噴火を見物したかとおもうと、こんどはイエローストン国立公園に足をふみいれている。  旅行家であると同時に、かれは写真と映画にも深い関心をもっており、旅にはかならずカメラを携行した。中国や日本をはじめて映画で世界に紹介したのもホームズだったし、一八九六年のフィリピン戦争のドキュメンタリーもかれのカメラにおさめられた。まさしくかれは、世界旅行時代の先駆者だったのである。だが、それにもかかわらず、ホームズはみずからの旅行記録を自慢することなく、じぶんはひとりのツーリストにすぎない、といいつづけた。また、かれはたくさんの旅行記を書いたが、どの国の国民にたいしても、つねにあたたかい眼差しでながめ、悪口や非難はひとことも口にしなかった。メキシコで闘牛の映画を撮っても、かれは牛が死ぬ場面はカメラにおさめなかった。 ■日本のミイラ■空海が即身成仏した、という言いつたえがあるところから、とりわけ真言系の仏僧のなかには、人知れず山中に入り、断食してそのままミイラになった例がすくなくない。中尊寺のミイラは有名だが、出羽三山にも数体あり、全国では二五体ほど見つかっている。  ところで平安時代に、天竺冠者と名のるふしぎな男があらわれた。かれはじぶんの母が死ぬと、その内臓をとり捨て、死体にウルシを塗ってミイラ化させ、それを祝ったので評判になった。このミイラを拝むとご利益がある、というので、善男善女がやってくる。もともと、この天竺冠者なる人物はバクチ打ちで、要するに母親の死体を売りものにしてボロ儲けをたくらんだ、というわけ。  このことが後鳥羽院の耳にはいると、院は大いに怒られ、さっそく天竺冠者は召しとられた。一二〇七(承元元)年四月二九日の、都のゴシップである。   4月30日 ■新門辰五郎と油絵■新門辰五郎といえば江戸の地まわりの庶民の英雄だが、かれが日本における洋画の普及に貢献したことはあまり知られていない。といって、かれがべつに洋画に興味をもっていたわけではなかった。ただ、日本初の油絵展覧会を開こうとした洋画家父子を援助したのである。  この洋画家たちは、五姓田芳柳とその子義松のふたりであって、芳柳は天性の器用さで油絵を独習し、義松はイギリス人ワーグマンのもとで本格的に洋画を学んだ。かれらは、西洋のあたらしい画法を同胞に紹介すべく、人出の多く、にぎやかな浅草奥山をその展示場としてえらび、見世物小屋を借りうけることにした。しかし、この地域での興行権をにぎっていたのは辰五郎である。五姓田父子が辰五郎にその意のあるところをつたえたところ、辰五郎はこころよくそれをゆるした。ただ興行上の慣習からして、五姓田父子は太夫元という資格でこの展覧会をひらき、辰五郎の子分たちがその下で出方をつとめた。もとより、太夫元たる五姓田は揃いの法被《はつぴ》などを用意した。その「興行」の開場は明治七年四月三〇日のことであり、辰五郎の子分たちは、まだことごとくチョンまげ姿であった、というから、まことに珍奇なとりあわせであった。  そのうえ、ここで展示された「油絵」とは、薄い布に泥絵具で絵をかき、その上にニスを塗って光沢を出した、といういささかインチキなものであって、画の主題はおおむね歌舞伎役者の似顔絵。江戸の錦絵のハイカラ版といったところである。そして、モデルになった役者たちも引出物を配ったりした。しかし、その啓蒙的効果は絶大であって、観衆は連日ひきも切らず、同年七月末日まで三カ月間の長期興行になった。本格的な洋画が日本で市民権を得るまでに、こういう大衆的地ならしがおこなわれていたのである。 ■ハンバーガーの起源■ハンバーガーのそもそものはじまりは、中央アジアの遊牧民の食べていた生肉料理である。要するに、生肉をたたきつぶし、細くきざんで、これに塩、コショウ、タマネギなどを加えて食べるというわけ。ご存じのタルタル・ステーキである。この味をバルチック海を往来していたドイツの船乗りたちがおぼえ、その母港たるハンブルグに持ちかえった。だがハンブルグの一般市民は、生肉でなく、その両がわをこんがり焼いて食べることのほうを好んだ。かくして、ハンブルグ風ステーキが誕生したのである。  この料理は、一九世紀にドイツからの移民によってアメリカにもたらされた。そして一九〇〇年、コネチカット州のL・ラッセンなる人物がその経営するレストランで、かつてのサンドイッチ卿の故事にならい、パンのあいだにハンブルグ風ステーキをはさみ、これをメニューに加えた。これがいわゆるハンバーガー第一号である。パンにはさまないで、ひき肉をかためたステーキだけを独立させたものは、別名サリスベリー・ステーキともいう。これは、イギリスの高名な医師サリスベリー博士が胃腸病の患者の食餌療法のために処方したところからその名がうまれた。  だが、ハンバーガーは、パンにはさんであるのが常道である。そして、これを決定的にしたのは、アメリカがルイジアナ州をフランスから買取した日(一九〇三年四月三〇日)を記念してひらかれた博覧会においてであった。入場者は何千人もつめかけてくる。そのうえ、博覧会場には、満足にすわってものを食べる場所もない。そこで人びとは立ったまま、あるいは歩きながら、食事をしなければならぬ。これが案外に好評で、それ以来、アメリカのあちこちにハンバーガー・スタンドができはじめた。そして一九五四年、カリフォルニアでマクドナルド兄弟がハンバーガーの製造工程や販売方法を熟考してチェーン店をつくってから、ハンバーガーは爆発的な売行きをしめすことになったのである。 [#改ページ]   五  月   5月1日 ■八時間労働のはじまり■かつてマルクスが書いたように——などというと大げさだが、一九世紀のなかばまで、労働時間というのはかなりいいかげんなものであった。一八八〇年代になっても、ふつうの労働者は、おおむね一日に一〇時間、そして毎週六日間働いていたし、ニュー・ヨークの製パン業などのばあいは、毎週の労働時間は一二〇時間というきびしいものであった。  そんななかで労働時間を短縮しよう、といううごきが出てくるのは当然である。一八八四年、アメリカおよびカナダの労働組合連合は、二年後の一八八六年五月一日を目標に一日の労働時間を八時間とさだめることを決議した。とはいうものの、当時の組合はその力も弱く、決議はしたが、それをつよく押しすすめる力に欠けていた。ただ、シカゴの労働者たちだけはべつで、かれらは、目標の五月一日にむけて、きわめて戦闘的な情報宣伝活動をくりひろげた。そしてその前日、つまり四月三〇日には、製鉄、ガス、鉄道などの労働者たちがストライキに入り、五月一日には三万人の労働者がデモ行進をおこなった。五月二日は日曜だったので、べつだんどうということも起らなかったが、三日になるとストライキはシカゴ全域におよんだ。要するにゼネストである。  労働運動の指導者A・スパイズをはじめ、何人もの活動家たちが、シカゴのヘイ・マーケット広場にあつまった労働者にむかって演説をはじめた。警官隊がそれをとりまいた。突然、誰かが警官隊にダイナマイトを投げこみ、警官七人が死亡、七〇人が重軽傷を負った。警官がわも発砲した。そして責任者と目されるA・パースンズその他三人の無政府主義者たちは逮捕され、死刑の判決をうけて、いずれも絞首台の露と消えた。八時間労働制はこのヘイ・マーケット事件を契機として採用されることになったのである。 ■博覧会とパック旅行■ロンドン万国博は一八五一年五月一日にひらかれ、その後一四一日間にわたって開催された。見物客の総計六〇〇万人。  しかし、これに先立つこと一〇年、トマス・クックなる人物が大衆旅行時代のはじまりを見越して新商売をはじめていた。当時三三歳の印刷工であったクックは、イギリスのミッドランド鉄道がレイセスターシャーからロウボロまで路線を延長し、しかも、ロウボロである大きな集会がひらかれることを知ると、さっそく鉄道会社を訪れ、五〇〇人の団体客をあつめるから料金を大幅に割引してくれ、と交渉した。もとより、鉄道会社は旅客確保の立場からこの条件をOK。そういう手筈をととのえたうえでクックは募集にとりかかり、五七〇人の団体を組織することに成功した。当然、クックは旅客から手数料をとったが、それでも正規の運賃にくらべればはるかに安い。そこからこんにちなお世界最大の旅行会社たるトマス・クック社がはじまるのである。クックが、ロンドン万国博を契機に急成長したことはいうまでもない。  ところで、この万国博の呼びものは、有名な「水晶宮」である。これを設計したのは王室設計技師J・パクストン。かれは、一八三〇年代にはじまった大きな板ガラスを使って、高さ三〇メートルのガラス張りの建物をつくり、これが「水晶宮」と呼ばれることになったのだ。ガラス張りの建造物として、これは空前絶後の規模のものであり、この建設には二〇〇〇人の作業員が従事し、これに使われた板ガラスの量は、イギリスの年産額の三〇パーセントを上まわった。この建築様式、とりわけ天井をガラス張りにして採光する方法は、ビクトリア駅をはじめ欧米の多くの鉄道の駅が模倣し、そういう駅にこんどはパック旅行の人びとがあつまることになったのだ。   5月2日 ■寝台車と大統領未亡人■アメリカの鉄道路線がひろがりはじめると、より快適な旅行のための寝台車の試作がさかんになった。それをもっとも熱心にすすめたのがジョージ・プルマンで、かれは巨費を投じて豪華寝台車「パイオニア号」を一八六四年に完成させた。だが、この車輛は、在来のふつうの車輛より幅が二五センチひろく、また六〇センチほど背が高くなってしまった。これでは、トンネルも鉄橋も通れない。鉄道会社は、せっかくのプルマンの新車輛を採用してくれなかった。ところが、そこにリンカーン大統領暗殺事件が起きた。そして大統領の遺体をワシントンから出身地のイリノイ州スプリングフィールドまではこぶにあたって、大統領未亡人はプルマン寝台車をぜひ使いたい、と主張した。鉄道会社は、やむをえず、プラットフォームを削り、鉄橋やトンネルを大きくしてこの特別列車を走らせることにした。この列車がシカゴ駅をスプリングフィールドにむけて発車したのは、一八六五年五月二日午後九時三〇分であった。 ■最後の晩餐のメニュー■キリストの「最後の晩餐」は古くから絵画としてのこされており、誰でもがよく知っている名画としてはレオナルド・ダ・ヴィンチ(一五一九年五月二日没)の描いたものがその代表例だ。この晩餐の席上、キリストは、ブドウ酒を「わが血」、そして、パンを「わが肉」である、と使徒たちに語り、裏切者のユダを指弾した。そして列席者が一三人であったことから、西洋人が一三という数を忌むことはご存じのとおり。  ところで、この最後の晩餐では、なにが食卓のうえにならべられたのであろうか。歴史家の調査によると、赤ブドウ酒、荒挽きの黒パン、羊のロースト、それに「ハロセス」と呼ばれる赤い色のソース。このソースは、ナツメ・リンゴ・イチジク・アーモンド・シナモンなどをまぜあわせたもので、このソースに羊の肉をひたして食べた。多くの聖画には、このほか、オレンジが描かれているけれど、当時、オレンジはまだローマでは知られていなかった。オレンジを食卓にそえたのは後世の画家の創作ということになる。  ついでにいっておくと、画家たちが創作したのはオレンジだけではない。だいたい、キリストの時代には、椅子にすわって食事をするという習慣はなく、みな床に寝そべって、手づかみで食べものを口に運んでいた。ルネッサンス期以前の絵画をみると、キリストも一二使徒も寝そべっている。しかし、ダ・ヴィンチは、それではあまりに無作法、とかんがえて、中央にテーブルを置き、列席者を椅子にすわらせて、すっかりお行儀よくさせてしまったのである。画法は写実的だが、その写実はダ・ヴィンチの想像の産物なのであった。   5月3日 ■海外貿易ことはじめ■西洋、たとえばイギリスのばあいなどを例にとってみれば、外国との貿易には特許状というものを王や女王が出し、その特許状をあたえられた商船だけが外国貿易をゆるされる、というのがその基本的な方法であった。日本でも、まさしく特許状による貿易がはじまった。一六〇四(慶長九)年五月三日のことである。正しくは糸割符の制、ふつう「ご朱印船」と呼ばれる商船の貿易がそれである。  もともと、この糸割符というのは、日本に輪入される生糸の価格を操作し、家康がみずから利権を手に入れるために考案されたもの。特権商人のグループだけが朱印状をわたされ、その朱印状のない商船はことごとく密貿易船として処分される仕掛けになっていた。朱印状に使われる紙は大高檀紙《おおたかだんし》という特製の紙で、渡航先と下付年月日が明記されたうえ、そこに将軍の朱印が押されるのである。この朱印状は、一航海にかぎって有効、ということになっていたから、こんにちの一次旅券とおなじようなもので、何回もくりかえして使用することはできなかった。じっさいの朱印状下付の事務にあたるのは将軍の秘書役をつとめる僧侶であり、その僧侶は「異国御朱印帳」という給付台帳を手もとに置いていた。のちの旅券発給の方法の原型はここにある、といってもよい。  こんなふうにしてはじまったご朱印船貿易は、いちおう一六一六年でおわっているが、この一二年のあいだに、延べ三〇〇回ほどの航海がおこなわれているから、この貿易の活況は容易に想像がつく。  ご朱印船はその大きさからいうと、小さいもので七〇トン、大きなものは七〇〇トンにも達し、しばしば西洋人航海士がいっしょに乗りこんだ。海図も西洋式のものが使われるようになり、海上貿易国として日本がのびてゆく素地がつくられていたのだが、鎖国令によってこの貿易活動は終息してしまった。 ■最悪の列車事故■一九六二(昭和三七)年五月三日、三河島駅構外で貨物列車と国電の二重衝突事故が起きて一六〇名の死者を出した。この事故は、世界の列車事故のベストテン(?)の第九位に入っているが、最悪の列車事故は一九一七年一二月、フランスのモデインで起きた事故だ。ちょうど第一次大戦中のこととて、フランス兵を前線から帰郷させるための列車。定員など無視して兵士たちはスシづめに乗っている。この列車がフランス・アルプス山中のモン・センス・トンネルの入口にさしかかったときに、突然脱線してしまった。この事故の死者は五四三人。しかし、この事故は軍事機密とされ、大戦終了まで公けにされなかった。   5月4日 ■柔道の起源■むかしから、相撲あるいは組討ちという格闘技は、日本のみならず世界の諸文化に普遍的であった。しかし、それを武術のひとつとして洗練させたのが柔道というものであろう。  柔道が体系的な技法と哲学をもって成立したのは一四世紀のおわりごろ。流派としては提宝山流というのがいちばんふるい。それにつづいて竹内流、荒木流など、諸流派がつぎつぎに名乗りをあげ、江戸期になると流派の数は実に五〇をこえた。武士の基礎的な武術のひとつとして柔術は隆盛をきわめたのである。  しかし、明治維新後、当然の理由から柔術は衰退の一途をたどった。それを復活させて柔道を確立したのは嘉納治五郎であった。かれはもともと身体が弱く、それをきたえるためにまず明治一〇年に福田八之助について天神真楊流を学び、ついで飯久保恒年のもとで起倒流を学んだ。さらに池の流派に関しても研究をつづけ、その長短得失を比較して、ついに明治一五年、下谷北稲荷町に講道館をひらいた。嘉納は柔道というものは身体を強壮にするのみならず、精神修養のためにも効果をあげるという信念にもとづき、体育・修身・護身の三つを講道館の理念としてかかげた。嘉納の柔道についての思索と行動がひろく知られるにつれて、講道館にあつまる人びとの数もふえた。そしてついに「姿三四郎」のごとき創作もあらわれて、柔道は維新前とはちがったかたちで大衆的イメージのなかに定着したのである。柔道は一九六四年からオリンピック種目に加えられ、国際柔道連盟の加盟国は一〇〇をこえる。日本のスポーツでこれだけ国際化したものは他に例をみない。嘉納の誕生日、一八六〇年五月四日。   5月5日 ■聴診器のアイデア■きょうは子どもの日。無邪気な子どものあそびがヒントになって大発明が生まれた例がいくつもある。そのひとつが、こんにちもなお医師が手ばなすことのない聴診器だ。これを発明したのはフランスの病理学者R・T・H・ラエネク。かれは一八一六年のある日、パリで子どもたちが長い木の棒を耳にあててあそんでいる風景をみてアイデアを思いつき、翌日、さっそく細い紙筒をつくって、心臓病の患者の胸にあて、耳をその一端に押しつけてみた。すると、心臓の動悸がはっきりきこえるではないか。ラエネクは、さらに研究をすすめ、直径三センチの杉の棒に直径五ミリの穴を通し、よりはっきりと内診のできる聴診器を完成させた。この発明によって、内科の診察技術は画期的な進歩をとげたが、皮肉なことに、ラエネクじしん、じぶんで発明した聴診器によってじぶんの肺の異常を発見し、一八二六年に、肺疾患で亡くなった。 ■パンの木の海上輸送■一七八七年五月五日、イギリス海軍省は一隻の艦艇を「パンの木やその他の貴重な産物を輸入するために」太平洋に派遣することを決定した。パンの木、というのは、ポリネシアやミクロネシアの島で主食のひとつとして使われている植物である。栄養価も高いし、だいたい、栽培に手間がかからない。当時イギリスは大西洋に浮かぶ西インド諸島の経営に手を焼いていた。それというのも、砂糖キビ畑ではたらく労働者たちにじゅうぶんな食糧供給ができなかったからである。もしも風土的な条件のおなじ太平洋の島からパンの木を西インド諸島に移植できるなら、この問題は一挙に解決するだろう。だから、この船をタヒチに回航させ、そこで一〇〇〇本ほどのパンの木の苗をとって西インド諸島にまわそう、というわけなのである。この船は植物輸送用に改装され、「バウンティ」号と名づけられた。艦長にはブライという人物が任命された。船は順調にその任務を果たし、タヒチを出航したが、ブライ艦長は、しばしば気まぐれで部下にあたりちらした。乗組員は、ついに叛乱をおこし、「バウンティ」号を乗っとり、ブライ以下十数名の人びとは小型ボートに押しこまれて追放された。これが有名な「バウンティ号の叛乱」である。叛乱者たちは、東ポリネシアのはずれの無人島、ピトケアン島に身をかくした。一〇〇〇本のパンの木の苗も、結局は消えてしまった。ブライのボートは奇蹟的にチモール島にたどりつき、かれは再度、パンの木の移植をこころみ、ついに西インド諸島にパンの木を導入することに成功した。だが、これだけ波瀾万丈の苦心がおこなわれたにもかかわらず、パンの木は無用の長物ということがわかった。というのは、西インド諸島の人びとは、これを口にして、まずい、と言って捨て、従来どおり、野生のバナナだけで飢えをしのぎつづけたからである。   5月6日 ■フロイトが有名になるまで■精神分析の始祖として、あまりにも有名なジグモンド・フロイト(一八五六年五月六日生)は、一九〇〇年に『夢の分析』を自費出版した。誰もフロイトを知らず、どの出版社もかれの原稿に見向きもしなかったのである。自費出版のこの書物の発行部数は六〇〇部。フロイトは、この処女作を、せっせと、じぶんで売り歩いたが、六〇〇部を売り切るのに八年間かかった。 ■エスカレーターの進化■エスカレーターの最初の特許権を獲得したのはJ・レノなる人物である。足をのせる部分は木製で、手すりはゴムでつくられていた。原理的にはこんにちのエスカレーターの特徴のすべてをそなえていた。特許申請は一八八二年、そして最初に実用的に設置されたのはニュー・ヨークのコニー・アイランドの埠頭であった。一八八六年のことである。  その二年後、ロンドンの百貨店ハロッズは店内の昇降用にこの機械を設置したが、お客のなかには、エスカレーターに乗って気分がわるくなったり、失神したりする人が続出したので、同店では、エスカレーターの上下にブランデーの瓶をもった係員を配置し、そういうお客の気付用にブランデーを飲ませた。日本の百貨店がついこのあいだまでエスカレーター嬢を立たせていたのも、ひょっとするとこの名残りであるのかもしれぬ。  このあと、C・ウィーラーが改良を加え、それは一八八九年のパリ万国博(五月六日開場)で展示され、そこではじめて「エスカレーター」という名称で呼ばれることになった。   5月7日 ■ダービーの起源■一七八〇年五月七日、第一二代ダービー伯爵であるE・スタンレーがサラブレッド四歳馬をあつめて競馬を主催した。場所はロンドン郊外のエプソム。そしてそれ以来、この競馬は創始者の名前をとってダービーと呼ばれ、近代競馬のモデルとなった。  エプソムのダービー・コースは、不整形の左まわり馬蹄型であり、ダッシュから四〇〇メートルほどは急な上り坂、上りきると平らになって、第二カーブで急な下りになる。ここから四〇〇メートルにわたって下りがつづき、最後の八〇〇メートルは平坦な直線だ。時代によってコーナーを削ったり、つぎたしたりした結果、走路の全長は変動したけれども、現在ではおよそ二・四キロメートルである。  ダービーの功績の最大のものは、競馬を紳士淑女のゲームにした、ということであろう。イギリスでは、ダービー競馬の日は官庁も銀行も休日、男はダービーハット(山高帽)をかぶり、女は最新流行のドレスを身にまとう。国王も参加するし、観衆は一〇〇万におよぶ。たいへんな賑いなのである。このダービー競馬にあやかってアメリカではケンタッキー・ダービー、日本では日本ダービーといったふうに、「ダービー」ということばは普通名詞化してしまった。ちなみに、日本ダービー第一回がおこなわれたのは一九三二(昭和七)年四月二四日である。また、現在のイギリスのダービーは、毎年六月の第一水曜日におこなわれている。 ■ふたつの鉄道記念日■日本における本格的な鉄道の開通は東京・横浜間だが、ひとくちに東京といってもひろい。記録によると、まず開通したのは、正確にいうと一八七二(明治五)年五月七日から営業を開始した品川・横浜間である。汽笛一声の新橋までの工事が完了したのはおなじ年の九月一二日。いずれを鉄道開通の日ととったらよいのか。  実質的に汽車が走ったのは五月七日、天皇臨席のもとに正式の開通式がおこなわれたのは九月、というふうに区別しておいたらよい。  とはいうものの、品川・横浜間の開業の前日にあたる五月六日にも品川で「開行式」が挙行されており、この日の午後、三条太政大臣、大隈参議など政界の大物がずらりと勢ぞろいして鉄道設備を見学し、そのあと全員が試運転列車に乗って横浜まで行き、横浜でも同様の式典をあげて一泊、翌七日の朝、東京に帰着している。所要時間は片道三五分であった。この「開行式」にくらべると、九月の本格的な第二次「開行式」は大仕掛けであった。このときには天皇はじめ内外高官が新橋に勢ぞろいし、軍楽隊が演奏し、近衛兵や、品川沖に碇泊中の軍艦は祝砲を放ち、そして「鉄道開行式」という文字を浮きたせたちょうちんがともされた。そのうえ、二万人ぶんの弁当もくばられている。はたして、どちらの日をもって日本における鉄道開通の日とすべきなのであろうか。 ■お玉ヶ池の種痘所■ジェンナーがわが子を実験台にして種痘をおこなったのは一七九五年のことだった。だが、かれが種痘の病理学と予防医学にとりくみはじめたのは、それより一五年まえの一七八〇年。つまりそれだけの期間、研究に没頭していたわけだ。しかし、この大発見にもかかわらず、ジェンナーは迫害をうけ、じっさいに種痘が普及しはじめたのは一九世紀になってからのことだ。  だが、民間医療としての種痘に似たものは、日本にかなりむかしからあった。現在の千葉県南部の漁村などでは、天然痘にかかった人のカサブタをとって、それを健康な人のからだに貼りつける、という予防医学がすでにあったらしい。したがって、日本人がジェンナーの種痘法をうけいれるにあたってはそれほどの抵抗はなかったようである。  じじつ、種痘に関しては、江戸中期ごろから、ぼつぼつとその原理と技術が輸入され、文化・文政期以降から、「種痘家」として知られる医者たちがあちこちに登場しはじめているから、ほとんどジェンナーの発見直後に日本に来て実施されていることになるし、鍋島藩などは痘苗をオランダから輸入することを再三こころみている。東洋諸国のなかで、日本がはやく天然痘の追放に成功しえたのは、こうした積極的受入れ態勢がととのっていたからである。  種痘が官許されたのはまず大阪、そして一八六〇(万延元)年五月七日には、江戸は神田のお玉ヶ池に種痘所が開設された。お玉ヶ池といえば千葉周作の道場で有名なところだ。万延元年は桜田門外の変のあった年。物情騒然たるなかに、西洋医学は、しずかにその地歩をかためはじめていた。   5月8日 ■コカ・コーラの誕生■J・S・ペンバートンなる人物がいた。アメリカのジョージア州の出身で、南北戦争のときには当然のことながら南軍に参加し、大佐にまで昇進した。だが、南軍は敗北し、ペンバートンは、もともと経営していた薬局に戻った。かれは、薬剤師の資格をもっていたから、薬局経営はもとよりのこと、新薬の開発にも意欲をもやした。かれは染髪剤をつくったり、肝機能強化のための薬品を試作したりしてみた。一九世紀なかばのことであるから、かれの開発したこれらの薬品には、いささかインチキなところがあったかもしれぬ。そういう試作品のひとつに、コカインを含むコカの葉のエキスを原料にしたふしぎな新薬があった。これは頭痛や二日酔にきく、という効能をもっていたのだが、この新薬を完成したペンバートンは、どういうわけか、これをアトランタの町の軽飲食店に持ちこみ、水と氷で割ったらいい味のあたらしい飲みものになるはずだ、と友人の店主に語りかけた。一八八六年五月八日のことである。最初は水で割ってみた。いちおう結構な味であった。しかし、二杯目をつくるときに、店主のW・ベナブルは、水でなく、ソーダ水で割ってみた。すると水割りとはくらべものにならないほど、すっきりと新鮮な風味がただよった。まさしく、ここに、あたらしい清涼飲料水が誕生した。これがコカ・コーラのはじまりなのである。ちなみに、現在コカ・コーラは世界八〇カ国でそれぞれの国語によって標示されている。中国語圈では「可口可楽」という字があてられている。コカ・コロニゼーションなどといわれながらも、なかなかこの世界企業は商売上手なのである。 ■西洋の巫女■フランスのドムレミー村に生まれたジャンヌは、子どものころからふしぎな能力をもっていた。彼女は、自宅の庭でつねに天使の声をききつづけ、常人とはちがったイメージを追っていたのである。そうしたある日、彼女は「オルレアンを救い、シャルルをフランス王にせよ」という声をたしかに聞いた。  そのころ、シャルル六世の妃は、こともあろうに、敵国イギリス王にフランスの王位継承権をあたえ、自分の子であるシャルルをほうり出してしまったのである。ほうり出されたとはいえ、シャルルは、れっきとした王子であるから、みずからをシャルル七世と称した。つまり、フランスは国王がふたりあらわれるという変則的事態をむかえたのである。ジャンヌがきいた神の声は、シャルルこそがフランスの正統の王であり、その王のために戦え、ということを意味したのだ。  ジャンヌは、奇蹟的にシャルルに会見することができ、その超人的能力のゆえに「軍司令官」となり、四〇〇〇人の兵をひきいてイギリス軍を攻撃することになったのである。いわば、神がかり状態になったこの女性にはイギリス軍も薄気味わるさを感じたのであろう、ほとんど無抵抗で敗退してしまった。くわしいいきさつは省くが、一四二九年五月八日、イギリス軍はついにオルレアンから退却し、めでたくシャルル七世はフランス国王としてフランスの大寺院で戴冠式をあげた。ジャンヌは、その国王のかたわらで軍旗をにぎりしめ、この晴れがましい日を飾った。ジャンヌは、その後、まだ敵のいるパリを攻撃し、そこでとらえられ、宗教裁判にかけられて火あぶりの刑に処せられた。シャルル七世のほうは、まことに不人情で救いの手をさしのべようともしなかったが、このふしぎな巫女ジャンヌ・ダルクによってフランスのナショナリズムの基礎がきずかれたのであった。   5月9日 ■空飛ぶ雌牛■一九六二年五月九日、アメリカのアイオワ州を竜巻がおそい、それに巻きこまれて愛称ファウンという雌牛が空中高く舞い上った。だが奇蹟的にも、ファウンは一キロほどはなれた他の牧場に無事に着陸した。着陸地点には、ちょうどホルスタイン種の雄牛がいて、両者はしかるべく結ばれ、じぶんの牧場に連れ帰られたファウンはやがてみごとな仔牛を産んだ。  それから五年後の一月、ふたたび同地方に竜巻がきた。ファウンは牧草地で草を喰んでいたが、またもや竜巻にのり、数十メートルの高度で飛翔し、人びとが見守るなかで、みごとに四本の足をそろえて着陸した。この空飛ぶ雌牛の飼主は、それ以後暴風警報のたびにファウンを牛舎に閉じこめ、飛行させないようにつとめた。ファウンは一九七四年の冬に死んだ。 ■母の日のはじまり■こんにち、「母の日」は五月の第二日曜ということになっているが、これには複雑な前史がある。まず、中世のイギリスではレント(四旬節)の第四週の日曜に、徒弟奉公などに出ている子どもたちが家に戻って母を慰めるという民俗習慣があった。この民俗行事は途絶えていたけれども、一八九〇年に、アメリカ、ケンタッキー州のサシーン女史なる人物がその復活を説き、じぶんの母親の誕生日たる四月二〇日を母の日にしよう、と提案した。しかし、この提案は無視された。二年後の一八九二年、こんどはバルチモアの日曜学校の先生R・カミンズが、その教会の牧師の母親の誕生日たる五月二二日を母の日にしよう、と提案。この教会に関するかぎり、五月二二日に母親に感謝する集会が何年にもわたってつづけられたが、あくまでも局地的な行事にすぎなかった。 「母の日」をいまあるようなかたちで定着させたのはフィラデルフィアのアンナ・ジャーヴィスという女性。彼女は、日曜学校の教師として献身的にはたらきつづけている母親の姿をみながら育った。いや、むしろ、彼女じしんが母親と同化するほどに母を尊敬していた。その母が一九〇五年五月九日に死去した。ジャーヴィスは悲嘆に暮れて二、三年を茫然とすごしたが、突然、世の子どもたちが母親にたいしてじゅうぶんな思いやりをもっていないことに気づき、大キャンペーンを開始した。議員や州知事、実業家、新聞社などに手紙を書き、ついに一九一〇年、オクラホマ州、ワシントン州などが五月の第二日曜を州の休日に指定し、他の州もそれにならったのである。それはさらに世界各地につたわり、日本までもがこの日を祝うことになった。  ところでジャーヴィス女史は、それやこれやでついに結婚することもせず、一九四六年に八四歳で亡くなるまで独身で暮らした。ちなみに亡き母のシンボルとして使われる白いカーネーションは、ジャーヴィス女史の母親が好んだ花である。   5月10日 ■人海戦術のはじまり■日本の鉄道開業については五月七日の項でのべたが、アメリカでは一八六九年五月一〇日に大西洋岸と太平洋岸をむすぶ大陸横断鉄道が完成した。この鉄道計画が議会を通過したのが一八六二年であるから、七年間というわずかな期間でできあがってしまったことになる。しかも、この七年間は、南北戦争の時期とかさなっている。内戦の不安のなかで工事は黙々とすすめられた。  工事を請け負ったのはユニオン・パシフィック鉄道とセントラル・パシフィックの二社。前者はネブラスカ州のオマハから、そして後者はカリフォルニア州のサクラメントから工事をはじめた。最大の難所はロッキー越えである。中西部からしだいに盛り上るロッキーの東がわの丘陵はデンバーですでに海抜二〇〇〇メートル、そしてその西には、ロッキー山脈がそびえ立っている。丘陵地はともかく、山岳部に入ると、工事は難航をきわめた。インディアンの襲撃もいくたびかあったし、また、谷あいに架ける橋梁工事が失敗して落ちたり、トンネルが崩れたりして、死傷者の数もおびただしい。デンバーの西郊にある鉄道博物館には、その当時の厖大な資料がのこされている。  ところで、この大工事をすすめるにあたって、アメリカは中国に労働力をもとめた。その工事のピーク時には二万人の中国人が枕木をつくり、レールをはこんだ。そのすさまじい人海戦術によって、建設工事のピッチはあがり、おどろいたことに、山岳部でも一日に平均三キロ以上の長さの鉄路が敷設された。こうした巨大な人間労働力の投入によっておこなわれた土木工事として、古くはピラミッドの例もあるが、大陸横断鉄道の完成は近代における人海戦術の典型といえるだろう。なお、西進するユニオンと東進するセントラルのレールが接合されたのは、ユタ州オレゴンのやや西よりのプロモントリ・ポイントである。 ■ハワイ州旗の由来■アメリカの各州はアメリカ連邦国旗、すなわち星条旗とならんでそれぞれの州旗をもっているが、ハワイ州の州旗をみると、イギリス国旗たるユニオン・ジャックと星条旗が組みあわされていることがわかる。  その理由は簡単であって、ハワイ諸島はまずイギリスのクック船長によって発見され、のち、アメリカの進出によってその連邦の一部になったからだ。イギリスがなぜクック船長が最期をとげたハワイを手放したか。ひとつには、オーストラリア、ニュージーランドといった南半球の大きな地域により多くの力をそそいだからであり、また、北アメリカ大陸の北部に関心をしめしたからだ。太平洋の小さな島の権益をとったところでタカが知れている。イギリスは、みずからが島国であるゆえに、「大陸」に活路をもとめようとしたのだ。  クック船長とともに航海したG・ヴァンクーヴァー(一七九八年五月一〇日没)も、そうした「大陸型」の探検家であって、北米大陸西岸を探検し、すでにそこに進出していたスペインを制圧してイギリス領とした。カナダ西岸の都市ヴァンクーヴァーは、かれの上陸地点であり、一八八六年にかれの名をとって、そのように命名された。   5月11日 ■書物の価値■グーテンベルグの印刷術が完成しても、ながいあいだ書物は刊行点数もすくなく、また発行部数もすくなかった。スウィフトの『ガリバー旅行記』などにしても、その初版部数は二〇〇部ていどであり、しかも、書物を読むことのできる人口はわずかだったから、書物の価値は大げさにいえば貴金属なみであった、といってもさしつかえない。じじつ、一八世紀ごろのイギリス人の財産しらべの記録をみると、そのなかに書物という項目が他の財産とならんでのこされていることがわかる。  ましてや、こうした西洋の書物を手に入れてそれを秘蔵していた江戸から幕末までの蘭学者・洋学者にとっては、本というものは、なにものにもかえがたい価値をもっていた。文字どおり門外不出で、絶対にひとに本を貨すことはしない。ぜひ読みたいという人があれば、自宅まで出向かせ、そこで写本をゆるす、というのが通例であった。  ところで一八六九(明治二)年、軍艦で箱館に逃れ、五稜廓にたてこもった幕軍は官軍と戦ったが、その敗北は五月に入って決定的となった。この月の一一日、幕軍の指令官榎本武揚のところに軍使がやってきて降服勧告をした。榎本は徹底抗戦の姿勢を捨てず、最後の一兵まで戦う、と答え、同時に、軍使に二冊のオランダ語で書かれた書物を託した。この二冊の書物は国際法の原理についての学術書であって、榎本は、これらの書物は日本国のために有益な書物であり、戦火に焼くにしのびない、ねがわくは、これを保存し将来の役に立ててほしい、という書簡をそえた。榎本は、のちに新政府のなかで活躍することになるが、この時点での唯一の関心事はみずからの秘蔵する二冊の洋書の安全のみだったらしいのである。 ■金と銀■七〇八(和銅元)年五月一一日、日本ではじめて銀銭が鋳造された。日本は、のち金貨をもつくるようになり、金・銀併存の通貨体系をつくりあげたけれども、金と銀の交換率からいうと、意外と銀の価格が高く、しかも江戸時代には銀が標準通貨の単位となった。「銀座」という銀の職人・投機商人たちのギルドがつくられたゆえんである。  銀が割高、ということは、いうまでもなく金が安い、ということだ。金・銀の交換率は国によってことなったが、日本は以上のような理由から、金を割安に手にいれることのできる国として定評ができあがり、ポルトガル貿易がはじまると、大量のメキシコ銀が日本に流入し、日本からは金が流出した。マルコ・ポーロが日本を「黄金の国」として描いていたのは、すくなくとも、江戸時代までの金・銀交換率からいうと真実なのであった。不足がちな金を増産するため、佐渡の金山が幕府の直轄鉱山として開発されたのはご存じのとおり。  ところで、北ヨーロッパのバイキング、というと、もっぱら海洋の英雄とされているが、かれらは同時に、陸路、中央アジアから中近東にまで進出して、ほうぼうで財宝を掠奪している。そして、かれらもまた、金よりはむしろ銀に価値をおいた。そして、手にいれた銀は、それを鋳造して食器につくりなおし、その銀器を財産とする習慣をつくった。西洋文化のなかで銀食器が珍重されるのは、このような歴史的埋由にもとづく。  しかし、金と銀の埋蔵量や金属としての性質のちがいから、一八一六年に経済学者のリカルドが金本位制を理想的な貨幣制度として提唱、一九二〇年代までにはヨーロッパ諸国がこれにしたがった。日本は、はじめにのべたような理由から銀が中心であり、一八六九(明治二)年にあらためて銀本位制を確認したが、国際通貨として銀が不適切であることに気がつき、その二年後から金本位制に移行した。一二世紀以上にわたってつづいた日本の銀本位制はこのようにして崩壊したのである。   5月12日 ■大岡越前とサツマイモ■日本に甘藷が渡来した歴史はきわめて劇的である。甘藷はもともと新大陸の植物。それがスペイン船によって太平洋諸島からフィリピンに渡来し、さらにそこから中国にもたらされた。中国の本草学の書物には、一六世紀のおわりごろから、甘藷が「蕃藷」という名前でのせられている。  一六〇五年、琉球の野国《ぬぐん》という人物が、琉球王の命をうけて中国に使し、そのとき福建省で甘藷を見て、さっそくそれを琉球に持ち帰った。栽培してみると、手入れも簡単だし、収量も多いうえに味もよろしい。だから、甘藷はあっというまに琉球全土にひろがった。  それから数年が経過した。おなじみのウィリアム・アダムスは幕府の命をうけて平戸からシャムに向けて出航。ところが、船が途中で浸水しはじめ、アダムスは琉球の那覇に緊急避難し、そこで船の修理をすることにした。修理はしたものの、そのままシャムには行けそうもない。季節がかわって風向きもかわってしまった。だからアダムスは積荷の一部を琉球で売りさばき、平戸にひきかえした。そして琉球滞在中に入手した甘藷をひと袋持って帰ってきた。一六一五(元和元)年五月のことである。これが、そもそも日本に甘藷が入ってきた最初であった。この最初の苗はさっそく平戸で植えつけられた。  だが甘藷の輸入には、もうひとつべつなルートがあった。それは、琉球から直接薩摩への輸入である。一六〇九(慶長一四)年薩摩藩は琉球を征服し、その領土に編入してしまった。当然そこからこの新栽培植物が薩摩に入ってきたであろうことは疑いない。一般にこのイモがサツマイモと呼ばれるゆえんである。そしてこんなふうにして、まず甘藷は九州地方で栽培されはじめたのであった。  ところで、ここにおなじみの青木昆陽という人物があらわれる。父親は日本橋の魚河岸で問屋をいとなんでいたが、学問をこのみ、京都で伊藤東涯について学問をおさめた。同門に松岡成章という人物がいて、この人ははやくから甘藷に関心をもち『蕃藷録』という本をまとめていた。昆陽もいつのまにか甘藷研究にひきこまれていたところに、伯父の知りあいの加藤枝直という人が訪ねてきた。ちょうど米が凶作で、将軍吉宗は食糧問題をどうするかについて頭をかかえていた最中である。加藤は江戸町奉行の与力であって、その上司は有名な大岡越前守。  昆陽はさっそく『蕃藷考』というじぶんの論文を提出した。かれはこの植物についての知識の多くは松岡に学んでいたが、その知識を土台にし、かつ、実践的に、その栽培方法をもふくめてこの論文を書いたのである。加藤の手を経てこれを読んだ越前守は大いに感心し、それを吉宗にとりついだ。一七三五(享保二〇)年のことである。吉宗もよろこび、さっそく小石川で栽培してみるよう命じた。実験の結果は上々であって、こうしてつくられた苗は、つぎつぎに関東一円にひろがり、たんに救荒植物としてだけでなく、あらたな食糧としてひろがったのであった。昆陽は『薩摩いも作り様、功能之義上書』という啓蒙的な手引書もつくった。農民たちは、これを読んで甘藷をつくりはじめたのである。  とはいうものの、昆陽以前にも、甘藷は江戸で用いられていたようである。というのは、慢性的な食糧不足になやむ伊豆諸島、とりわけ八丈島には、昆陽の『蕃藷考』より一〇年ほどはやく、幕府からタネ芋が支給されていた、という事実があるからだ。八丈では樫立村でまず栽培に成功し、そこから全島にゆきわたった。昆陽は、いわば、この新植物をひろく普及させた大啓蒙家というべきであろうし、かれに思う存分のしごとをさせた大岡越前も、りっぱな見識をもった知識人なのであった。青木昆陽、一六九八(元禄一一)年五月一二日生。   5月13日 ■カクテルのはじまり■一八世紀のおわり、ニュー・ヨークのバーで、酔っぱらいのひとりが店内に飾りつけられていた鳥の羽毛を指さして、あの雄鶏のシッポ(コックステイル)を一杯くれ、と酔眼もうろうとしてウエイトレスに注文した。ウエイトレスのB・フラナガンは、勝気でユーモア精神にあふれた女性であったから、そこらにあるさまざまな酒をまぜあわせ、そこに羽毛を一本差してその客のテーブルにはこんだ。これがカクテルということばの語源だというが、真偽のほどはわからない。  カクテルについての最初の定義は一八〇六年五月一三日付のアメリカの雑誌「バランス」にのせられている。この定義によるとカクテルとは「一種の興奮性のアルコール性飲料で、なんらかの種類のアルコール、水、砂糖、苦味酒(ビタース)をふくむもの」とされているが、これだけではなんのことやらわからない。だが、だいじなことは、在来、生《き》のままて飲むものとされていた酒を何種類か混合してあらたな味をつくる、という思いきった方法がアメリカで開発されたという事実である。カクテルには、さまざまな種類があり、世界のバーテンダーたちは、それぞれにくふうして現在もなおあたらしいカクテルをつくりつつあるから、ぜんぶで何種類あるかはわからない。ただ代表的なものをひとつあげれば、ドライ・マーティーニ。これは一八六〇年にサンフランシスコのホテルのバーテンダーがはじめて発明したもの。カクテルそれぞれの由来を紹介していたらキリがない。 ■ラクダとオートバイ■「アラビアのロレンス」の名で知られるT・E・ロレンスは一八八八年生まれのイギリス人。考古学に興味をもってアラビア研究にいそしんでいたが、そのアラビアについての知識がひろいことからイギリス陸軍はかれを起用して秘密の任務につかせる。ロレンスは、アラビアの人びとのなかにしっかりと入りこみ、トルコに対するアラブの叛乱を計画し、指導した。砂漠のなかを、ラクダに乗ってアラブの叛乱軍とともに行動するロレンスの姿は、映画でもよく知られている  しかし一九一八年、ダマスクス攻略作戦がおわると、かれは姿を消した。その功績は偉大だったが、みずからがいつのまにかあたえられてしまった虚名にむなしさを感じたからなのであろう。その後、ロレンスは、若くしてひっそりと引退してしまったごとくである。陸軍に軍籍はのこったが、かれがなにをかんがえていたのかは誰も知らない。  その後、一〇年以上が経過した。ロレンスはオートバイに興味をもち、そのスピードをたのしんでいた。アラビアの砂漠でラクダの背にゆられていた時代とはまったく対照的である。一九三五年五月一三日、この日もかれはイギリスのドーセット州の陸軍基地を出てオートバイのスピードをあげた。ところが急カーブの坂道に出たとたん、二台の自転車で走っている人の姿が目に入った。道路はせまく、その自転車をかわすことはむずかしい。ロレンスは思いきってハンドルを切ったとたん、空中に投げ出され、路面にたたきつけられて人事不省となり、六日後に、四六歳の生涯を閉じたのである。   5月14日 ■ラクダ部隊の誕生■一九世紀のなかば、アメリカはインディアンたちとの戦いに苦労していた。なによりも戦線のひろがりがやたらに大きく、とくにメキシコとの戦争で領土が拡大してしまったものだから、ここを警備することは至難のわざであった。とりわけ、この地域をパトロールするための適切なのりものがなかった。まだ自動車はおろか、道路さえ満足になかった時代である。そこで当時の国防相であったJ・デヴィスは奇抜な案を思いついた。つまり、ラクダを使おう、というのである。ラクダは、アラビアだの北アフリカだのの乾燥地帯で隊商ののりものになっていた。見かけによらず、スピードもはやい。アメリカ議会は一八五五年に、陸軍がラクダを輸入することについて三万ドルの予算を承認した。  ふたりの関係者が、ラクダ購入の任務を帯びて地中海におもむき、チュニスで三頭、エジプトで九頭、そして、スミルナで二頭、合計三三頭のラクダを買い入れた。さらに、ラクダをあやつることのできるアラブ人、トルコ人、合計三人をも雇い入れた。このラクダをのせた「サプライ」号は一八五六年五月一四日に、テキサス州のインディオロナ港に到着した。エジプトからテキサスまでの航海には三カ月を要したが、ラクダは全員(?)健康そのものであったという。  その翌年にも、さらに七五頭のラクダが輸入され、E・ビール中尉を隊長とするラクダ部隊が編成されて、もっぱらニューメキシコとカリフォルニアをむすぶ物資輸送にあたった。この輸送作戦は成功し、ラクダ部隊はアメリカの陸軍史上にその名をとどめたのである。  のち、これらのラクダは民間に払い下げられ、西部諸州にその姿をみせたが、その最後のラクダは一九〇七年に死んだ。アメリカのタバコの銘柄に「キャメル」があるのは、このようなラクダ部隊の故事にもとづいている。 ■ディケンズと天気予報■そのあたりはずれはともかくとして、その日の天気を予報することは一六九二年五月一四日にはじまった。その日、イギリスのある農業週刊誌は、グラシャム大学から借り出した記録によって、前年度の天気状況を一週間ぶんずつ発表したのである。おなじパターンが毎年くりかえされるとはかぎらないわけだから、まことにたよりない天気予報だったが、とりあえずこれが第一号。  より本格的な天気予報、つまり、現在の天気予報の原型になるようなものを毎日提供したのはC・ディケンズを主筆とする『デイリー・ニュース』である。はじまったのは一八四八年八月。この新聞は毎朝九時にイギリス全土の各測候所から電送によって気象状況をあつめ、それをもとにしてグリニッチ観測所が予報を立て、でた結果を発表したのである。その意味では、ディケンズは、こんにちの天気予報の生みの親であった。   5月15日 ■アンコール・ワットの発見■アンリ・ムーオは一八二六年五月一五日、フランスのモンベリアールに生まれた。かれは一八歳のときロシアに渡ってフランス語を教え、さらに陸軍士官学校でも教壇に立った。ちょうどそのころ、ダゲールのつくった写真術にも凝っていたので、暇をみつけてはポーランドやクリミア半島に出かけて写真を撮りまくった。  だがそんなある日、かれはJ・ボーリングの著書『シャム王国と住民』を読み、インドシナ半島に興味をもつようになった。そしてじぶんの足で現地を訪れてみよう、という気持をおさえることができなくなった。一八五八年四月、かれはロンドンから船にのり、同年八月バンコクに着いてから、三年間にわたってこの地域の探検をおこなった。  一八五九年一二月、かれはカンボジアの古代王国、つまりクメール王国の首都であったアンコールに着いた。王国の最盛期には、属領二〇カ国、そしてその軍隊は五〇〇万人という規模を誇っていたといわれる。ムーオはその遺跡にはじめて足をふみいれた人物なのだ。その古代建造物群をみたムーオはこう記録している。 「それらを一見すると深い感動の念に打たれ、こうした巨大な作品の作者であって、これほど高度に文明化され、またこれほど開化された力強い民族がそれからどうなったかと問いかけざるをえない。これらの寺院の一つは当代のもっとも美しい建造物とくらべられても名誉ある地位を得ることだろう。その寺院はギリシャやローマがわれわれに残したどの寺院よりも壮大である」  アンコール・ワットの存在は、それ以前にも欧米人によってわずかに知られていたが、それらはひとつの例外もなく、伝聞によるものであって、じっさいに現地におもむいたのはムーオが最初であった。かれは、その後、病を得てジャングルに死に、そのジャングルから日記が発見されて、かれの探検の全貌があきらかになったのである。 ■武士とトランプ■一五九九(慶長四)年五月一五日、長曾我部元親が死んだ。元親は四国土佐の藩主で、その家臣たちに「掟書」を公布して規律の統制をはかったが、その条項のひとつに、「かるた」をしてはいけない、というのがあった。  ここにいう「かるた」というのは、こんにちのいわゆる「トランプ」のことである。南蛮貿易のさかんなころ、日本の貿易商や船乗りたちはポルトガル人からトランプを習い、それを日本に持ち帰ったが、このカード・ゲームをやりはじめると、おもしろくてしかたがない。ポルトガル語のカルタ(カード)をそのまま借用して、日本でもこれを「かるた」と呼ぶようになった。それは町人層だけではなく、武士階級にもおよび、熱中すればするほど、ゲームに金品を賭けたりする連中もあらわれる。あまりにも流行がすぎるので、元親は、それに禁令を出さざるをえなかったのであろう。  ちなみに、こうして西洋から輸入された「かるた」は、のちに変型されて花札を生んだり、小倉百人一首を「かるた」と呼ぶようになったりした。明治維新後、もういちど西洋ふうのカードが輸入されると、もはや「かるた」と呼ぶわけにはゆかず、「トランプ」という名称がつけられたのである。「トランプ」とは、英語の「切札」という意味だ。 ■封筒と決闘■手紙を出すときに封筒にいれるという習慣は一七世紀末の発明である。それまでは、西洋では手紙は三つに折って封蝋で閉じるのが作法であったし、日本では手紙をべつの紙に包んで表書きをするのがふつうであった。ときには結び文、などという粋な方法も使われていた。  西洋で現存する最古の封筒は、イギリスのJ・オジビル卿なる人物が国務大臣ターンブル卿に宛てた手紙をいれたもの。大きさはこんにちの標準角封筒よりやや小さめで、この手紙が送られた日付は一六九六年五月一五日、とある。一八世紀になっても、封筒が使われる例はそれほど多くなかった。それというのも、封筒に手紙をいれると封緘書簡より高い郵便料金をとられてしまったからである。  しかし一九世紀になると、封筒は優雅な文房具となり、とりわけ上流階級の人びとはじぶんの紋章をいれたり、イニシアルを印刷したりして封筒に凝りはじめた。ところで、一八四四年、封筒をとじるのにゴム糊をつける発明がおこなわれると、とんでもない問題が発生した。糊つきの封筒は、舌で濡らして封をするのだが、それは、唾液の一部を他人に送る、ということを意味する。ひとにツバを吐きかけるというのは最大の侮辱であって、それは決闘に価する無礼な行為だ。だから、ヨーロッパの一部の保守的な紳士たちは、ツバで封じられた手紙を受けとると、それを決闘の申しこみと解釈し、送り主につよく抗議しつづけた。   5月16日 ■電報の開始■イギリスで最初に電報がそのサービス業務を開始したのは一八四三年五月一六日であった。電線は鉄道会社のものを使い、パディントンから三二キロはなれたスロウに送られ、ロンドン、ウィンザーなどに電報が配達されるような仕掛けになっていた。  日本での最初の電報も奇しくも東京・横浜間三二キロ。しかし、こちらのほうは一八六九(明治二)年一二月であって、イギリスより二五年あまりおくれている。はじめのうちは、電信で手紙が送れる、という早トチリから、電線に手紙を結びつけたりする手合いもいたが、それから七年のあいだに日本の電信網は一七〇〇キロにもおよんだ。だから、江藤新平の佐賀の乱のときなども、さっそく電報でその第一報が東京にとどき、大久保利通はみずから現地に飛んで熊本鎮台に動員をかけ、この叛乱軍を鎮圧することができたのである。  開局当時の電報料は、カナ一字につき一厘一毛、そして配達料は一里につき一二銭であった。おもしろいことに、この料金は郵便料にくらべて格安であった。たとえば東京・横浜間の郵便物を速達扱いにすると二〇円というべらぽうな値段である。二〇円あればカナ文字で、なんと二万字ぶんを電報で打つことができたのである。それもそのはずで、初期の電信はもっぱら政府専用。一般の使用はなかなかむずかしかった。   5月17日 ■南京虫の裁判■ミシシッピー河の発見は一六世紀にまでさかのぼることができるが、本格的にウィスコンシンからミシシッピー河を探検したのは、イエズス会のマルケットと毛皮商のジョリエ。かれらがアーカンソーまでたどりついた時は一六七三年五月一七日と記録されている。  さて、このミシシッピーで世にも珍しい裁判がおこなわれた。原告になったのは同州の著名な弁護士S・プレンティスとゴールソン判事。かれらはレイモンドという町に一泊することになったのだが、夜中になると、身体じゅうがかゆくてたまらない。南京虫の襲撃である。眠るにも眠れず、腹を立てた両人は、ピストルをとり出し、南京虫退治をはじめた。いくら西部開拓時代とはいえ、南京虫を相手にしたピストルの乱射などというのは前代未聞である。べッドはそのおかげで穴だらけになった。  何匹かの南京虫は、かくのごとくにして銃弾の露と消えたが、夜がしらむころ、一匹がウロウロしているのを発見、これは生けどりにすることに成功した。それまでに殺した何匹かについては正当防衛が成り立つが、生きているかぎり、この一匹は被告として法廷に連行しなければならぬ。そこで、かれらは州の法律のさだめるところによって裁判をひらいた。ゴールソンは検事として二時間にわたって被告を糾弾し、プレンティスは商売柄、弁護を買って出た。陪審員が任命され、そのなかには宿屋の主人もひっぱりこまれた。弁護人は声涙ともにくだる弁論を四時間つづけて、かわいそうな一匹の南京虫の無罪を主張した。陪審員たちは結局のところ、被告を無罪とし放免した。いったいその放免された南京虫がどこでどんなふうに生きのびたのかは、あきらかにされていない。 ■屯田兵の入植■一八七五(明治八)年五月一七日、最初の屯田兵が札幌に入植した。屯田兵というのは、平時には農耕に従事し、いったん事あるときには銃をとって戦う、という一種の民兵である。維新後、旧士族をどう処遇したらよいかに頭を悩していた政府に黒田清隆が建議した解決法がそれだ。こうすることによって、士族救済、北方開拓、北方守備という三つの目標が同時に達成できる。けだし名案というべきである。  募集したところ、続々と志願者があらわれた。まず北海道にちかい地域から、というので、宮城、酒田、青森の三県から九六五人がえらばれた。これが冒頭にのべた第一陣である。このあと二五年ほどのあいだに、合計七〇〇〇世帯、四万人ほどが屯田兵として入植し、七万五〇〇〇町歩にのぼる国有地を開拓した。政府の保護のもとに、軍隊的な組織で開拓するのだから、その成果は大きかったし、屯田兵は二〇〇戸ぐらいを単位にして新しく屯田兵村という集落をつくることもできた。北海道が新天地として一般の人びとの眼に映ずるようになり、移住者の数がふえてくると、屯田兵にあたえるべき土地もなくなってきたので、この制度は一九〇三(明治三六)年に打ち切りとなった。   5月18日 ■ふたつのインド■大航海時代のヨーロッパ人をかきたてたのは、いうまでもなく東洋の香料であった。どのようにして東洋に達することができるか。もちろん、古くからシルク・ロードはあったし、地中海をアラビア半島のつけ根まで航海し、そこから陸路紅海に出て、ふたたび海上に出てインドに達する、といったようなルートもあった。しかし、これらの交通路は、すでにイタリア人やアラブ商人に押えられてしまっている。直接インドまで行くことはできないものか──イベリア半島の二大強国、スペインとポルトガルは、しのぎを削る大接戦を開始した。一五世紀後半のことである。  ポルトガルは、すでに一四八七年にアフリカの西岸沿いにB・ディアシオを送って喜望峰を発見している。ここをまわりきってインド洋に出ることは可能なはずだ。ところが、その後まもなく、スペインではコロンブスが大西洋を西進して新大陸の一部を発見してしまった。コロンブスは、じぶんが発見したのをインドとカンちがいして報告。そこであわてたのがポルトガルである。スペインに先にインドに到着されたのは残念だが、そうかといって、せっかく開拓したアフリカ航路を断念するわけにもゆかない。ヴァスコ・ダ・ガマは国王によって総指揮を命ぜられ、五隻の船団をひきいて喜望峰をまわり、インド洋に出た。  およそ一〇カ月にわたる航海ののち、一四九八年五月一八日、ガマはインド亜大陸の南端をまわって、カリカット(カルカッタ)沖に到着し、同二〇日に上陸した。かれが上陸したのは、まぎれもなくほんとうのインドであった。そこでアラビア商人の妨害を受けながらもとにかく香料を買い入れ、ガマは八月にインドを出て、翌年九月、リスボンに帰着している。そして、それが契機になって、ガマは、第二回めの航海を二〇隻の船団で敢行し、ポルトガルとインドの直接貿易がはじまった。  ところが困ったことに、スペインのほうはコロンブスの発見した新大陸沿いの島をインド諸島と名づけている。つまり、二つのことなったインドが地図上にあらわれてしまったわけだ。やむをえず、そこで、スペインのほうのインドが「西インド」となり、ほんもののインドが「東インド」と呼ばれるようになった。コロンブスのカンちがいは、こんにちまで迷惑をかけている。というのは、ほんもののインド人も「インディアン」だし、西部劇に出てくるアメリカ先住の人びとも「インディアン」だからだ。日常会話のなかでも、ときとして、「インディアン」ということばを使うと、「どっちの?」という問いが返ってくる。新大陸の「インディアン」は「アメリカン・インディアン」という形容をつけなければならない。このごろでは、先住民族といったような意味で「ネイティヴ・アメリカン」という表現が使われるようになったからいいようなものの、スペインとポルトガルの対抗関係は、ふたつの「インド」をつくってしまったのだ。   5月19日 ■勲章物語■特定の功績をあらわした人に、その殊勲を記念するため、ある種の象徴物をあたえる、ということは古くからおこなわれていた。たとえば、古代ギリシャで、競技の優勝者にトロフィーをあたえる、などというのがその例だ。トロフィーというのはもともと、神に祭ったウシの血を飲むための盃。要するに神意の象徴であって、この盃をあたえられたということが、その本人にとってなにものにもかえがたい栄誉であったことは容易に想像できる。  中世になると、騎士たちはおしなべて勲章をあたえられた。それは、いっぽうでは功績をしめすものであるとともに、他方では騎士階級にぞくしているということの身分証明書のような意味をもになった。勲章のことを英語ではオーダーというが、このことばには階級という意味と、騎士団という意味とが二重にかさなっている。そして、絶対王制期になると、ヨーロッパの王様たちは、つぎつぎに勲章を制定して宮廷のなかでの力のバランスをはかり、かつ組織の強化につとめた。信賞必罰はもちろん勲章授与にあたっての原則だったが、ときには勲章は権謀術策の手段としても使われた。勲章を軽蔑する人もいるが、もらえばうれしいものだ。それはさまざまな政治的意味をもちうるのである。  勲章という物的シンボルにもっとも熱心だったのはイギリスだ。イギリスの勲章は、オーダー、デコレーション、メダルの三種類にわかれ、それぞれが細分化されているが、別格に高いふたつの勲章はヴィクトリア・クロスとジョージ・クロスである。このふたつは女王、または王のみがあたえられるものだ。王制をその政治的原理とする国では、依然として勲章をあたえるのは、こうした最高勲章をもつ王なのである。  王制が崩れた国ではどうか。権力の構造が王制から共和制に移行しても、功績のあった人物になんらかの栄典をあたえる、という考えは継続した。たとえばフランスでは、一八〇二年五月一九日にナポレオン一世によって制定されたレジオン・ド・ヌール勲章があるが、共和制になってからもその制度勲章は残り、大統領が賞勲議定官会議の審査にもとづいて、フランス国家への貢献度の高かった人びとにこの勲章をあたえる、ということになっている。  日本では、すでに大宝律令で恩賞制度が明文化されており、勲位と位階が制定されていた。そうした伝統のうえに西洋から輸入した勲章をかさねあわせたのが日本近代の勲章制度である。はじめは大宝律令にもどれ、という意見もつよかったが、結局のところ、モデルになったのはイギリスであった。日本での勲章制度は一八七五(明治八)年太政官布告で定められ、それはまず、新貴族制度の確立と維持のために利用されたが、のちに一般民衆にもその功によってあたえられるようになった。   5月20日 ■対面交通のはじまり■歩行者の左側通行についての規定はどこにもない。馬車については一八七二(明治五)年三月に馬車規則というのがあり、このなかで「車行逢う時は、互に左に避くべし」というのが左側通行の最初の法令であった。おもしろいことに、軍隊だけは別であって、「軍隊並に砲車輜重車に限り右方に避くべし」とある。  いったい日本の交通が伝統的に右がわであったのか左がわであったのかはわからない。ただ、橋の名前は右がわの欄干に書き、表札は門柱の右がわにかかげる、といった習慣からみると、どうやら右であったという説もあるし、武士の鞘当てを避けるため左であったという説もある。だが、とにかく、歩行者に関しては右でも左でもよかったのだ。そこまで規制もできなかったし、またその必要もなかった。  しかし、自動車時代に突入すると、事態はすっかりかわってくる。とりわけ歩車道の分離のないところで、車も人も左がわ、ということになると、人が後から車にはねとばされる可能性が高い。そこで一九四九(昭和二四)年五月二〇日に左車右人、というあたらしい対面交通の原則が法制化された。ただし、依然として、歩行者は右を歩こうと左を歩こうと、いっさい罰則はうけない。 ■バルザックとコーヒー■H・バルザック(一七九九年五月二〇日生)は西洋の近代作家のなかでもっともコーヒーを愛好した人物であった。かれは午後六時にベッドに入り、深夜一二時に起きると即座に執筆にとりかかり、その日の正午までぶっ続けに一二時間、ひたすらに書きつづけるのを日課としていたが、その執筆中、かたときもコーヒー・カップを手ばなすことがなかった。かれは、このコーヒーという飲料について、こんなふうに書きのこしている。 「コーヒーが腹中にはいると、即座に活気が出てくる。ちょうど戦場における軍隊のように生き生きとしたアイデアが生まれ、記憶のなかに眠っていたものがつぎからつぎへとその姿をあらわしてくる。論理の道筋がきちんと見えてくるし、機智のひらめきが頭のなかをかけめぐる。わたしの顔にはしぜんと朗らかなほほえみが浮かび、わたしは紙とペンだけを相手にしごとに熱中することができるのだ」  バルザックは、同時に、美食家かつ大食家であった。かれの食事の記録をみると、一回の食事にカツレツを一ダース、カモを一羽、それにカキを一一〇個たいらげたことがある。それだけ食べたあとで、デザートに挑を一〇個食べたというからすさまじい。それにくわえてコーヒーは飲みつづけ。かれの精力的な創作活動の背景には、かくのごとく旺盛な飲食活動があったのである。   5月21日 ■自動車のマスコット■一九二七年五月二一日、リンドバーグの操縦する「スピリット・オブ・セントルイス号」はパリのブルージェ飛行場に着陸した。三四時間にわたる長距離飛行でリンドバーグは疲れ果てていたが、この着陸の瞬間から、かれは二〇世紀の英雄のひとりとなった。  この飛行はのちにかれの著書『翼よあれがパリの灯だ』でさらに有名になったが、この本を読んでみると、かれの大西洋横断は厳密な意味での単独飛行ではなかった、ということがわかる。つまり、リンドバーグの飛行機には同乗者がいたのだ。その同乗者は一匹のハエ。どこでまぎれこんだのか、この一匹のハエが操縦席のなかを飛んだり、ときには羽を休めたりしていたのである。完全な孤独と不安のもとでの飛行中、リンドバーグはこのハエを伴侶として、ハエに語りかけ、ハエの存在に力づけられて操縦桿をにぎっていたようなのだ。  孤独な操縦者ともの言わぬ伴侶、という組みあわせは、ほぼおなじ時期に、日本でもちがったかたちであらわれはじめている。一九二七年といえば円タクという名のタクシーが東京市内を走りはじめていた時期だ。そして、そのころに、タクシーの運転手のあいだには、ひとつの怪談が流布していた。この怪談によると、深夜、タクシーを走らせていたら妙齢の婦人が手をあげてよびとめる。客席にすわった婦人は、青山まで、という。青山のちかくにくると、墓地のほうへ、と声をかける。薄気味わるいが、とにかく青山墓地のなかに入り、このへんですか、と声をかけると返事がない。そこでふり向いてみると、乗っていたはずの婦人の姿は忽然と消えている、というわけ。  この怪談はこんにちもなおつたわっているが、比較民俗学からいうと、この話の母胎になっているのはロンドンの辻馬車である。ロンドンでは、一八世紀ごろから、辻馬車の馭者のあいだで同様な怪談がひろまっていた。それがどういう経路であったか知らないが日本に輸入されて、この青山墓地怪談に転化したらしい。しかし、いずれにせよ、気味のわるい話だ。どうにかして、こういう近代版の幽霊からわが身を守る方法はないものか。そこでタクシーの運転手たちがいつとはなしに発明したのがマスコット人形である。これをバックミラーのあたりにぶらさげておくと、幽霊よけになる、というのだ。  リンドバーグとはくらべものにならないが、タクシーの運転手もまた孤独な操縦者である。とりわけ深夜に走るというのは一種の不安をともなう。だが、たとえ象徴的であれ、マスコット人形をぶらさげておけば、それが同行者ないし伴侶になって、孤独感から救われるというわけだ。こんにちでも、日本の自動車の多くは、マスコットを同行させている。むかし、巡礼などは、ひとり旅のときに笠に「同行二人」と大書して旅行した。そうした伝統もマスコット人形のなかに生きているのである。   5月22日 ■乗客ゼロの処女航海■一五世紀以来のいわゆる「大航海時代」をつくったヨーロッパの船は、ひとつの例外もなく帆船であった。もちろん、操船術がたくみであれば、風向きがどうであろうと、船を思いのままにあやつることは可能だったけれども、一定の方向に、しかもかなりのスピードで船をすすめるためには、内燃機関による動力にたよるほうがどれだけ効率がよいかわからない。  そこで、従来の帆船に補助的にエンジンをつけてみよう、というくふうがうまれたのも当然であった。そこで三五〇トンのアメリカ船「サバンナ」号は、その装備をほどこして一八一九年五月二二日、アメリカのジョージア港を出帆し、大西洋を横断して、一路イギリスを目指した。リバプール港に無事到着したのは同年六月三〇日。  しかし、この蒸気エンジンは、外輪をうごかす形式のものであって、出力九〇馬力。騒音がひどく、せっかく用意した三二室の客室にはひとりも乗客は乗ってくれなかった。それにくわえて、燃料の関係で、エンジンがまわったのは、一カ月余にわたる航海のなかで、わずか八〇時間ほどにすぎなかった。実用的には、在来型の帆船と、この補助動輪つきの新型船のあいだには、たいしたちがいはなかったのである。ただ、こうした実験がいくたびもくりかえされることによって、「黒船」が誕生し、船舶史のうえで、帆船から汽船への大転換が、その後五〇年ほどのあいだに完成したのであった。 ■ワットの発明?■ジェームズ・ワットは一七七五年五月二二日に蒸気機関の特許をとった。そして、ワットが、ヤカンのフタが蒸気で持ちあげられるのにヒントを得て、それをエンジンに応用した、というエピソードは多くの人が知っている。しかし、ほんとうは、ワットは蒸気機関の発明者ではなかったのである。  じっさい、蒸気機関の初歩的なものは、すでに一七一二年にT・ニューコメンによって発明され、ダッドリー伯爵の所有するコーニグレ炭坑の排水用に使用されていた。そして、この機関は、深い炭坑の開発を可能にしたのである。ワットは、ニューコメンの発明をもとに、シリンダーとはべつな容器に蒸気を密閉して蒸気機関の仕事効率を飛躍的に向上させたのであった。つまり、ワットは、蒸気機関の「発明者」ではなく、その技術革新をおこなった「改良家」と呼ばれるのがふさわしい。   5月23日 ■キッド船長の悲劇■キッド船長、というと残忍無比の海賊、ということになっているが、かれの行為の真相はかならずしも正確につたえられていない。キッドは一六四五年スコットランドに生まれ、船乗りとなって、三五歳のころにはニュー・ヨークに家庭をもち、ここを基地として西インド諸島への商船の船長として手腕を発揮していた。アメリカの沿岸にあらわれたフランス船を追いちらした、という功績で、かれはニュー・ヨーク市議会から表彰され、善良な市民として一身に尊敬をあつめていたのである。  そうした世評も手つだって、かれは、西インド諸島でイギリス商船をおそう海賊たちを討伐べく任務をあたえられていた。つまり、キッドは海賊なのではなく、海賊退治がその公式の役割だったのである。かれは忠実に任務を遂行し、海賊から没収した船荷をアメリカにはこびつづけた。  だが、不運なことに、かれの船「アドベンチャー」号はやがて破損し、乗組員はコレラにかかってつぎつぎに死んでいった。乗組員を補充してみたら、これがほとんどならず者。キッド船長は、海賊船だけを攻撃するという方針を変えなかったが、乗組員たちは、海上で遭遇するすべての船におそいかかり、キッド船長の命令は完全に無視されることになってしまった。そのうえ、キッドは、乗組員を満足させるだけの食料品も賃銀ももっていなかったから、「アドベンチャー」号はついに海賊船にならざるをえなかったのである。そして、キッド船長は、いつのまにやら大西洋を航行するすべての商船から凶悪な海賊の頭目と見なされることになった。  かくしてキッドはとらえられ、裁判の結果、死刑を申しわたされた。かれが絞首刑に処せられたのは一七〇一年五月二三日。しかしかれは、最後までおのれの潔白を叫びつづけていたのである。 ■グライダーの起源■流体力学の理論によって最初に設計され、かつ滑空に成功したグライダーは、一八五三年イギリスのジョージ・ケリーの製法にかかるものであった。もっとも、ケリーはこれをみずから実験する勇気がなく、ヨークシャーの丘の上から、嫌がる馭者《ぎよしや》を無理矢理にグライダーに乗せて滑空させた。  近代のグライダーを本格化したのは、ドイツのオットー・リリエンタール(一八四八年五月二三日生)である。かれは一八九一年ごろからグライダーの設計と飛行に手をつけ、さまざまな改良を加えながらグライダーの性能を向上させたが、一八九六年、実験飛行中に墜落死してしまった。このころのグライダーは、単葉または複葉の翼の下に人間がぶらさがるという方法であって、要するに、こんにちのハング・グライダーのようなもの。いやハング・グライダーは、リリエンタール型への回帰といってもよい。  二〇世紀になってからのグライダー技術の進歩は、圧倒的にドイツによってもたらされた。それというのも、第一次世界大戦で敗戦国となったドイツは、エンジン搭載の飛行機の開発や製造を禁止され、のこる手段としてグライダー研究に飛行技術のすべてを投入したからである。リリエンタールは、その意味でも、ドイツ航空史の父というべきであろう。   5月24日 ■ボタンとナンセンス■一三二一年五月二四日付で、イギリスの王エドワード二世の宮廷に提出された靴屋からの請求書があり、それには「絹のふさと銀箔の飾り玉のついた靴六足。一足につき五シリング」とある。ここにいう飾り玉というのはボタンのことで、この当時は、衣服だけでなく、靴にもボタンがちりばめられていた。  たしかに、ボタンには実用的な機能があり、古くは、モヘンジョダーロの遺跡からも衣服をとめるためのボタンが発見されているが、フランス語として定着した「ボタン」ということばは、bouter(目立たせる)という動詞から出たものであって、要するに装飾がその主たる用途であった。こころみに、こんにちの男たちの服装をかんがえてみてもよい。ワイシャツのボタンはともかくとして、背広の上衣には、合計すくなくとも一〇個以上のボタンがついているけれど、そのなかで実用的機能をはたしているものは、せいぜい一、二個であるにすぎない。着かたによっては、じつのところ、ボタンなどひとつも要らないのである。ボタンというものは、おおむね非実用的なものであって、とりわけ、近世のヨーロッパでは、はじめに紹介したエドワード二世の例からもわかるように、高価な貴金属類を用いてボタンをつくり、それによって富を競ったのである。中国の清朝時代には、官吏は帽子にボタンをつけたが、その材質は、サファイア、貝、金、銀、とさまざまであり、それがそのまま、官吏の位階をしめした。つまり、ボタンというものは、一種の象徴であることが多かったのである。  ちなみにつけくわえておくと、男の上着の袖についている三つのボタンは、ナポレオンの軍隊の兵士たちからはじまったもの、といわれている。つまりロシア進攻作戦にあたって、ナポレオン軍の兵士たちは風邪をひき、水っ洟を服の袖でふく、というぶざまな習慣を身につけてしまった。そこで、ナポレオンは、兵士たちの袖のその部分にボタンをつけて、鼻をふけないようにした、というのである。いずれにせよ、ボタンにまつわる物語にはナンセンスが多い。 ■駕籠でゴルフ■明治期の新興都市神戸は、なにかにつけてハイカラ好みであった。それというのも、横浜とならんで神戸はあらたな開港場であって外国人がたくさんその居留地に住みはじめたからである。そして、年月が経つにつれて、かれらはゴルフ場をつくろう、とかんがえるようになった。コース用地としてえらばれたのは、六甲山頂の八反ほどの土地で、地主とのあいだに年間一六円で賃貸契約がむすばれた。この日本最初のゴルフ・コースの開場は明治三六年五月二四日。兵庫県知事服部一三が始球を打った。  しかし、神戸市内から六甲山頂までの交通はきわめて不便であって、ゴルファーたちは徒歩で登山し、そこでひと息いれてからゲームをたのしむという、たいへんなさわぎであった。けわしい山道を登るのに、いくらかでも便利なように、というので駕籠が使われたこともある。西洋式の籐椅子にカンバスの屋根をつけ、それを駕籠かきがかついでゴルファーをはこぶのである。日本におけるゴルフのことはじめは、けっして容易なものでなく、かつ、漫画的だったのである。   5月25日 ■食堂車のはじまり■日本の鉄道にはじめて食堂車が連結されたのは一八九九(明治三二)年五月二五日。その区間は神戸から津山にいたる山陽鉄道である。大町桂月は、この列車は揺れがはげしい、とボヤきながらも、食堂車がついているのは便利だ、といい、「須磨、舞子、明石など勝景の地を、幾皿の肉と一瓶の酒とに陶然としてすごし」た、と書いている。東日本では、それより二年後の一二月に国府津・沼津間で食堂車が走った。 ■クロノメーターの起源■ヨーロッパの一六世紀は測量学の時代であった。小さいところでは、地主たちがその所有地の面積測量を必要としたし、大きいところでは世界じゅうの海に出かけてゆく航海家たちが地球の計測を必要とした。地球の計測、というのはいうまでもなく経度・緯度の測定である。  それらを測定する装置、つまり経緯儀はルネッサンスの初期から開発がすすめられ、一五一二年にはその第一号が製作されている。しかし、こうした経緯儀は大航海時代の航海家にとっては不充分だった。緯度のほうは、天体観測でわかるが、経度のほうは本国標準時から狂いのない時計を必要とした。そこで、一七一四年五月二五日、イギリスの航海家や海軍の将軍たちがアン女王に請願書を提出し、正確な時計の開発に政府が援助をあたえるよう希望した。  それにこたえて英国議会は賞金二万ポンドをかけて正確な時計を公募した。その条件は西インド諸島までの往復にあたって誤差二分以内、というきびしいもの。  これに応募したのがジョン・ハリソンという大工である。船の振動、温度、湿度の差、そうしたあらゆる変動要因を克服して長い航海のあいだ誤差を生まない時計をつくるのはたいへんな作業だったが、一七三五年にとにかくその第一号作品をつくった。ところが完成品はやたらに大きなものになり、重量三三キロ。いちおう賞金をもらえるはずだったが、関係者は、もっと小型化しろ、と注文をつけ、一七六一年にやっと懐中時計の大きさにすることに成功した。ハリソンは、息子にこの時計をわたし、西インド諸島までの実験航海に同行させた。マデイラ島が近くなった。ハリソンの時計と、舵手の計算とのあいだには角度で言って二度ほどのちがいがあった。舵手は方向を変えようとしたが、船長はハリソンの時計をたよりにしてみようと決心した。結果はハリソンが正しく舵手の経験的計算が誤りであることを立証した。この時計は八日間の航海ののち、わずか五秒しか狂いがなかった。クック船長の航海を可能にしたのは、このあたらしい正確な時計があったからである。ハリソンはここでやっと賞金を手にすることができたが、そのときにはもう八〇歳になっていた。このような海洋時計はクロノメーターと呼ばれる。そして一日の時刻誤差が〇・五秒以下という精度をもつ時計もクロノメーターという呼称をあたえられることになった。   5月26日 ■排日運動の背景■日本からアメリカへの移民は一九世紀のおわりごろから活発になり、二〇世紀はじめにはアメリカにとって無視しえないほどの人口になってしまった。すなわち、一八九〇年にはわずか二〇〇〇人ほどしかいなかった日本人移民は一九一〇年には一三万人にふくれあがり、主としてカリフォルニア州にこの人口は集中した。とりわけ農業についてみると、農業人口の六パーセントは日本人、という集中度をみせるようになった。  日本人は、はたらき者である。どんな職業についてもその勤勉ぶりはおどろくほどだ。ひとのいやがるしごともするし、何時間でもしんぼうしてはたらく。クリスチャンではないから日曜日でも休まない。こんな働きバチがやってきたのでは、遠からずカリフォルニアの労働市場は日本人に占領されてしまうのではあるまいか──そんな不安がアメリカ人のあいだに生まれたとしてもふしぎではない。  そこで、サンフランシスコを中心に、一九〇五年ごろからはげしい排日運動がはじまった。同市の労働組合指導者たちは、「アジア人排斥協会」を組織し、また同市の教育委員会は中国人と日本人の子どもたちをアメリカ人と分離して新設の「東洋人学校」に収容しようとこころみた。一九〇七年になると、日本人への査証《ヴイザ》の発行もきびしく制限されたし、一九一三年には外国人の土地所有が禁止された。外国人ということばが使われているが、それが実質的に意味するのは日本人ということだ。  こうした排日運動はカリフォルニア州からはじまってアメリカ全土にひろまり、ついに一九二四年には連邦議会が帰化権のない外国人の移民を禁ずる「ジョンソン法案」を通過させてしまった。当時の大統領クーリッジはこの法案に反対の立場をとっていたが、法案が成立してしまった以上しかたがない、同年五月二六日、かれはこの法案に署名したのであった。 ■ゴンクール賞の発端■フランスの作家ゴンクール兄弟の兄のほう、すなわちE・ゴンクールは一八二二年のきょう生まれた。文学者として成功したゴンクールは、一八八五年の冬から、自邸を開放して「文学的日曜日」という文芸サロンをひらいた。モーパッサン、ドーデ、ゾラ、そしてアナトール・フランスといった同時代の作家たちがここにあつまり、文学論に花を咲かせた。  ゴンクールは、美術品や骨董品の蒐集に熱心であり、かれの邸内は、古今東西のそうした蒐集品で埋っていた。かれは、文芸の振興を願い、その遺言のなかで、これらの私有財産すべてを売却し、それを基金としてすぐれた文芸作品に賞を贈るように、と指示した。これが「ゴンクール賞」のはじまりである。この賞は、前記のようにして組織された文芸サロンの延長としてのゴンクール・アカデミーの会員一〇名によって審査される。ゴンクール賞は文学賞として、世界でもっとも栄誉ある賞として定評がある。   5月27日 ■史上最悪の竜巻■一八九六年五月二七日、アメリカのセントルイス市の上空には暗雲が立ちこめ、突然、強風が吹きはじめた。昼すぎになると、風速は強まり、時速一二〇キロを記録し、そのため商店や事務所はその扉を閉め、人びとは帰宅しはじめた。五時ごろには、この都市はほとんど真暗になり、稲妻が空を走り、豪雨が降った。そして、そのさなかに、雲の一部にぽっかりと穴があき、そこから、ふしぎな緑色の空がみえた。これが竜巻のはじまりであって、まずそれは南西部の郊外住宅をめちゃくちゃに破壊し、さらに市街地南部を襲った。この不測の天災から子どもたちを守るべく、ある小学校では子どもを校舎のなかで保護していたが、この学校も完全に巻きこまれ、建物も何人かの子どもたちも空に吹きあげられてしまった。竜巻は、セントルイス市を横切り、多くの住宅や公共建築物が破壊された。この竜巻による死者は四〇〇人におよび、負傷者は数千人をかぞえた。被害は、当時の金額で一三〇〇万ドルと記録されている。 ■ピストルの歴史■一六世紀はじめまでの銃は、ご存じの火縄銃というやつで、これを扱うには片手で銃身をおさえ、片手で点火する、というめんどうな作業を必要とした。だが、一般にホイ—ル・ロックと呼ばれる点火機構が発明されてから事情は一変する。ホイール・ロックとは、こんにちのライターのヤスリのごときもので、これを指でまわすと火花が散って火薬に点火できる、というわけ。この新発明のおかげで、いまや銃器は片手で取扱うことができるようになった。銃身を短くすることが可能になり、軽量化もすすんだ。  最初にこの種の短銃をつくったのは、カミーロ・ヴィテーリなるイタリア人。かれの住んでいた町ピストイアにちなんで、この短銃は「ピストル」と呼ばれるようになり、あっというまにヨーロッパ全土にひろがった。ピストルは容易に隠して携行できるところから、暗殺者たちは好んでこれを使用したので、神聖ローマ帝国のマクシミリアン皇帝は一五一七年にピストル製造を非合法化した。イギリスでも盗賊がピストルを愛用するようになったため、一五四二年にピストル取締法が議会を通過している。  だが、ピストルはその技術革新をいっときもやめることがなかった。レボルバー、そしてオートマチック──さっと腰からピストルを抜いて目にもとまらぬ早業で射撃するガンマン、ということになると、これはもう、古典的ヨーロッパの話ではなく、西部劇の物語である。そういう伝説的西部のガンマンのひとり、ワイルド・ビル・ヒコックは、あの有名なロッククリークの決闘以来、拳銃使いの名手として知られている。かれの誕生日は一八三七年五月二七日。  ピストルは、現代アメリカでも大いに幅をきかせており、実質的には野放し状態だ。統計によると、アメリカにおける殺人の五一パーセント、強盗の三四パーセントにピストルが利用されている。   5月28日 ■ティー・クリッパーの競走■一八六六年五月二八日、「アリエル号」「ファイアリイ・クロス号」「セリカ号」「テーピング号」など、東洋からイギリスに茶を運ぶ快速帆船(ティー・クリッパー)は、ほぼ同時に中国を出発して、南シナ海からインド洋、大西洋におよぶ史上空前の帆船競走をくりひろげた。この日、最初に出発したのは「アリエル号」だったが、各船ともおよそ一日に三〇〇マイルという快速で走り、ときには互いの船体を視界にいれながら、ときには見失いながら、追いつ追われつの競走がつづいたのである。  結局のところ、イギリスのダンジネス沖で一位を占めたのは「アリエル号」だったが、ほぼ同時に「テーピング号」も港に近づいているのに気がついた。同年九月六日のことである。両船を迎えるために、二隻のカッターが港から出てきた。「アリエル号」のキイ船長は、そのカッターと「テーピング号」のあいだに割って入った。したがって、最初にパイロットを迎えいれた、という意味で到着順位の一位は「アリエル号」ということになる。しかし、いったんそこから曳航がはじめられると、「アリエル号」は積荷が多く、吃水が深かったうえ、ちょうど干潮であったため、接岸できなかった。だから、埠頭には「テーピング号」のほうが先に着いた。この競走の最終ゴールはロンドンのドックにその見本をとどけることにあったわけだから、結局のところ、一位の栄冠は「テーピング号」の頭上に輝いた。このティー・クリッパーの賞は、ブルー・リボン賞と呼ばれるものであって、このことばは、その後もさまざまな賞に転用された。じっさい、このティー・クリッパー競走は、世界帆船史上におけるもっとも雄壮なもので、ここで帆船はその絶頂期に達したというべきであろう。ウイスキーの銘柄として有名な「カティ・サーク号」も、ティー・クリッパーの後期の傑作であったが、残念なことにタイミングがわるく、建造され就航するとほぼ同時に汽船の時代に突入したので、華々しいクリッパー競走には実質的に参加していない。 ■花火のはじまり■隅田川の川開きの花火が最初にあげられたのは一七三三(享保一八)年五月二八日のことであった。  花火がいつどんなふうにして発明されたかはあきらかでないが、どうやら一三世紀末にフィレンツェでつくられたものであるらしい。それが一六世紀ごろになってヨーロッパ各地に広がる。ヘンデルの名曲「王宮の花火の音楽」などが生まれたゆえんである。初期には、硝石・硫黄・木炭が主材料だったが、のち塩素酸カリが使われるようになってから着色も自由になった。  日本では一五八五(天正一三)年の夏に皆川山城守と佐竹衆とが対陣しているときに、双方が花火をあげたのが最初だという。すでに鉄砲は伝来していたわけだから、それとともに火薬の調合法などもつたわり、そうした火薬技術のひとつに花火があったとしてもふしぎではない。徳川時代になると、花火上手の唐人が江戸にやってきて江戸城二の丸で花火を打ちあげ、家康がそれを見た、という記録もある。そしてこのころから、市中には花火師という職人が出現して子ども相手に線香花火などを売り歩くようになった。だが、まだ塩素酸カリが知られていなかったから、川開きの花火師、「玉屋」「鍵屋」などの打上げ花火も、こんにちの花火にくらべれば、きわめて単調なものであった。さまざまな色彩を競う打上げ花火がつくられるようになったのは、一八七九(明治一二)年ごろからである。   5月29日 ■ああ大砲!■という司馬遼太郎氏の作品があるが、火薬を使った大砲がいつ、誰によって発明されたのかはわかっていない。一説によると、一二五〇年ごろ、スペインに攻めこんだアラブ人が大砲を使った、というが、大砲は一三〇〇年代に中国人が発明したのだ、という説もある。  しかし、大砲を武器とした最初の戦争として記録に残っているのはトルコ軍によるコンスタンチノープル攻略作戦。一四五三年のことだ。オットマン・トルコのサルタン、モハメッド二世は大軍をもって、現在イスタンブールとして知られるこの都市を攻撃したのだが、このとき、ハンガリア製の大砲六八門が動員された。そのなかで最大のものは砲身の長さ八メートル、重さ二〇トン。それをうごかすのに二〇〇人が必要だった、という。  コンスタンチノープルは、総延長二〇キロにおよぶあつい壁で防御された城郭都市だ。トルコ軍は、この壁を崩すべく、大砲を撃ちつづけた。もっとも、砲弾は炸裂弾でなく、巨石であったから、要するに強力な投石器というのがふさわしい。五〇日間にわたって砲撃がつづけられ、何回か城壁に穴をあけることができたが、城内の兵士たちは、穴があけられるたんびに敏速に石を積んでその穴を修復してしまう。砲撃戦といっても、いささか間のぬけた戦争だ。  だが、この穴あけと修復の競争にも、ついにおわりがやってきた。一四五三年五月二九日、城壁の一部が修復不可能なほどに大きく崩れ、そこに一二〇〇人のトルコ兵が突入してこの都市を占領した。トルコ人は征服後もこの大砲をこの地にとどめ、それからなんと三世紀半後の一八〇七年、こんどは黒海に姿を見せたイギリス艦隊にむかってふたたび発射したのである。この大砲でイギリスの水兵六〇人が殺された。いま、この大砲は、めぐりめぐって、ロンドン塔で展示されている。 ■エベレスト物語■一八五二年、インドの測量局に書記のひとりが息せき切ってとびこんできた。かれは上司のデスクのまえに立って「わたしは世界一高い山を発見しました」と報告した。それがエベレストである。測量技師たちは六地点からこの山を測量し、高さ二万九〇〇〇フィート、という推定値を出した。しかしこの数字は、あまりにもキリがよすぎてかえってインチキくさい。そこで報告書では二フィートをおまけして、二万九〇〇二フィート、という「作文」をした。  だが、じっさいには、エベレストはこの「作文」よりもさらに高かったのである。一九五四年におこなわれたより正確な測量の結果は二万九〇二八フィートであった。いずれにせよ世界最高の山であった。このエベレストに最初に登頂したのはジョン・ハントを隊長とするイギリス隊。このパーティは南がわのクンプ氷河をたどり、サウス・コルからヒラリーとテンシンが頂上をきわめた。一九五三(昭和二八)年五月二九日のことである。ヒラリーは、ニュージーランド人で、養蜂がその本職であった。   5月30日 ■最初の飛行場■ウイルバー・ライト(一九一二年五月三〇日没)は弟のオーヴィルと共同で飛行機の製作と実験にとりくみ、一九〇五年に、フライヤー三号ではじめて実用的な飛行に成功した。フライヤー三号は翼長一二メートル。一六馬力で二個のプロペラを回転させ、時速六〇キロで三〇分以上飛びつづけることができた。  ライト兄弟のこのフライヤー三号の最大の特徴は、飛行機をその操縦性によって安定させようという思想を根本にしていた、ということである。飛行機についてはヨーロッパでも研究開発がすすめられていたけれども、ヨーロッパの発明家たちは、飛行機をいわば空飛ぶ自動車としてかんがえており、機体じしんが空中で安定しなければならない、という先入見にとらわれていた。しかし、じっさいに空中を飛行してみると、大気はつねに流動的であって、気流や風向きのおかげで飛行機はけっして安定的ではありえない。鳥の飛翔を見てもわかることだが、翼の向きをかえたり、斜めにかたむけたりして、むしろそうした気流の変化に飛行機をあわせてゆくことこそが実用への第一歩なのだ。そのことをライト兄弟はそれまで数年間の経験で知っていた。  その意味でフライヤー三号は方向舵や補助翼によって前後・上下・左右の三方向軸に自由に操縦できる、というすばらしい性能をそなえた最初の飛行機だったのである。兄弟は、フライヤー三号で円型のコースを飛んだり、8の字型の飛行をしてみたりした。さらにこれを二人乗りにしたり、二台の飛行機で兄弟の編隊飛行をしたりもした。テストは四〇回以上もくりかえされ、いずれも成功している。  しかし、ここまで飛行機の性能があがってくると、一定の離着陸の場所が必要になってきた。フライヤー三号は、地表に固定されたモノレールのうえからカタパルト式に離陸し、着陸するときには機体の接地面にとりつけられたソリを利用して平地に降りていたのだが、原っぱをやたらに使っていたのではぐあいがわるい。そこでフライヤー三号の成功とともに、オハイオ州デイトン郊外のハフマン・プレイリーにライト兄弟専用の飛行場ができた。これが世界における飛行場のはじまりである。 ■南北戦争と麻薬■きょうはメモリアル・デー、つまり南北戦争の犠牲者の追悼記念日。このアメリカの内戦にはいろんな秘話があるが、当時のアメリカの軍医たちは、モルヒネを過剰に使った。はげしい重傷にあえぐ負傷兵たちの痛みをとるのに、モルヒネはきわめて有効であった。いや、戦火のなかでは、モルヒネは万能薬というべきであった。精神が錯乱した兵士も、風邪をひいた兵士も、モルヒネをあたえておくと静かになった。  じっさい、この期間にアメリカが輸入したアヘンの量は厖大であって、戦前の一八五八年度でさえ七万ポンドほどのアヘンを輸入している。だが、これはゆたかな北軍の財産であって、南軍はアヘン不足になやんだ。そこで北部が欲しがっている木綿と南部の欲しがっているアヘンとが、ミシシッピー沿いのメンフィスでひそかに交換されていた。要するに南北戦争は両軍ともアヘンの濫用で戦った戦争なのであった。そして、戦争が済んだあと、しらべてみると、北軍の生き残り将兵のうち一〇万人は、あきらかにモルヒネ中毒になってしまっていたのである。   5月31日 ■塔の歴史■五月三一日は東京浅草の浅間《せんげん》神社の植木市。浅草の富士山というと、まことに奇異な感じがするが、その理由はこうだ。一八九七(明治三〇)年ごろ、浅草に富士山をつくる、という奇想天外なアイデアを出した人物がいる。べつだん土をはこんできて山をつくるというのではない。太い材木を組みあわせて骨組みをつくり、その上にしかるべく材料を貼って彩色し、小型の富士山の模型をつくる、というわけだ。この富士山のヒントになったのは、浅草寺の修復工事。本堂の修復となると大きな足場がかかる。その足場を組んでエ事をはじめてみると、参詣客のなかには、無断でどんどん足場に登る連中がいる。なるほど、こうして本堂の屋根の高さまで登ると眺望はよろしい。三六〇度、さえぎるものは何もなく、東京市内が見おろせる。  その人気を見ていて、それではいっそのこと、本堂よりも高い構造物をつくったら、人は金を払ってでもそこに登るにちがいない、とかんがえたのだ。かんがえただけではなく実行に移した。その高さ四六メートル。これが木造なのだから、たいへんな建造物である。現在の建築法規からみたら、無謀としか言いようがないが、とにかくつくってしまった。つくってみたらたいへんな評判で東京名物になった。四六メートルといえば、現在の丸の内あたりのふつうのビルよりさらに一〇メートル以上高い。眺望絶佳であったはずだ。  しかし、こういう無茶なハリボテの建造物であったがゆえに、台風ひとつで簡単にこわれてしまった。浅草の富士山は、その意味でまぼろしの建造物ということになろう。ただこの伝統があったからこそ、じつはその後に浅草十二階というのが計画されたのである。いや、東京タワーだって、この伝統の上にのっていると見てさしつかえない。人間は高いところに登るのが好きなのだ。  ところで、浅草に富士山をつくるという話をききつけて、それなら浅草でなく駿河台につくるべきだ、と言いはじめた人がいる。文学士辰巳小次郎である。辰巳は、その数年まえ、駿河台にできたニコライ堂を苦々しく思っていたひとりである。なにしろ、ニコライ堂は駿河台上にそびえ立っており、そこから皇居は丸見えである。こともあろうに外国の建造物が皇居を見おろすのはなにごとか、というわけ。だから辰巳はこの富士山を駿河台に誘致して、ニコライ堂と皇居のあいだに建て、それで目かくしをしてしまおう、と提案したのであった。この誘致計画は失敗におわり、前記のごとく、ハリボテの富士山は浅草にその残骸をさらしたのである。いや、浅間神社が浅草にある以上、この富士山の所在は浅草以外のところであってはならなかったのだ。 [#改ページ]   六  月   6月1日 ■音楽家とカラー・フィルム■二〇世紀のはじめ、ニュー・ヨークにゴドフスキー、そしてマネス、というふたりの若い音楽家がいた。かれらは、おなじ音楽学校に学び、ともに将来、コンサートの舞台に登場しようとひたすら勉学にはげんでいたが、同時に写真にも凝っていた。そして、どうにかして天然色写真が撮れないものか、と、演奏の暇を見つけてはシロウト研究をつづけていた。まず眼をつけたのは、三原色の原理を応用して三枚のネガをつくり、これをかさね焼きにする方法。だが、じゅうぶんな成果をおさめることはできなかった。一九二一年、かれらは化学的方法を採用することにし、実験を継続した。  実験には、ずいぶん費用がかかった。このころになると、かれらは演奏家としてもいくばくかの収入を得ることができるようになっていたが、研究費はその収入を上まわり、赤字つづきであった。だが、かれらの研究に興味をもった財界が二万ドルの資金援助をしてくれることになり、さらにフィルム・メーカーのE・コダック社の研究部長が、必要な化学薬品をなんでも調達しよう、と申し出てくれた。ふたりの音楽家たちは、これに力を得てその後九年間、自宅の実験室で、歌をうたいながらカラー・フィルムの開発に専念したのである。  一九三〇年、かれらは正式にコダック社から招かれて、同社の研究開発部門でしごとをすることになった。だが、かれらの研究室はまことに珍であった。というのは、化学物質の化合やら分離やら現像作業やらの時間を計測するのに、かれらは時計をいっさい使わず、器楽合奏をしたり、合唱をしたりという風がわりな方法を採用したからである。ひとつの曲を正確な時間で演奏することと、化学実験の時間をはかることと、そのふたつをかれらは並行しておこなったのである。その甲斐あって、最初のカラー・フィルムが完成した。一九三五年のことである。きょうは「写真の日」。   6月2日 ■相撲の変遷■一九〇九(明治四二)年六月二日、両国の国技館が完成した。相撲の歴史はきわめてふるく、お釈迦さまのころのインドでは、ひとりの女性を争う男たちは、相撲をとって、勝ったほうがその女性と結婚する、というルールを守っていたようである。だいたい、「相撲《そうぼく》」という文字じたい、釈迦伝の漢訳のときにあてはめられたことばだ。相撲は、したがってインドから中国を経て日本にやってきたもののようである。  日本での相撲は神事ともかさなっていたけれども、奈良時代になると宮中の行事にとりいれられ、相撲《すまいの》節会《せちえ》という宮中儀式になった。これは天皇以下貴族が見物する格闘技であって、力もちの相撲人《すまいびと》が全国からあつめられた。左右両組にわけられた相撲人は、宮廷内で勝負を争うのだが、左の相撲人は葵の花を、右の相撲人は夕顔の花をそれぞれ髪にさして取り組んだ。このばあい、勝敗の判定は相手方をたおすというのが原則であって、土俵をつくり、そこから押し出したり突き出したりすることが勝敗の基準として採用されたのは織田信長のころからである。それまでは、八メートルないし一〇メートルくらいの人垣のなかで取組みがおこなわれ、その人垣のなかに押しこんだら勝、というルールがあったらしいが、信長はたいへんな相撲ファンで、人垣のかわりに土俵を円型にならべ、そのなかで相撲をとらせたらしい。土俵ができたことで相手を土俵のそとに出すわざがくふうされ、相撲は洗練されたわけだから、信長は日本における相撲の創始者であり、かつ大スポンサーであった、といってよかろう。  現在の相撲の土俵は直径四メートル五五センチ(一五尺)であり、土俵場は北を正面、その左を東とさだめ、それをかこむ四方の隅に柱が立てられた。柱はその方角によって色がちがい、北西が黒、北東が青、南東が赤、南西が白、というふうに定められた。いわゆる四本柱である。この四本柱は、一九五二(昭和二七)年まで使われていたが、この年の秋場所から取り払われ、そのかわりに吊屋根の四隅にそれぞれの伝統的な色の房が垂れ下るようになった。なぜ四本柱が廃止されたか、というと理由は簡単であって、テレビ中継のカメラにとって柱が邪魔になるからである。 ■野球の起源■相撲の話が出たついでにテレビ・スポーツの双璧たる野球のことにふれておこう。野球はアメリカ産のスポーツだが、伝説によると、この創始者はA・ダブルデー将軍だという。ダブルデーは一八三九年、イギリスの「ラウンダーズ」というゲームに改良を加え、ニュー・ヨークで野球をはじめたとされている。しかし、歴史的証拠からというと、一八四四年、測量技師のA・カートライトが基本的ルールをつくった、という説のほうが正しいようだ。かれは野球場のスケッチをのこしているし、世界最初のチームも編成しているからである。ちなみに、きょうは名プレーヤー、L・ゲーリッグの命日(一九四一年)である。   6月3日 ■腕時計と皇后■いまでは誰でもがしている腕時計──これが最初に発明されたのは一七九〇年製作者はジュネーブの時計技師ジャック・ドロと記録されている。そのそもそもの発想は、婦人用のブレスレットに時計をとりつけよう、ということであった。したがって、これはどちらかといえばアクセサリー、それも貴金属の種にかぞえられるべき性質のもので、西洋では、こんにちでも腕時計は貴金属商がとりあつかっていることが多い。  こうした古典的腕時計のなかで現存のものとしてはジョセフィーヌ皇后(一七六三年六月三日生)が使ったものがある。これは真珠やエメラルドをちりばめたブレスレットに純金製の時計がとりつけられた豪華版で、パリの宝石商ニノがデザインしたものとつたえられている。しかし、この種の腕時計はあまりご婦人がたの関心を惹《ひ》くことがなかった。女性の腕時計がファッションになったのは二〇世紀になってからのことだ。  いっぽう、男のほうは、といえば、その実用性から、第一次大戦中に従軍将兵が使うようになったのがそのはじまりである。それまでは懐中時計が主流だったのに、戦場でのはげしい活動には腕時計のほうがずっと便利だということがわかったからだ。男がもっぱら正確な時間、堅牢性、実用性から腕時計をもとめ、女性が腕時計にファッション性、装飾性をもとめるのはこんにちでもかわらないが、その歴史からみて、こうした腕時計についての男女差がうまれたのは当然であろう。女はおしゃれ、男は無粋なのである。 ■ジョージ五世の入墨■入墨は、日本では魏志倭人伝にもえがかれているように、古代からおこなわれていた習慣であった。そして、この風習は太平洋諸島にも共通しており、日本と南方文化とのかかわりを物語るものともいえよう。ついでにいっておくと、入墨を英語でtattooというのは、クック船長がポリネシア語で入墨を意味する「タタウ」ということばをローマ字化したのがそのはじまりであった。  日本の入墨は、文化・文政のころに極彩色の人体芸術となり、いわゆる「倶利迦羅紋々《くりからもんもん》」の背中が銭湯で幅をきかせるようになったのだが、明治初期、淳風美俗を害するというので禁令が出た。しかし、明治一四年、のちにジョージ五世となったジョージ王子(一八六五年六月三日生)が日本を訪問し、入墨芸術の名人・彫宇之に入墨をしてもらった。その模様は竜であり、それは、イギリス国王の腕をみごとに飾ったのであった。そうした事情もあって、禁令は出足をくじかれたかたちになってしまったし、いっぽうイギリスでは、クック船長以来、船乗りたちのあいだでおこなわれてきた入墨がいよいよさかんになったのである。   6月4日 ■浪花節の著作権■日本のレコード産業の基礎をつくったのは浪花節である。たとえば吉田奈良丸は一九一〇(明治四三)年から三年間に、合計四六面のレコードを吹込んだが、生産が注文に追いつかず、レコード工場は昼夜二交替でフル操業をおこなった。ところが、これだけ人気が出てくると海賊盤も横行するようになった。要するに、レコードを液槽につけて母型をとり、複製してしまうのである。そうした海賊版を相手どって、桃中軒雲右衛門は著作権侵害ならびに損害賠償の訴訟をおこしたが、一九一四(大正三)年六月四日、被告側の上告によって雲右衛門は逆に敗訴してしまった。このため、しばらくのあいだ、海賊版レコードは堂々と横行することになった。 ■歯ブラシの起源■朝起きると歯をみがく。これはわれわれにとってのごくあたりまえの日常の生活習慣というものであろう。ところで、歯を掃除する習慣はまずインドではじまり、そこからカンボジア、中国に及んだもの、という。歯をみがく道具としては楊柳をその材料としたので、ひろく「楊枝」と呼ばれた。しかし、それはかならずしも、こんにちのツマ楊枝のようなものでなく、むしろ歯ブラシにちかいものであった。なぜなら僧職にある者は毛のついた楊枝を使ってはならない、という例外規定が六世紀ごろの仏典に設けられているからである。逆にいえば、ふつうには毛のついた歯ブラシが使われていた、ということだ。  こんにちのような形式の歯ブラシが歴史上はじめてその姿をあらわすのも中国であり、一五世紀には、すでに木の柄に剛毛を植えた歯ブラシが登場している。西洋に歯ブラシがつたわったのは一七世紀。そして、ナイロンを歯ブラシの材料として使ったのはアメリカのウエスト社であって、その発売は一九三八年九月である。きょうは虫歯予防デー。   6月5日 ■あいまいな著作権■一八五一年六月五日はH・ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』がワシントンの「ナショナル・エラ」誌に連載されはじめた日だ。この連載小説は大きな反響を呼び、その連載中から、これを舞台劇として脚色したい、という申込みが殺到した。しかし、敬虔《けいけん》なキリスト教徒であったストウ夫人は、いっさいの劇化を拒否した。劇という表現形式じたいに彼女は疑惑を抱いていたらしいのである。そのうえ作品が劇化されることで、小説がほんらいもっている意図が歪曲《わいきよく》されてしまう可能性もあった。  しかし脚色を拒否されても、抜け目のない劇場関係者たちは原著者に無断でどんどん『アンクル・トムの小屋』をドラマに仕立てて上演し、全国を巡業した。まじめなものもあったし、センセーショナルなものもあったが、とにかく一八九〇年代には『アンクル・トム』を売りものにして巡業する劇団の数は五〇〇以上にものぼった。もちろん、そのうちひとつとしてストウ夫人の許可を得たものはない。  そのうえ、原作それじたいについての著作権もあやふやであった。この連載小説が単行本になって出版されたのは一八五二年。ボストンの出版社T・P・ジュウエットは、まず一万部を刷ったが一週間で売り切れ。累計三〇万部まで一気に売りまくった。この出版に関してはストウ夫人は印税をうけとっていたが、当時はまだ国際著作権条約ができていなかったから、ボストンで初版が出てから数週間のうちに、こんどはロンドンのある出版社が刊行を開始。さらにドイツ語版、イタリア語版、フランス語版、なども続々と出た。しかもそのなかには原作をちぢめたり、加筆したり、というインチキ版もすくなくなかった。それにもかかわらず、ストウ夫人はその著作権について、いっさい法的には主張できなかったのである。 ■熱気球上昇す■フランスはリヨン、ジョセフとエチエンヌというふたりの兄弟がいた。姓はモンゴルフィエである。かれらは製紙業をいとなんでいたが、ある日台所の火のうえを屑紙やゴミが飛ぶのをみて、ひょっとして紙袋のなかに熱い空気を入れたら浮上するのではないか、とかんがえた。紙屋だから、そこはお手のもので、さっそくに紙袋をつくって火の上にかざしてみると袋は気持よいほど上昇する。  かれらは、だんだん紙袋を大きくしてみた。大きくすればするほど、それを上昇させるための火力も大きくなるが、かなり巨大な紙袋でもじゅうぶん飛ぶ、という自信ができた。そして一七八三年六月五日、ついに直径三三メートルという巨大な紙袋をつくり、その下で羊毛とワラを燃やしたところ、みごとに空中に浮かび、二キロ半ほど飛んだ。  このモンゴルフィエ兄弟の実験のニュースはたちどころにパリにつたわった。パリにはローベル兄弟という、これまた兄弟コンビがいて、こちらでもおなじことをやってみたい、という。その相談をうけた物理学者のJ・シャルルは、水素を使って気球をあげることに成功。おなじ年の八月のことだ。  いっぽうモンゴルフィエ兄弟のほうも、さらに実験をかさね、こんどは熱気球を飛ばすだけでなく、ニワトリやアヒル、さらに羊などをカゴにいれて気球につるしてみた。この実験は同年九月にパリでおこなわれ、ルイ一六世やマリー・アントワネットもこれを見物した。羊までが飛ぶなら人間が乗っても大丈夫なはずである。そこで人間を乗せた気球を飛ばすことにした。同年一一月、物理学者のP・ロジエとその友人のM・ダルランがモンゴルフィエ型熱気球に乗ることになった。気球は六キロほどふわりふわりと浮いて無事に着陸。このふたりが最初の気球旅行者ということになる。   6月6日 ■亀田丸の冒険■一八五九(安政六)年、箱館で亀田丸という船が建造された。外国人の手を借りず、まったく日本人が自力でつくった船である。その大きさは四万六〇〇〇キログラム、マストを二本立てたスクーナーだ。西洋式航海術のほうはすでに日本の航海家につたえられていたし、コンパス、海図などもととのっていた。船長は武田斐三郎。  この船で航海術を実習するとともに、北海の調査をおこなうため、武田は箱館奉行の命によって一八六一(文久元)年六月六日、箱館を出港した。船は船尾から三〇度に風をうけ、八ノット半というスピードを出すことができた。乗組員は観測器械を駆使して、つねにその位置を正確にはかり、一週間後には間宮海峡を北上してシベリア海岸のアレキサンドロスキに到着した。  そこから北は、海峡の幅はいよいよせばまり、潮流ははげしさを加える。船の速度は落ちて、五ノット、ときには三ノットという低速運航。それでも乗組員は屈せず、七月のはじめ、ついにシベリア北端のニコライスキに入港することができた。そこでおよそ二週間ほど滞在して、おなじ航路をひきかえし、九月はじめに無事に箱館に帰港している。  両がわを陸地ではさまれた海峡の航行とはいうものの、日本人が西洋式航海術を身につけた学習力のはやさにはおどろくべきものがある。だいたい、船長の武田は、箱館の諸術調所教授で、蘭学者としては有名であったが、船の実際的運用をおこなうことなど、これがはじめて。たまたま、その三年ほどまえに箱館に来航したアメリカ軍艦ミシシッピー号でいささかの手ほどきを受け、英文の航海術入門書を読んでいたにすぎぬ。それがとにかく、きっちりと毎日、緯度・経度をはかりながら、これだけの航海を完了したのである。 ■フォード対シボレー■一九〇八年にはじまるフォードの自動車大量生産は自動車の歴史のうえの大革命であった。というのは、それまでの自動車が、専門の運転手によって運転されるものという前提のもとにつくられていたのに対して、フォードのつくったT型モデルは、誰でもが運転できるということをその主眼にしていたからだ。運転技術も簡単になったし、価格も一般民衆の手のとどきうる範囲にはいってきた。T型は売れに売れたのである。  フォードの対抗馬として出てきたのがシボレーだ。二番手だから、どうしても立場は不利にならざるをえない。フォードと互角に勝負するにはどうしたらいいか。シボレーは自動車のテザインで勝負することにした。フォードは技術優先だから、まず機械部分を組み立て、それをもとにしてデザインする。しかしシボレーは逆に、まず車のデザインをしてから、それに合うように機械部分の設計をする、というデザイン優先主義をとった。とりわけ一九五〇年以降は、もっぱらデザインで車をつくり、そのことでフォードを追い抜いたのであった。シボレーはGMの中核だが、その創業者のシボレーは一九四一年六月六日に世を去った。   6月7日 ■不死身のマロイ■禁酒法さかんなりし一九三〇年代のアメリカはニュー・ヨーク、秘密酒場の経営者A・マリノなる人物は、密造酒でひと儲けをたくらんだが、事業は思うようにすすまない。金繰りに困ったマリノは仲間四人とともに保険金詐欺を思いついた。最初の犠牲者はマリノのガール・フレンドでB・カールセンという女性。彼女はアル中で、しょっちゅう泥酔していた。マリノたちは、彼女に意識不明になるまで酒を飲ませ、冬の寒い日に窓をあけっぱなしにして自室で寝かせておいた。翌朝、彼女は死体となって見つかり、保険金八〇〇ドルがマリノの手に人った。  それに味をしめて、こんどはM・マロイという人物を第二の犠牲者候補としてえらぶ。マロイもひどいアル中だ。合計三五〇〇ドルの保険がかけられる。もちろん、受取人はマリノである。保険契約書がつくられると、マロイはいくらでも飲み放題という特権をあたえられ、昼から深夜にいたるまで毎日マリノの酒場でウイスキーを飲みつづけるのだが、ビクともしない。たんなるアルコールでは駄目、ということがわかったので、有毒物質をふくむ自動車用の不凍液を飲ませてやろう、とマリノはたくらむ。数杯のウイスキーでいい気持になったところで、マロイに不凍液を飲ませると、いっこうに気づかず、ガブ飲みである。さすがにバッタリとたおれたが、翌朝になると、しゃんと立ちあがって、また飲みはじめた。  マリノは、いろいろ成分を変えた。テレピン油を飲ませたり、ネコイラズをまぜたり、マロイ殺しのくふうをするが、マロイは死なない。酒のサカナに、とイワシのサンドイッチをつくり、そのなかに、罐詰の金属片をこっそりいれておいて食べさせる。内臓出血で死ぬだろう、と思っていると、昨日はごちそうさま、とまたマロイはやってくる。これやこれやで、三三回にわたって殺人計画が練られたが、いずれも失敗におわった。この計画はやがて発覚し、マリノは一九三四年六月七日に電気椅子で処刑されたが、マロイのほうは、その後もちゃんと生きつづけた。 ■ゴーギャンの病気記録■一八四八年六月七日、ブルターニュ地方で生まれたP・ゴーギャンは、三五歳のとき、それまでの株式市場のブローカーとしての輝かしい人生を捨てて、画業に専念することを決意した。つい昨日まで、物質的に不自由することのない生活をしていたのに、ゴーギャンは、最後には、乞食をしなければならなくなった。数日間にわたって食べるものがなにもない、といったような時期さえもあった。リューマチで肩がうごかなくなってしまったし、やっとたどりついた西インド諸島では肝臓もひどくやられてしまった。  一八九一年、ゴーギャンはタヒチで病いにたおれ、大量の喀血をした。それにもかかわらず、かれはタバコを吸いつづけ、また女性関係もさかんにつづけた。そのおかげで、視力はおとろえ、じぶんがキャンバスに叩きつけている色の識別さえつかなくなってしまった。かれはあかるい色をつくったつもりだったのが、客観的にみると、それはくすんだ色にしかならなかった。  一八九四年には、カカトの骨折で歩行困難になり、その翌年には売春婦と関係をもって性病をうつされる。さらに喀血がつづく。性病の治療に劇薬が使われ、気分的にも完全な鬱病にかかったゴーギャンは、一八九八年、砒素を飲んで自殺をはかるが、果たすことができず、数カ月にわたってベッドからうごけなくなった。そのあと、こんどはタヒチの政治活動に参加した罪で三カ月の禁錮刑を言いわたされ、結局のところ、かれは獄中で心臓発作で死んだ。五五歳であった。  かれがタヒチで描いた絵は数百点におよぶが、その大部分は雨ざらしになって捨てられたり、物好きな観光客のみやげ品として二足三文で売られてしまった。かれの最後の作品は、故郷のブルターニュ地方を思い出しながら描いたヨーロッパの雪景色の絵だが、これは一ドル五〇セント(四〇〇円)で売られた。いま、この絵はルーブル美術館にある。   6月8日 ■アイスクリーム・コーン■アイスクリームの起源はわからない。だが近代西洋の記録としてのこっているものをみるかぎり、一六六八年にジェームズ二世が演習中の将校たちと合計一二皿のアイスクリームを食べた、というイギリス宮内庁の会計記録にのっているのが最初である。日本では、例の万延元年の遣米使節がアメリカでアイスクリームをごちそうになっているけれども、一八七八(明治一一)年六月八日に新富座が開場、そこで来賓一同にアイスクリームが配られた、とある。このころには、すでに日本でもアイスクリームがちゃんとつくられていたことがわかる。  ところで、二〇世紀のはじめ、アメリカのミズーリ州でアイスクリームを売っていたC・メンチェスなる人物がいた。かれには美しいガール・フレンドがいて、メンチェスは彼女を訪ねるたびにかならず花束を持って行った。そしてある日、かれは花束といっしょに、アイスクリームをはさんだサンドイッチをつくり、それを彼女への贈物とした。ところが、たまたま手近に花を活ける器がなかったので、彼女はサンドイッチのパンのいっぽうをとってそれで花束の根もとにあたるところを包み、もういっぽうを使ってくるくるとアイスクリームを巻いてしまった。そこからヒントを得てアイスクリーム・コーンができた、というわけ。  だがこれには異説があり、われこそはアイスクリーム・コーンの発明者、と名のり出た人物がいる。それはA・ドウマーという人だ。かれはルイジアナの博覧会でおみやげ品を売っていたのだが、かれの屋台のとなりで営業していたのがアイスクリーム屋。そのアイスクリーム屋は大繁昌だったけれど、ある日アイスクリームをのせる皿が出つくして大さわぎ。ドウマーは、そのアイスクリーム屋に、「アイスクリームだけを五セントで売るより、おまえさんのところにあるワッフルに包んで売ったらどうだい」と進言した。このワッフル包みのアイスクリームは大評判。それがアイスクリーム・コーンのはじめだという。いずれにせよこれはアメリカの発明品であって、一九二四年には自動式のアイスクリーム・コーンが大量生産されるようになった。 ■水力利用の歴史■一九六二年六月八日、東洋最大の規模を誇る奥只見ダムが完成。水力発電所としては、これが最後になるのではないか、とおもわれる。ところで、河をせきとめてダムをつくるという着想は、いまからおよそ五〇〇〇年まえの第三ないし第四エジプト王朝にまでさかのぼることができる。一八八五年にドイツの探検家シュヴァインフルトはエジプトのガラウィ渓谷にかかる長さ一〇〇メートル余のダムを発見した。このダムは、ひろい農地への灌漑をその主たる目的とするものであって、同様の発想にもとづくダムは中近東や中国にも存在していた。  水の落差を利用した動力はローマ人の発明によるものであって、シャベル型の羽根を外がわにつけた大車輪がダムによってうごいた。この水力によって発電所がつくられた第一号は一八九一年、ドイツのネッカー河の滝のほとりである。   6月9日 ■トンネル物語■一九六二(昭和三七)年六月九日、北陸トンネルが開通した。その総延長一三・八キロ。山陽新幹線の六甲トンネル(一六・二キロ)ができるまで日本一を誇っていた。  だが、トンネルを掘るというアイデアはかなり古く、史上最古のトンネルとして知られているのはユーフラテス河を横断するバビロニアのトンネル。これは現存していないけれども、延長約九〇〇メートルで、その断面はこんにちの地下鉄のそれとおなじくらいの大きさをもっていたといわれる。  日本でも、明治以前に、たとえば琵琶湖用水、品井沼用水など給水用のトンネルがつくられていた例があるが、洋の東西を問わず、トンネル技術は鉄道の発達にともなって飛躍的な進歩をとげた。日本における最初の鉄道トンネルは大阪・神戸間の石屋川トンネルで、長さはわずか六一メートルだった。これと同時期にヨーロッパでは、モンスニ・トンネル(一三キロ)、サン・ゴタール・トンネル(一五キロ)といったような巨大なトンネルが設計され、かつ完成にむかっていた。ちなみに、現在、世界最長のトンネルはスイス・イタリア国境のシンプロン・トンネル(二〇キロ)であり、六甲トンネルは第三位である。 ■安全灯の発明■トンネルの話が出たついでにもうひとつ地底の話。イギリスの産業革命がすすむにつれて、炭坑はより深く掘られることになったが、深く入れば入るほど落盤やガス爆発といったような危険がふえてきた。とりわけ一八一二年、坑内の爆発で坑夫九二人が死亡するという事故が発生して各界に大きな衝撃をあたえ、事故防止が真剣な課題となった。  そこで化学者のH・デービーが、坑内で引火することのない安全灯の発明にとりかかった。かれは坑内ガスの成分を分析するとともに、直径八ミリ以下の管のなかでは爆発しないことも実験によってつきとめた。そして安全灯をつくったのである。この安全灯は密閉したところでロウソクをともし、空気とりの穴を下にいくつかあけた、という構造である。見たところは在来のランタンとたいしてかわりないが、じっさいには、ガスに対して完全に安全であった。デービーは、のちに、細い管のかわりにこまかい目の金網を使用することに気づき、六・五平方センチに七四〇の穴のある金網をロウソクの下にとりつけた。  そればかりではない。この安全灯のなかの焔が大きくなったときは付近にガスが発生している警告灯の役割をも果たした。この発明のおかげで炭坑夫たちは安全な作業ができるようになった。しかし、ほぼおなじころG・スティーヴンソン(一七八一年六月九日生)もおなじような安全灯を発明していたから、デービーは特許申請をしなかった。かくして、最初の安全灯は特許なしで世に出たのである。   6月10日 ■スイス時計のはじまり■一四四九年の記録をみると、当時、ジュネーブには時計職人はたった一人しかいなかった。しかし、宗教改革の嵐のなかで、ジュネーブはプロテスタントにたいして寛容に門戸をひらいていたため、ヨーロッパ各地から、時計職人がこの町に移住しはじめるようになり、その結果一六八〇年には、時計職の親方一〇〇人、労働者三〇〇人がジュネーブで時計生産に従事することになったのである。ちなみに、当時の時計の生産量は年間五〇〇〇個であったが、一八世紀末には年間八万個となり、時計生産国としてのスイスの地位が確立した。六月一〇日を「時の記念日」としたのは、天智天皇が六七一年のこの日にはじめて水時計を使った、という記録によるものであり、この記念日は大正九年に制定されている。 ■頭巾のいろいろ■きょうは水戸光圀の誕生日(一六二八〈寛永五〉年)。光圀といえばすぐに講談やテレビの水戸黄門が思い出されるが、あの旅姿の黄門様に欠かすことのできないのが頭巾である。頭巾は、もともと室町時代に僧侶の帽子として使われるようになったが、江戸期になるとこれが流行してさまざまな頭巾がつくられるようになった。いちばんポピュラーなのは丸頭巾、要するに布を円型に縫った頭巾で、黄門様の頭巾であろうとおもわれる。寛保のころには、角型に仕立てた頭巾の前に布を垂らし、眼の部分だけに穴をあけた、チャドリのごとき気儘頭巾が登場したが、これは覆面にちかいので防犯上の理由から禁止された。宝暦年間には沢村宗十郎がいわゆる「宗十郎頭巾」を考案。主として若い女性がこれを用いたが、のちには武士のなかにも宗十郎頭巾を使う者がいたという。  このほか、火消人足は猫頭巾、物売りの商人は船底頭巾、さらに砲術がさかんになると韮山頭巾。明治の女性のあいだに流行したのは御高祖頭巾。日本の伝統的な帽子たる頭巾にも、ずいぶんさまざまな変種があったのである。   6月11日 ■コウモリ傘の起源■傘の起源は一説によると古代エジプトの貴族階級であったともいうし、一説によると、インドネシアの降雨地帯であったともいうが、こんにちのようなコウモリ傘、すなわち布製で柄のついたものが発明されたのは一八世紀の後半である。この発明は、六人の人びとの共同開発にかかるものであって、かれらは、こんにちの金額にしておよそ二五〇〇万円の利益をえた、という。だが、雨が降って、人びとがお互いのコウモリ傘をひらくたびに、ぶつかったり、雨滴をひっかけあったりして大さわぎになった。ついでにいっておくと、パラシュートのアイデアは、コウモリ傘からうまれた。きょうは梅雨の入りである。 ■最初の自動車レース■自動車が発明されるとまもなく、そのスピードを競う自動車レースを思いついた人たちがいる。その第一回は一八八七年におこなわれたが、出場したのはG・ブートンなる人物ただひとりという珍妙なレース。かれは四輪蒸気自動車を操縦して完走した。もちろん、優勝者はブートンである。  ガソリン自動車をふくめた最初の自動車レースがおこなわれたのは一八九五年六月一一日。三日がかりでパリ・ボルドー間一二〇〇キロを走るというわけ。一着のルバソールは四八時間で全コースを走った。平均時速二四キロである。このレースに参加した車は合計二三台だったが、そのうち完走しえたのは、ガソリン車八台、蒸気車一台。要するに三分の二ちかくの車は一二〇〇キロを走りきることができなかったのだ。   6月12日 ■長時間演説■一九三五年六月一二日の午後零時三〇分から、当時上院議員であったヒューイ・ロングは上院で演説をはじめた。かれの弁論はえんえんとつづき、深夜をすぎてもとどまるところを知らず、翌一三日の午前四時にやっとおわった。結局のところ、ロングの演説は一五時間半、という長時間にわたったわけだが、それはかれが身体的疲労によってダウンしてしまったからであって、健康さえゆるせば、まだまだ話しつづける予定であったらしい。このスピーチの速記録は一五万語におよび、このなかには、クッキーのつくり方とか、おもしろくもない無駄話などもちりばめられているが、とにかく議事録として一〇〇ページにわたって印刷されている。この議事録製作のための費用は、当時の金額で五〇〇〇ドルであった。 ■エスペラントの意味■エスペラントはいうまでもなく、国際的補助語として、ユダヤ系ポーランド人L・ザメンホフによってつくられた。かれが最初にこれを発表したのは一八八七年だが、発明者かつ著作者としての権利をいっさい放棄し、著者名にあたるところに、「エスペラント博士著」と印刷した。エスペラントとは、すなわち「希望をもとめる者」という意味であって、ザメンホフはこの匿名のもとに登場したのである。  それがいつのまにか、この人工言語の名称となって、「エスペラント」で通用するようになった。この言語は主として印欧語族にぞくする諸言語を土台とし、綴字法や文法上の不規則性を排除しようとしたものであって、世界各国にエスペラントに興味をもつ人びとがあらわれ、国際語としての役割を果たすようになってきた。日本でも一九〇六(明治三九)年六月一二日に日本エスペラント協会が発足している。   6月13日 ■ル・マンの惨事■一九五五年六月一三日、フランスのル・マンでは、有名な自動車レースがおこなわれていた。ところが、先頭を走っていたジャガーが急にカーブを切り、それにつづいていたオースチン・ハーレーがジャガーに衝突した。三番手を走っていたメルセデス・ベンツは、オースチンを避けようとしてハンドルを切ったが、そのおかげで、後続車数台が玉突き衝突をおこし、ベンツは壁にぶつかって爆発した。この事故は、観衆のむらがっているところで起ったため、レーサーたちはもとよりのこと、観衆も合計七七人が死亡している。  この惨事を目のあたりにみて、二五万人の観衆のうち二〇万人は見物をやめて、さっさと帰ってしまった。ドイツは参加をとりやめてしまった。だが、この事故の犠牲者のひとりであったフランスのレーサー、ピエール・ルベは、一種の英雄としてその名をとどめることになった。つまり、かれは、後続車を運転していたアルゼンチンのレーサー、ホワン・ファンギオを救うべく、この瞬時のできごとのあいだに、文字どおり、必死の努力をかたむけた、というのである。ちなみに、このレーサーたちが出していたスピードは、およそ時速三〇〇キロであった。 ■玉川上水のはじまり■江戸に幕府が置かれ人口がふえたのはよかったが、江戸の人びとが困ったのは水である。なにしろ低湿地だから井戸を掘ってもいい水はでない。深い水脈を堀りあてるための技術もない。そこでかんがえられたのが郊外から水をひいてくることである。  そこで一六三五(寛永一二)年、将軍家綱のとき、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟に命じて多摩川の水をせきとめ、そこから取水して四谷大木戸まで、総延長四三キロの水道をつくらせることにした。工事期間はわずか一六カ月。おどろくべきスピード工事であった。総工費は一万両たらず。そして、四谷にひかれた水は、二分されて一本は江戸城に入り、もう一本は赤坂から虎ノ門を経て現在の千代田区・港区の大名屋敷などの用水をまかなった。これが江戸の玉川上水である。この水路は明治以降も使用され、淀橋の浄水場を経て東京の水道システムの一部でありつづけた。この玉川上水で太宰治が入水自殺したのは一九四八(昭和二三)年六月一三日であった。   6月14日 ■野戦料理の話■一八〇〇年六月一四日、ナポレオンのひきいるフランス陸軍はオーストリア軍を徹底的にたたきのめした。さて一段落、というので、ナポレオンは将軍たちをあつめて祝盃をあげることを命じた。ナポレオンは、たいへんせっかちな人間で、命令がすぐに実行されないとご機嫌がわるい。  ところが、急場のこととて食事をつくろうにもじゅうぶんな材料がない。ナポレオンの専属のコックであったデュナンは、さて、どうしたものか、とかんがえた。  ふと視線をうごかすと、遠くに小さな農家がみえた。デュナンは騎兵を二人、早駆けさせて、なにかさがしてこい、と命じた。収穫はニワトリ数羽、トマトとニンニクがすこし。それだけである。デュナンの手もとにあったのは油が一瓶とブランデーが少々。これだけの材料でどうにかでっちあげなければならぬ。  デュナンは手ばやくニワトリの羽根をむしった。包丁がないから将校のサーベルを借りて肉を切った。風味をそえるためのニンニクをすりつぶすためには、地面にころがっていた石ころを使った。そして、火をおこして油を熱し、そこにニワトリの切身を投げこみ、ソースはトマトにブランデーを加えてつくった。まさしく野戦における即席料理である。  この料理は、しかしながら、ナポレオンをはじめ将軍たちの絶讃をあびた。ニワトリを調達した村がマレンゴという名前であったから、この野戦料理はその場で「マレンゴ風若鶏」というみごとな名前をあたえられた。いまなお珍味と称せられる「マレンゴ風若鶏」は、要するに、戦場のドサクサのなかで生まれた偶然の産物だったのである。 ■海の探検■一九五八年六月一四日、バチスカーフは水深一二〇〇メートルまで達して深海探検のパイオニアとなったが、潜水艇のアイデアは古い。伝説的にはアレキサンダー大王がガラスの樽で潜水したなどという話もある。歴史的にたしかな話としては、一一五〇年、十字軍がトレメイスで包囲されたときに、十字軍の後方部隊が潜水函に入ってひそかに敵の艦船に近づき、穴をあけて沈めた、というエピソードがのこされている。  近代潜水艦の父ともいうべき人物はJ・ホランド。かれはニュー・ヨークのファニアン・ソサエティの援助をうけて、アメリカ海軍のために最初の実用的潜水艦をつくった。これにならってイギリスもドイツも同様の潜水艦を設計した。ドイツのボートはこのようにして生まれ、第一次大戦で活躍した。しかし潜水艦の潜水限度はせいぜい二〇〇メートルくらいであって、バチスカーフにはくらべるべくもない。   6月15日 ■日本最初の酒合戦■酒のみにとって、酒はきわめて「思いいれ」おおい飲みものであるらしい。宴席などで、酒豪が、単に酒量がおおいというだけで、ある種の敬意をはらわれるのはその証拠である。その本性が極端な形であらわれるのが、いわゆる「酒合戦」であろう。酒豪がつどい、酒量をきそいあうわけである。九一一(延喜一一)年六月一五日、亭子院に藤原仲平、源嗣、藤原後蔭、藤原経卿、良峯遠視、藤原伊衡、平希世などがつどい、おのおのの酒量をきそいあった。大杯がめぐりくること七、八回。やがて酔いがまわり、平希世は門外にたおれる。藤原仲平はヘドをはく。そうこうするうちに皆が酔いつぶれる。ただ藤原伊衡のみが最後までゆうゆうと飲みつづける。そして上皇より、賞品として乗馬をたまわり、面目をほどこす。これが、わが国史上はじめての「酒合戦」であった、という。 ■山伏のはじまり■空海は七七四(宝亀五)年六月一五日に生まれた。よく知られているようにかれは中国に学び、高野山に真言宗をひらいたが、この真言密教は役小角《えんのおずぬ》を開祖とする修験道と融合して、山伏という名の修行僧たちを生んだ。修験の教理では、釈迦が太子のとき、仙人にしたがって山で修行したという経典がその修行法の根拠になっている。山伏は、たとえば熊野三山、出羽三山などに入峰し、そこでの体験をいっさい他言《たごん》せぬという神秘主義によって行動する。  山伏たちは、民間ではそれぞれの山岳信仰を説き、熊野講、羽黒講といったような信仰集団を組織し、講のメンバーをともなって山に入る。こうした山案内人を兼ねた山伏は「先達」と呼ばれ、それぞれの霊山の宿坊を運営する人びとは「御師《おし》」と呼ばれる。こんにちなお、こうした山伏たちは活躍している。   6月16日 ■ロケットのはじまり■ロケットの原型になっているのは打上げ花火である。しかし、ふつうの火薬でなく液体燃料を使った最初のロケットが打ち上げられたのは一九二六年三月のことだった。発明者はアメリカ人のR・ゴダード。マサチューセッツで打上げ用にえらばれた草原にはまだ雪が積っていた。この第一回実験は成功とはいいがたかった。というのは、点火後、ロケットはわずか二〇メートルほど上昇しただけで墜落してしまったからである。  しかし、ゴダードのロケットは現代ロケットのそなえている基本的な特性、すなわち方向制御の可動翼とジャイロとをつなげた装置をちゃんと積みこんでいた。この重要な発明は、しかしながら、アメリカ政府の注目するところとはならなかった。それはゴダードが一種の奇人であって、この実験を誰にも教えず、もっぱらひとりでコツコツと研究をすすめていたからである。  いっぽう、ドイツではロケット研究はおなじころから大々的にすすめられた。液体燃料を使った最初のドイツ製ロケットは一九三〇年にブラウンが実験に成功し、これをドイツ陸軍が援助することになる。軍の研究所は一九三六年、バルチック海岸のペーネミュンデで極秘のうちに研究をすすめ、ブラウンのひきいるチームは、ついにロケット爆弾V—1号を一九四二年に完成した。このロケットが、はじめてロンドンにむけて発射されたのは一九四四年六月一六日。やがてドイツは敗戦をむかえるが、このロケット技術はやがてミサイルや宇宙開発への手がかりとして重要な役割を果たした。 ■ウォータルーの敗因■ナポレオンの肖像画をみると、かれはいつも片手を上着のなかにいれ、ちょうど胃のあたりをおさえているが、これはかれが慢性の胃潰瘍《いかいよう》にかかっていて、痛む胃をおさえていたからだ、といわれている。かれの胃潰瘍はかなりの重症であって、そのために便秘がひどくなり、それはさらに、かれの痔を悪化させることになった。痔のぐあいがわるいから、かれは馬にまたがることがたいへんに苦痛になっていた。とりわけ、ウォータルーの戦(一八一五年六月一六日)の前には症状がひどく、そのため戦闘の開始が二時間おくれた。この二時間のあいだに、イギリス軍は戦線を整備することができたので、ナポレオンの指揮するフランス軍は敗北を喫することになった。この二時間は、軍事史の専門家によると、まさしく決定的な二時間であって、もしも、フランス軍がこのチャンスをのがさなかったら、勝利はあきらかにナポレオンのがわにあった、という。要するに、ウォータルーの戦の勝敗を決したのは、ナポレオンの胃潰瘍であった、ということになるし、それはその後のヨーロッパ史をも変えたのであった。   6月17日 ■エアゾールとニクソン■リチャード・ニクソンの命とりになったウォーターゲート事件は一九七二年六月一七日に、五人の人物がウォーターゲート・ビルに侵入したことからはじまったが、このニクソン元大統領の親友のひとりに、R・アブプラナルプという人物がいる。あまり知られていない名前だけれども、かくれた大金持。一億ドル以上の資産をあっというまに稼ぎ出してしまった、という実績をもっている。  かれの資産は、ことごとくみずからの発明になるエアゾールの噴出バルブのパテントからきている。噴霧装置は、もちろん、簡単な霧吹きなどはむかしからある。だが、一九四九年、二七歳のとき、アブプラナルプは内部の高圧ガスもれを防ぐ特別なバルブを発明した。殺虫剤、塗料はもとよりのこと、ヒゲそりクリーム、化粧品──いたるところでこのエアゾールのバルブは歓迎され、かれはその特許料であっというまに億万長者になってしまったのだ。かれの会社は、年間に一五〇億本のバルブを製造し、その販売は全世界におよんでいる。だが、かれは、なかなかの謙遜家だ。その発明についてひとに問われたとき、かれはこう答えている。 「エジソンは、発明というものは九九パーセントの汗と一パーセントのインスピレーションによってできあがる、といったが、わたしのばあいは、二パーセントのインスピレーション、八パーセントの作業、そして残りの九〇パーセントはただ幸運というものだ」  もっとも、かれの「幸運」には、暗いカゲもつきまとっている。というのは、このスプレーに使われるフッ素化合物が、オゾン層を破壊するのではないか、という公害論議もさかんだからだ。ニクソン氏もアブプラナルプ氏も、冴えない点で共通しているのである。 ■貝塚物語■アメリカの生物学者モースは一八七七(明治一〇)年六月一七日横浜に到着、その滞日中の記録は『日本その日その日』にくわしいが、ある日汽車の窓から風景を眺めているうちに貝ガラの堆積を発見。そこから大森の貝塚発見という考古学的研究がうまれてくるのだが、人類が先史時代に食べかすの貝ガラを一カ所にあつめた、というのは、なにも日本にかぎられていたわけではない。地中海沿岸のヨーロッパにもアフリカにも、またアメリカにもアジア諸国にもある。もちろん、貝が採集できるのは海岸地域であるから、山中の貝塚などというのはめったにないけれども、たとえば滋賀県の石山にはシジミなどの淡水貝の貝ガラのあつまった貝塚があるし、ブラジルのサンパウロ州には陸生カタツムリのカラの貝塚がある。  うつくしい貝は後期旧石器時代から装飾品として使われており、巻貝などを使った首かざりは地中海沿岸で見つかっているけれども、食用にした貝はひとまとめにしてゴミ捨場に集積され、それが貝塚になったのであった。   6月18日 ■象がきた日■日本にはじめて象がきたのは一七二八(享保一三)年六月一八日のことであった。この日、インドシナ半島の交趾《こうち》から大象二頭が船ではこばれ、長崎に到着したのである。一頭は七歳のオス、もう一頭は五歳のメス。ところが、日本の気候は象に適さなかったものとみえて、メスのほうはその年の秋に死んでしまった。  しかし、オスのほうは、陸路江戸まで行くことになった。長崎出発が翌年三月一四日。一日の行程はせいぜい二〇キロほどである。超重量の象が通るというので、道中では、あちこちの橋を補強したり、食糧を用意したり大さわぎであった。江戸への途中、象は京都でひと休み。中御門天皇はこの珍しい動物をごらんになって大いによろこばれ、 「ときしあらばひとの国なるけだものも けふ九重に見るぞうれしき」  と詠まれた。  もっとも、象が日本にきた記録としては、これよりも古いものがある。一五九六(文禄五)年の夏、スペイン船が四国に漂着、秀吉はてっきりスペインが日本に攻めてきたものとカンちがいして乗組員を殺してしまった。このことを知ったマニラ政庁は、殺された乗組員の遺骸の引きわたしを要求し、そのかわりに、といって象一頭を秀吉に献上している。俵屋宗達が障壁画として象の姿をえがいたのは、ひょっとすると、このとき象の記録にもとづいているのかもしれない。  一八一三(文化一〇)年にも、三歳の象が一頭、献上品として長崎に到着している。いったい、これをどう処理したらよろしいか、と江戸に照会してみたら、象は日本の風土に馴染まないから、即刻送還せよ、という指示がきた。せっかく日本に上陸したものの、この象は国外退去を命ぜられてしまった。その滞在中に、長崎の絵師が写生し、それだけが記録としてのこったのである。 ■日本人の海外移住■一九〇八(明治四一)年六月一八日、日本からの移住者七八一人がブラジルのサントスに上陸した。この日を記念してきょうは「海外移住の日」とされている。  移住という現象はむかしからあったが、それが歴史上顕著にあらわれはじめたのは、ヨーロッパの帝国主義が植民地開発に力をいれるようになってからである。とくにイギリスからアメリカへの移住は劇的であった。イギリス人を中心にヨーロッパから新大陸に渡った人びとの数は多く、一八五〇年から一九二〇年までの七〇年間に延べ三五〇〇万人という記録がのこっている。とりわけそのピーク時の一九〇七年には、総計一二八万人がアメリカに移住した。  それにくらべると日本から海外への移住者の数はそんなに多くはない。とりわけながいあいだの鎖国時代の余波をうけて、明治になってからも移住熱はそれほど高まらず、維新以来一九四〇年まで、およそ七〇年のあいだに、北米に四一万、中南米に二四万、東南アジアに九万、そして満州(中国東北)に二七万、合計一〇〇万人ほどにすぎなかった。中南米への移住者のピークは一九三三(昭和八)年で、この年には二万四〇〇〇人がブラジル、アルゼンチンなどに渡航している。  戦後になると、日本の経済が安定したことも手つだって移住者数は激減した。そして、かつての出稼ぎ型移民のかわりに、技術援助的意味をもった青年層の移住がはじまった。たとえば一九六九年以降、なんらかの技術を身につけに青年たちが、年間五〇〇人ほどカナダに移住している、などというのがその例だ。   6月19日 ■フォークの起源■イギリスのジェームズ一世(一五六六年六月一九日没)は、イギリス王室の歴史のなかで最初にフォークを使った人物として記録されている。それまで食事のしかた、といえばもちろん手づかみだ。もっとも、歴史的にふりかえってみると、一一世紀に、ビザンチンのコンスタンチン・デュカ皇帝の王妃が黄金製のフォークを使っていたというし、地中海地方の上流階級のあいだではフォークが普及していたようだが、イギリスのような辺境地帯にはなかなか入ってこなかった。イギリスにおけるフォーク輸入の記録は一六〇八年、作家のトマス・コリアテが大陸からもってきたものだ、という。かれは、このあたらしい食器を見せびらかしたが、イギリス人は、たいして興味をしめさなかった。そのうえ、イギリス人はフォークを女性的な装飾品とかんがえていたから、ジョナサン・スウィフトなどは「フォークより手のほうが古い」という警句をのこしている。  また、ナイフとフォークそれぞれ一本ずつをセットにしたものは、イギリスでは、新婚の花嫁への贈物として使われることがしばしばであって、それはかならずしも実用とはむすびつかなかった。アメリカにはじめてフォークが渡米したのは一六三〇年。J・ウィンスロップがイギリスから持ってきた。フォークやスプーンをきっちりとならべ、めんどうなテーブル・マナーのごときものをつくり出したのはルイ王朝時代のフランスである。 ■元号の起源■君主の即位によって年号をかえるという習慣は魏の恵王にはじまるともいうが、これを制度化したのは前漢の武帝である。武帝はその即位の翌年(BC一四〇)を建元元年とあらためた。この制度はその後中国歴代の皇帝によって採用されたのみならず、周辺の諸国家にも及んだ。元号としては理想をあらわす漢字二文字の組みあわせがえらばれるのがふつうであって、おめでたい文字が好まれるものだから、重複することもあった。  日本には朝鮮半島を経由してこの制度がもたらされ、六四五年六月一九日、孝徳天皇が「大化」元年とさだめたのがそのはじまりである。その後中断した時期もあったが、文武天皇の「大宝」以来、こんにちまで元号はつづいている。明治になって一世一元の制がさだめられた。改元をおこなうには元号の勘者《かんじや》が定められ、その勘申にもとづいて「改元定」という会議が招集され、中国の古典を参照したうえ最終決定される、というのがその手続きである。   6月20日 ■日本映画の初登場■一八九九(明治三二)年、興行師の駒田好洋は小西写真機店からフランス製の映画カメラ(当時は�活劇連撮用追写機械�といった)を買い入れ、新橋の料亭「花月」の座敷を借り切って、おえん、小いな、おえつ、という三人の芸者の日本舞踊「鶴亀」を撮影した。ところが室内のこととて照明不足、やむをえず裏庭に板やタタミを持ち出して、太陽光線のもとであらためて撮りなおした。  新橋がすむとこんどは柳橋で「松づくし」、つぎは芳町で「かっぽれ」というふうに、芸者の踊りだけを専門に、とにかく一巻七〇フィートを撮りつくした。それにくわえて、東京の銀座、浅草などの実写風景、さらに祇園の芸妓の舞踊、といった種々雑多なフィルムをよせあつめ、これを木挽町の歌舞伎座で上映した。同年六月二〇日のことである。  駒田の会社は「日本率先活動写真会」という大そうな名前だが、駒田ひとりがやっていたようなもの。カメラは買ったが撮影は小西の店員浅野四郎がまわす、といったにわか仕立ての映画製作であったが、なかなかの評判であった。とりわけ、被写体になった芸者たちがこれをPR手段とうけとり、その後、駒田を訪れて撮影を依頼するようになった。赤坂や富士見町の芸者たちが、私も私もと申しこむ。彼女たちのあいだでは、駒田はいつのまにか「広目屋《ひろめや》」ということになってしまっていた。  これが先駆となって団十郎・菊五郎の「紅葉狩」、栄三郎・家橘の「二人道成寺」がおなじ年の秋に公開された。このへんが日本映画の第一号である。  ところで、この年の暮、土屋常吉という人物がアメリカから帰ってきた。かれはその六年まえシカゴでひらかれた万国博の日本館建築にたずさわった大工だが、アメリカの科学文明につよくひかれてそのまま居残り、映画の撮影技術を学習してきたのである。そればかりではない、かれはルーピン社製の映画カメラを持って帰ってきた。このカメラは駒田の使ったカメラの三倍の長さのフィルムをいれることができた。折しも芸者の踊りで駒田が大成功している。土屋はせっかくカメラと技術をもっているのだから駒田を好敵手として映画製作にとりかかった。  土屋は滞米中にボクシングの映画がひろい客層を動員していることを知っていたので、そこからヒントを得て相撲の映画をつくってみよう、とかんがえた。はじめは両国|回向院《えこういん》での大相撲を実写してみたが、これは光量不足で失敗。そこで仕度部屋に黒幕を張ってバックにし、相撲をとらせた。この映画は翌年四月に大阪でまず公開し、つづいて京都、東京でも同じ映画を披露した。駒田の映画の入場料は一等席五〇銭。それにたいして土屋のほうは一等一円と倍の料金をとったが、連日満員で大成功をおさめた。ちょうど二〇世紀にはいると同時に、日本映画も産声をあげたのである。 ■ニュース映画のはじまり■テレビ時代を迎えたこんにち、もはやニュース映画というのは影がうすくなったが、最初のニュース映画は一八九五年六月二〇日、ドイツ皇帝がキール運河の開通式に臨席した模様を撮影したものであった。撮影者はイギリス人のB・エイカーズ。かれは軍隊の閲兵風景はもとよりのこと、槍騎兵の突撃場面も正面から撮って迫力のある画面をつくることに成功した。  エイカーズは翌年にはイギリス皇太子と皇女がカーディフの博覧会に出席した場面をニュース映画にした。ただこのばあいは制限つきであって、カメラマンは姿をみせてはいけない、というのである。まわりに張りめぐらされた幕に穴をあけてそこからカメラのレンズを出したが、ファインダー用の穴をあけるのを忘れたので、まったくカンによってカメラをまわし、みごとに成功している。   6月21日 ■バチカンの発禁本■グーテンベルグの印刷術発明からおよそ一世紀後の一五五七年、カソリック教会はその宗教的観点からみて望ましくない、とされる書物のリストを公表しはじめた。このリストはこんにちも毎年刊行されている。もちろん、出版の自由はあるわけだから、バチカンの禁書はなんら法的拘束力をもつものではないけれども、カソリック信徒はこのリストにのった本は読んではいけない、ということになっている。  これまでこの禁書令にひっかかった作品のうちおもなものをあげると、スタンダールの恋愛小説、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」、フローベル「ボヴァリー夫人」、バルザックやデュマの恋愛小説。ノンフィクションでは、まず、ホッブス、デカルト、ベイコンなどの哲学者の作品はぜんぶアウト。モンテーニュの「随想録」、ジョン・ロックの「人間悟性論」、カントの「純粋理性批判」、ミルの「政治経済学原理」など、みんないけない。クローチェもだめ、パスカルもベルグソンもだめ。要するに、岩波文庫の名著のかなりの部分が不合格なのである。  一九六六年以来、バチカンはそのリストを公表することをやめ、もっぱら内部的資料としてとどめることにしたが、かつては、このリストにのせられる、というのは著作家にとって致命的な意味をもった。ボッカチオはその「デカメロン」がバチカンの禁書になったことを知ると、あわてて書きなおし、そこに登場する牧師や尼僧をことごとく世俗的な男女に変更し、バチカンに許しを乞うて許された、という。  あたらしいところでは一九四八年版の禁書リストに、J・P・サルトル(一九〇五年六月二一日生)の「全著作」を読んではならぬ、と記録されているが、もちろん、サルトルはそんなことを気にする人物ではなかった。   6月22日 ■北極海を越えて日本へ■こんにち日本からヨーロッパにいたる最短距離は、まず北太平洋をわたってアンカレジにいたり、そこから北極を横切り、イギリスなり、デンマークなりに入る方法であろう。モスクワ経由もあるけれども、一般に「北まわり」路線と呼ばれているのは北極経由の航路だ。  ところが、この航路を飛行機でなく船で開拓した人物がいる。スウェーデンの地理学者A・ノルデンシェルドである。かれは北極圏の学術調査に興味をもち、いくたびか探検旅行に出かけたが、スウェーデンの船主とロシアの富豪をスポンサーとして獲得。「ヴェガ号」という船で北極海をわたり、極東に至る航路をかんがえたのである。スウェーデンのカールスクローナの港を出たのが一八七八年六月二二日。夏のあいだに北極海を越えてしまおう、というわけだ。航海は順調だったが、いよいよ北から太平洋への入口、ベーリング海峡にさしかかったところで、氷にとざされてしまった。出航後三カ月めの九月のことである。もとより砕氷能力などあろうはずがない。「ヴェガ号」は翌年七月まで、一〇カ月にわたって氷上に固定されたまま越冬することになった。船体や乗員も奇蹟的に異常なく、一八七九(明治一二年)九月二日、「ヴェガ号」はひょっこりと横浜港に姿をあらわす。ペリー提督以来、日本人は「黒船」にはお馴染みになっていたが、こんな冒険旅行がその背景にあることを知ってびっくり。日本政府は、ノルデンシェルドを英雄としてほめたたえた。日本地学協会はかれを賓客にして会合をひらき、明治天皇もかれを引見なさった。 「ヴェガ号」は、その後、香港、インドからスエズ運河を経て、一八八〇年四月二四日ストックホルムに戻った。スウェーデンではこの日を「ヴェガの日」としてこんにちも記念行事をおこなっている。 ■ゆかたの進化■室町時代まで日本人は風呂に入るときハダカでは入らなかった。湯帷子《ゆかたびら》という麻製の入浴衣をまとって入ったのである。それがハダカになったのは一八世紀ごろからの新世相である。こんにちでもわれわれは入浴するときに「手ぬぐい」を持って入るが、江戸期までは「身ぬぐい」と呼ばれ、それは極小化したかたちではあったが、からだをかくすための布という機能をもち、その点では湯帷子の延長ともみることができる。  ところで、湯帷子はべつな展開をみせた。入浴中には着衣しないが、入浴後、つまり風呂あがりに羽織る衣料があらわれたのである。それが「ゆかた」というものだ。江戸期にはもう木綿が登場していたから、吸収性もよく、湯あがりにはきわめて適切であった。はじめのうちは、湯帷子の伝統にのっとって、ゆかたは白無地ときまっていたが、のちにさまざまな模様や柄が染め出されるようになる。とりわけ、たびかさなるゼイタク禁止令で絹を着てはいけないということになると、ゆかたに大胆な図柄をあしらって、うっぷんを晴らしたりもした。しかしそれでも、ゆかたは浴場着であって、街頭にゆかたを着て出るなどというのはもってのほか、というのが慣例であった。それが堂々と夏の街着になったのは明治になってからのことだ。きょうは姫路のゆかた祭り。この日から夏のあいだ姫路はゆかた解禁となる。   6月23日 ■仕立屋銀次の逮捕と「大逆事件」■仕立屋銀次は、スリの大親分だった人物である。配下に二〇〇人の子分を擁し、盗品の故買をなりわいとし、東京・下谷の金杉に大邸宅をたて、つねづね、「警察には、じゅうぶん『鼻薬』がきかせてあるので、俺が逮捕されることなどありえない」と豪語していた。その銀次が明治四二年六月二三日に逮捕されている。そのとき押取された盗品の山は、時計、指輪、財布、カバンなど、荷馬車二台分にもおよんだ、という。当時は、スリの被害がおおきかっただけに、人びとは、「警察はいいことをする」とよろこんだ。この、人びとの支持に気をよくした警察は、かねてから明治政府の「仇敵」とみなされていた社会主義者、幸徳秋水一派を、明治天皇暗殺計画のかどで一網打尽にし、スピード裁判で一二名を死刑にした。「銀次逮捕」からほぼ一年後の、いわゆる「大逆事件」のデッチあげである。どうやら、仕立屋銀次は、「大逆事件」デッチあげをねらう当時の警察の「人気とり」に利用されたのであったらしい。 ■カレーと小林一三■電鉄王小林一三がヨーロッパに行ったとき、その長い船旅のなかで、カレーライスをとくに好んだ。もちろん、カレーは明治中期以降日本に紹介されていたが、船中でのカレーはとくにおいしかった。そこで帰国後さっそく、高級なカレーを安価に、というのでカレーの研究にとりかかり、みずからの経営する阪急百貨店の食堂で提供することにした。メニューにのせてみるとこれが大評判で、阪急の食堂はカレー専門店のごとき様相を呈するようになったのである。あまりの成功に小林はおどろきかつよろこび、こんどは本格的なカレーの大量生産にとりかかった。かれは食肉用の牧場をひらき、農家と契約して専用の上質米の確保につとめた。それがこんにちの阪急カレーの基礎になっている。  きょうはカレー王国インドがイギリスの支配下に置かれる端緒となったプラッシイの会戦の記念日。一七五七年六月二三日、ベンガル連合軍と英軍がカルカッタ北方のプラッシイで戦い、英軍は圧倒的な勝利をおさめた。   6月24日 ■山田長政の最期■山田長政という人物についてはあまり多くのことがわかっていない。しかし、かれが駿河国の出身で、かつて城主大久保忠佐のカゴをかついでいた、ということはわかっている。カゴかき、といっても大名のカゴをかつぐのだから、足軽、小者、ということになるだろう。  その長政が一六〇〇年ごろ、どういうわけか御朱印船に乗ってシャムに渡航した。海外渡航熱にとりつかれたのかもしれぬ。当時のシャムにはアユタヤを中心に日本人町があり、長政はその日本人町に入って、いつのまにかその代表者格になってしまった。一六二一(元和七)年にシャムの使節が訪日するにあたっても尽力し、また両国間の貿易をいとなんで着々とその地歩をきずいている。  さらにおどろいたことに、かれは当時バタヴィアを本拠としてつくられたオランダ東インド会社の総督のもとにみずからの商船をつかわして友好関係をむすんだ。名称こそないが、いわば「山田商会」とでもいうべき貿易会社が、東インド会社の潜在的競争者として登場したのである。そればかりではない、長政は国王ソンタムの信任あつく、シャム官僚としての最高の地位をあたえられた。ソンタム王が没すると王位継承をめぐっての内戦が起ったが、このときには日本人二〇〇、シャム人八〇〇、合計一〇〇〇名の手兵を指揮して正統の王子を即位させることに成功した。だが、この内戦が王家内部のシコリになり、長政は辺境征討の任をあたえられて戦闘中に負傷し、その傷口に、裏切者の家臣が毒薬を塗ったため、その場で一生を終えた。  もともとシャムという呼称は、そとからつけられた名前で、タイ族の人びとは国名をタイとすることを希望していた。一九三二年六月二四日、立憲革命に成功し、このときから「シャム」は「タイ」に変身するのである。 ■トラの話■日本の俗信では、雷さまはトラの皮の褌《ふんどし》をしているということになっているけれども、その理由のひとつは日本列島にトラが棲息していなかったからであろう。  とはいうものの、トラの存在は古くから知られており、『日本書紀』には、五四五年、つまり欽明天皇のころ膳臣巴提便《かしわでのおみはこび》なる人物が百済《くだら》に使してトラを仕止め、その皮をはいで日本に持ち帰ったという記録がある。それだけではない、その後もトラの皮は主として朝鮮半島を経出して日本にはいってきた。たとえば六八六年、新羅からの入貢があったときには、献上物の目録のなかにトラの皮がある。  生きたトラがはじめて日本にきたのは八九〇(寛平二)年のこと。そのいきさつはよくわからないが、当時の天皇であった宇多天皇はネコが大好き。ネコ科の大型版(トラはネコ科のなかで最大の動物である)を見て大いによろこばれたらしい。とにかくこのトラを記録しておけ、というので当時の名画家巨勢金岡に命じて写生させている。  秀吉は文禄の役でトラを何頭か殺したり、生けどったりした。生きたトラは、そのときにも日本にはこばれ、後陽成天皇もごらんになった。加藤清正(一六一一〈慶長一六〉年六月二四日没)がその「虎退治」で有名になったのもゆえなしとしない。江戸時代にも、トラはしばしば輸入され、見世物用に使われたが、日本人がトラの実物を自由にみることができるようになったのは明治以降、動物園ができてからのことだ。   6月25日 ■琴の系譜■一九五六(昭和三一)年六月二五日、箏曲《そうきよく》の作曲家ならびに演奏家として知られる宮城道雄が列車からふりおとされて事故死するという不幸な事件があった。  ところで、いま「箏曲」ということばを使ったが、一般にはこの演奏楽器は「琴」という名前で知られている。いったい「箏」と「琴」はどうちがうのか。やまとことばでは、むかし、この両者を総称して「こと」と呼んだが、楽器としてこのふたつはちがう。そのちがいを区別するのは平安朝の人びとにとってもむずかしいことだったらしく、「こと」といっても、それは「箏のこと」か「琴《きん》のこと」か、というふうに漢字の音読みで辛うじて区別していたようだ。そのちがいは、ひとことでいえば、「箏」は一三絃、それにたいして「琴」は七絃なのである。このほかにも六絃の「やまとごと」という楽器があったが、日本音楽史のうえでは、厳密な意味での「琴」と「やまとごと」は衰退し、圧倒的に主流を占めるようになったのは「箏」であった。したがって、いま、われわれがお稽古ごとのひとつとして知っている「お琴」は正しくは「箏」なのだ。まことにややこしい話である。  楽器学的な分類によると、箏は、絃楽器のツィター属にぞくするもので、中国、朝鮮半島、日本、という東アジア三国のみにみられる独特のものだ。蒙古やインドシナ半島にもすこしは浸透したようだが、もっとも顕著な発達をしめしたのは日本においてであった。とはいうものの、原産地はあくまで中国。  伝説によると、箏の発明者は前三世紀、秦の将軍|蒙恬《もうてん》であるともいい、また二五絃の「瑟《しつ》」をある兄弟が奪いあい、半分にわけて一三絃にしたという説もある。箏という字が竹カンムリに「爭う」という字であるのはこの伝説にもとづいているともいう。  しかし、きっちりと歴史上に箏があらわれるのは漢代であって、このころになると一三絃の箏を弾いている人の絵がのこっている。日本に渡来した最初の箏は正倉院にあり、唐代の作品で長さ一九〇センチ。朝鮮半島では高麗朝のころに中国から輸入され、宮廷楽の唐楽部で用いられている。  さて、箏はもともとが雅楽の合奏用楽器であって、室町時代にはしばしば演奏されたが、歌をともなった独奏楽器ともなり、さらに一七世紀ごろになると、箏を用いて流行歌の伴奏をする、といったような通俗化もはじまったようである。民間にはいった箏は自由な楽想によって展開したが、その創始者ともいうべき人物は久留米の僧賢順である。かれは筑紫流という流派を立て、そこが源泉となって八橋検校が八橋流をつくり、さらにそこからわかれた生田流、山田流などの諸流派がある。宮城道雄は、こうした流派にとらわれず、箏により高い普遍性をあたえるべく「新日本音楽」をとなえ、西洋楽器と箏を自由に組みあわせるなど、日本楽器を使った実験に立ちむかった人物であった。   6月26日 ■コナン・ドイルと機関銃■一八九七年六月二六日、イギリスのスピッドヘッドで海軍の大観艦式がおこなわれた。四列の軍艦がえんえん五〇キロほどの列をつくる。まさしく海軍国イギリスの力の象徴がそこにあり、これこそヴィクトリア時代のピークというものであった。  それを見ながら、「シャーロック・ホームズ」の生みの親、コナン・ドイルは悩んでいた。かれは、もとよりイギリスを愛してはいたが、この観艦式にみられるような好戦的気分には危険を感じていたのだ。そのうえ海軍のみならず、陸軍も、日進月歩の軍事技術にたいして無知ないし無関心だったのである。たとえばその翌年、ドイルは陸軍の演習を見学に行ったのだが、そのとき歩兵部隊が直立して鉄砲を撃っているのをみた。当時はすでに十連発の速射銃もつくられていたし、故障が多いとはいうものの、マクシム機関銃も実用化されはじめていた。突っ立ったままの歩兵部隊など、こうした速射性能をもった火器のまえには、バタバタたおれるだけであろう。ドイルは、兵士たちはもっと遮蔽物で身をかくすべきではないか、と指揮官に問うた。しかし指揮官はドイルにむかって、「このごろは遮蔽物を強調しすぎるきらいがあります。攻撃部隊は指示された地点の占領がその任務ですから、多少の犠牲はやむをえません」と答えた。  そうしたイギリス軍の思想はやがて実戦の場で完全に失敗する。一八九九年に起きたボーア戦争では、たとえば五〇〇人しかかくれることのできないシュピオンの丘に四〇〇〇人の兵士を進出させ、ボーア軍の砲兵がこれを標的にほとんど全滅させてしまう、といったような惨事も生まれた。ドイルはいても立ってもいられず、義勇軍に参加しようとしたが、もう四〇歳になっていたので義勇兵にはなれず、そのかわり、野戦病院に医師として参加することがゆるされた。  戦場はすさまじかった。負傷者はつぎつぎに病院にはこばれてきたし、そのうえ腸チフスが発生した。ドイルのはたらく野戦病院はベッド数四〇〇だったが、その四倍の傷病兵を収容しなければならなかった。ドイルは、生命がこんなにもろく、人が大量に死んでゆく、という事実を信ずることができなかった。なににもまして、かれは近代戦というものをイギリスがいっこうに理解していないことに腹を立てた。ボーア戦争の失敗にもかかわらず、イギリス陸軍軍人の大部分は依然として騎兵隊の突撃に固執し、もっぱら地理的条件が不利であったためにボーア戦争は失敗したのだ、という意見を持ちつづけていた。連発ライフル銃も、騎兵隊の出番さえあればものの数ではない、というわけ。  ドイルは、近代戦を目のあたりにみて、かれなりの無常感に打たれた。そして、この経験がひきがねになって、生と死の形而上学、そして心霊術の世界にひきずりこまれてゆく。かれは、その生涯を閉じるまで霊魂不滅を疑うことがなかったのだ。   6月27日 ■雨乞い今昔■一〇八八(寛治二)年六月二七日、雨がいっこうに降らないカラ梅雨で人びとはなすすべをしらず、宮廷では大極殿に僧一〇〇〇人をあつめて雨乞いの大祈祷をおこなった。その効果がどうであったかは、残念ながらわからない。  近代科学の原理にもとづいて雨を降らせよう、というこころみは一九三〇年ごろからはじまった。まずフランスの気象学者ベルジュロンは「降水誘導法」という技術を開発した。これは高空を飛ぶ飛行機からこまかく砕いた氷を雲のうえにまきちらすと、雲は飽和状態になって雨を降らせるというわけだ。  一九四〇年代にはアメリカでゼネラル・エレクトリック社がこの問題に挑戦。原理的にはベルジュロンの方法とおなじだが、ここでは氷のかわりにドライアイスが使用された。高度四五〇〇メートルの上空から高層雲めがけてドライアイスをまくと、まもなく地上で雨が降りはじめ、実験は成功した。  おなじくゼネラル・エレクトリック社の技師B・ヴォンネグートは一九四九年、沃化銀を使ってより低コストの人工降雨に成功した。かれは低温の雲に関しては、沃化銀の霧を散らすと雪片をつくることに気がついた。沃化銀の結晶構造と氷の粒子のそれとがおなじであるため、これで雲をゴマカしてやろうというわけである。低層雲のばあいは、これでじゅうぶんに雨を降らせることができる。しかし、いずれの方法をとるにしても、まず雲が上空に浮いていてくれなければならない。雲ひとつないカンカン照りに雨を降らせるにはどうしたらいいか。祈るだけである。 ■お化けと幽霊のちがい■日本の民間行事や伝承をこよなく愛し『怪談』をのこした小泉八雲は一八五〇年六月二七日に生まれたが、この日は奇しくも『雨月物語』の作者上田秋成の命日(一八〇九〈文化六〉年)。そろそろ怪談ばなしのシーズンだから、その関係の話題をひとつ。  ふつうの日常会話のなかでは「お化け」と「幽霊」はごちゃまぜになっているけれども、このふたつは原理的にまったくちがう。「お化け」というのは、たとえば古寺とか、特定の木とか、曲り角とかいったふうに、「場所」についているものだ。たまたまそこを通りかかった人に見境いなしに姿をみせる。いわばこちらは「属地主義」の妖怪。  それにたいして「幽霊」のほうは、その場所のいかんにかかわらず、特定の人間にぴったり密着して離れない。たとえば『東海道四谷怪談』におけるお岩などはその例であって、お岩の亡霊はその恨みの対象である民谷伊右衛門にだけとりついている。だいいち関係のない第三者にはお岩の姿さえみえないのである。つまり幽霊は「属人主義」なのである。妖怪変化の世界についての本格的研究としては井上円了『妖怪学』という大著がある。   6月28日 ■テニスの起源■世界でいちばん古いテニス・コートは、ヘンリー八世(一四九一年六月二八日生)がハンプトン・コートに一五三〇年につくったものである、といわれており、そのテニス・コートは、よく知られているように、こんにちもなお使われている。だが、テニスというスポーツは、それに先立って、一五世紀にフランスの貴族たちが布でつくったボールをたがいに打ちあったのがそのはじまりだ。このゲームにあたって、かれらは「さあ、とってみろ!」(Tenez)と叫びあった。テニスということばは、ここからはじまっている。 ■隅田川花火のはじまり■江戸中期以降、五月二四日から八月末日まで、およそ三カ月をかぎって両国広小路に夜店を出すことが許可され、この夏のはじまりを告げるべくその第一日めの夜にいわゆる「川開き」の花火打上げがおこなわれた。明治になって太陽暦が採用されると、それにともなって月日が移動し、川開きは六月二八日となったが、花火の行事はそのままうけつがれた。  しかし、この花火のはじまりは、じつは零細なものであった。というのは、花火というものが危険物であるため、水面上でしか点火がゆるされず、夏の納涼客は隅田川に夕涼みの船を出し、その船上の客が花火であそんだのがその起源であったからだ。もっとも、江戸っ子は見栄っ張りであるから、なけなしの金を花火屋に払って景気よく花火をあげるのを競ったものであるらしい。とりわけ月見でにぎわう八月一五日には、たくさんの涼み船が出て花火を競い、それを見物する人も多くあつまった。  とはいうものの、この自前の個人的花火というのも、一時の流行であり、とりわけ、経済状況がわるくなってくると、じぶんで金を出して花火をあげさせるより、ひとのあげる花火を見るほうがどれだけトクかわからない、というしみったれた根性が一般化してきた。そこで宝暦のころからは、隅田川ぞいの船宿や料理屋が金を出しあって主催者になり、川開きの日の人寄せ行事にした、というわけ。  ついでながら、川沿いの大名屋敷でも夏になると花火を打ちあげた。武家の花火は、軍学から出たノロシの系統で文字どおりの打上げ花火、それにたいして町人の主催する花火は、仕掛け花火が主流であって、この両者は、こんにちもなお並存している。   6月29日 ■木棉今昔■木棉が日本では比較的あたらしい栽培植物であることは、柳田国男『木棉以前のこと』にくわしい。だいたい室町時代までは麻がおもな衣料品だったのである。  しかし、世界史的にみると、すでにペルーのインカ古文明のなかには木棉の織物がのこっているし、インドなどでもかなりむかしから使われていたらしい。大陸から日本に渡ってきた木棉は、桃山時代になると武将の袴などに使われるようになったが、それらは布製品として輪入されたものであって、貴重品扱いされることが多かった。日本人の世界観からいうと、世界は日本とおなじようにさまざまな島から成り立っている、という図式となっていたので、こうした輸入品は「島もの」といわれた。さらに、輸入された棉布の多くはインドのベンガル産のものであったがゆえに「べんがら島もの」ということになり、その「島」が、のちに「縞」という字にかわってゆく。「縞」とは読んで字のごとく、値段の高い繊維品ということ。いずれにせよ木棉は高価だったのだ。  原料から一貫生産というので種棉を輸入するようになっても、初期のころは、その栽培技術も貧弱だったし、ましてや織ることもできなかった。木棉織物の本格的な定着は江戸中期以降。その産地としては三河、伊予、薩摩などがあげられる。今月二二日の項でとりあげた「ゆかた」なども、こうした本格的な木棉生産によってうまれたものであった。  明治以後、日本の産業の主軸をなしたのは棉紡績。折しもイギリスはインド棉で紡績の実績を誇り、アメリカは南部の大農場で棉つくりを開始している。日本は、それを追いかけてついに木棉王国にのしあがった。一九三四(昭和九)年には二六億平方ヤードというすさまじい量の綿布を生産して世界一になったが、無限に生産できるわけもなく、世界市場も飽和点に達した。それまで増産に増産をつづけてきた日本の木綿生産はついに生産制限を余儀なくされる。生産制限の開始日一九三八(昭和一三)年六月二九日。   6月30日 ■ふたつの航空事故■一九五六年六月三〇日、TWAのコンステレーション機と、ユナイテッド航空のDC7が、アリゾナのグランド・キャニオン上空で衝突した。空は晴れあがり、見とおしもよく、気流も安定していたのに、どうしてこの事故が起きたのか、完全に謎につつまれている。この事故で、合計一二八人が死んだ。ところが、それから四年後の一九六〇年一二月に、ふたたびTWA機とユナイテッド航空機が、こんどはニュー・ヨーク上空で衝突した。この日は、ひどい吹雪で、両機は市街地に墜落して大惨事になったが、この事故で死亡した乗客数も、グランド・キャニオン事故のときとおなじ一二八人であった。 ■謎の隕石■地球のはるか外がわの宇宙からは、おびただしい流星物質が地球にむかって飛んでくる。たいていは大気圏内で燃えつきてしまうが、なかには燃焼しきれずに地上に落下するものもある。それが隕石だ。一八世紀末、科学者クラドニがこの現象の存在を主張し、学会もこれをみとめた。  それはともかくとして、現在、隕石として確認されているものは世界中じゅうで一五〇〇個ほど。大きなものとしては、南西アフリカで発見された六六トン、グリーンランドの三六トン、といったようなものもあるし、かわったものとしては、一八六八年にポーランドのプルツスクに降った隕石雨がある。これは大きな隕石がはるか上空で爆発を起し、それが砕けたものとされているが、合計一〇万個の小石がこの地方に降りそそいだ。  隕石が落ちてその結果できたのではないか、とされている隕石孔もある。その最大のものはアメリカのアリゾナにあるバリンジャー隕石孔で、直径一・二キロ、深さ一八〇メートル。孔の付近にはこまかい隕石粉が散乱している。いつこの大隕石が落ちたのかわからない。だが、最近このアリゾナ隕石孔の三倍ほどのものがカナダのケベックで見つかり、こちらが世界一となった。これだけの隕石孔をつくった隕石は数百万トンの質量のものであろう、と推定されている。  ところで一九〇八年六月三〇日、中部シベリアのタイガ地方に火の玉のような物体があらわれ大爆発をおこした。落下地点から三〇〇キロはなれたところでもガラス窓が割れ、爆風は半径二五キロにわたって森林をなぎたおし、その震動は全世界の地震計に記録された。おそらく隕石の落下にちがいない、というので、五〇年後の一九五八年、ソ連政府は正式の調査団を現地に派遣したが、隕石孔も隕石も見つからなかった。タイガへの隕石落下はまだその謎がとけていない。 [#地付き]〈一年諸事雑記帳上 了〉  この本は新たに書き下ろしたものである。 〈底 本〉文春文庫 昭和五十六年一月二十五日刊